《胡蝶恋花》

「あっ」

 食べられてしまう、とユウは喉から音だけを溢した。百メートルを越える巨体でありながら、その場の誰よりも素早いドラゴンは難なく彼女を牙で刻み、呑み込めただろう。

「ルーキーばっか、狙ってんじゃねぇえ!」

 凛々しい声で荒んだ台詞を張り上げた巫女装束の少女が、屋根から飛び降りる勢いのままにその頭を踏み潰さなければ。

 ユウの寸前で噛み合わされた牙が、耳が痛くなる程の金属じみた硬質な高音を立てる。ドラゴンの鼻先が、巫女が降ってきた勢いで生まれた風圧で浮かんだユウの前髪の先を、はらりと落とした。

[な、なんだ、今の?]

[混ぜるな、災害]

[混ぜるな、災害]

[混ぜるな、災害]

[ベータテスターの皆さん、口を揃えてどうされたんですか!?]

 意識が吹き飛んでいるユウの代弁を視聴者が行い、視聴しているベータテスターの一部が戦慄している間に、降ってきた巫女はドラゴンの髭を掴んだ。

「どぉぉおおおりゃああああ!」

 そして、砲丸投げよろしく、ドラゴンの巨体を振り回し、ぶん投げる。

 当然だが、周囲の建物は無惨に粉砕された。

「とんでったぁ……」

 ドラゴンの巨体が放物線を描いた後に、落下地点でどてどてと何度か跳ねた。ユウがそんなの信じられないと言葉を漏らすのも当然だろう。

「オイ、コラ、メノ! テメェわざわざ町ぶち壊してんじゃねぇ!」

「わざわざじゃないですしー! 人命優先でしょ、この石頭!」

 踞るドラゴン等何処吹く風と、弥兵衛と、メノと呼ばれた巫女姿の女性が口論を始める。

「町の住民避難させても、俺等が町壊したら意味ねぇだろが! ただでさえこの世界の住民はプレイヤーを毛嫌いしてんのによ! テメェは起きんじゃねえよ!」

「なによ、そんなのあいつがやったことにすればいいじゃん! もう、あんたがこの町を襲ったせいで私が怒られるじゃんか、バカ!」

 しかし、舌戦を繰り広げる間にも、身動きを見せたドラゴンに弥兵衛が砲弾を喰らわせ、メノが勾玉のようなものを弾丸の如く放ち、完全に封殺している。

「あれだけやられて、ほんとにダメージ入ってないの……?」

「うむ。入ってない」

 ユウが自然と口にした疑問に、私は事実を答える。

「かわいそう……」

「うむ」

 あのドラゴンは紛う事なき脅威だが、あそこまで間断なく攻め立てられて立ち上がる事も出来なければ同情もしたくなる。

 死して楽になるのも不可能とは、確かに憐れだ。

「いたたた」

「あ、ねーやん!? だいじょうぶ?」

 セムがキャロに手を貸されて立ち上がった。

 心配を露わにするユウに、セムはにへらと笑って手を振った。

「大してHP減ってないから大丈夫よ。てか、メノもいんのか」

「ですね。《ブレス》ならダメージ入りますし、メノさんいたら万事解決?」

 メノの《ブレス》を知る二人はそんな期待を寄せるが、コメント欄からは悲鳴が上がる。

[おい、クイーン、滅多なこと口にするな。町がなくなる]

[あの巫女さん、何者ですか!?]

[遥ちゃん、頼むからメノを町中で暴れさせるのは止めてくれ、頼むから]

[私からもお願いします、メノだけはだめです]

 コメントが必死過ぎて泣けてくる。

「えーと、メノさん? の《ブレス》は町中で使っちゃだめとコメントが寄せられてましてよ?」

「――っ。手っ取り早いのに」

「この人舌打ちしましたよ!?」

「セムさんとメノで、落下ダメージ溜めてもいいけど、それこそ町は瓦礫の山よ?」

「もっと穏便な手段はありませんかね、ねーやん!?」

「えー、めんどくさー」

「もうちょっとがんばって!」

 弥兵衛とメノがドラゴンを抑えているのを良い事に、作戦会議の皮を被ったコントが始まる。ベータテスターの二人以外のプレイヤーも攻撃を再開して頑張っているのだから、呑気に話してばかりいるんじゃない。

「町の外に誘導しますか?」

 キャロが建設的な意見を述べた。

 メノはドラゴンを倒せるが、町の巻き添えが懸念される。それなら攻撃対象を町から追い出すというのは、普通に考え付くと思うのに、やたらと紆余曲折した感がある。

 ユウとセムが揃って同じ顔で、キャロを見る。

「その手があったか!?」

「その手があったか!?」

 この二人、馬鹿馬鹿しい程に仲が良いな。

「その手があったかではなくて、先ずその手を思い付いてほしかったですよ」

 泉が涌くような軟らかくて爽やかな幼い声が三人に降ってきた。

 その声の主は、小さな足でとん、と一音石畳を鳴らして降り立つ。

 その少女は八才の見た目をして、メノが着ている巫女服にも似た、しかし細部が異なり、五行説に沿った五色を揃えた漢服を着ていた。

 その少女は恭しく、袍に仕舞われた両手を合わせて、一礼をする。

「三月ぶりですね、セム殿、キャロ殿。そして新しき我が同朋と同朋を従える貴女には、お目見え出来て大変嬉しく思います。我は皇龍ファンロンと申す者、管理AIが第五にして、ベータテスターの皆様と一月を共に致しました。どうぞよしなに」

「あ、あっ、あぁ……」

 ユウ、キミはそんなに動揺してないで名前くらい返しなさい。

 礼儀正しく、それでいて貴い光を纏うような皇龍に、すっかりあてられてしまっている。

 しかし、私としても、私と同じく名前を与えてもらった同僚に会うのは感慨深い。

「私はかしこ。この名を授けてくれたユウがこんなでなんとも申し訳ないが、どうかよろしく頼む」

「ふふっ、いいのですよ。どうやら彼女は人見知りのご様子なので、少しずつでも慣れて頂ければ幸いです」

 にこやかに微笑む皇龍にユウはたじろぎ、セムの陰に隠れる。

「純粋な善意だけのファンファンの前に穢れきったつむむが浄化されつつある」

「消えるー、浄化されたらわたしは跡形もなく消えるー」

「そんな、紡岐さんみたいな善人が浄化されて消える訳ありませんよー」

「ぎゃあああっ!?」

 キャロの本心からの一言が止めになったらしく、ユウが地面に平伏した。

 善意に弱すぎだろう、こやつ。

[遥ちゃんの過去に一体なにが……]

「い、いや、それよりも! みんなががんばってるんですから、あのドラゴン倒しましょう! そうしましょう!」

 ユウが必死に話を本題に戻して、自分の話題から回避するのに全力を出している。

 始めからそのやる気を見せておけば、こんな目にも合わなかったものを。

「うむ、紡岐さんのメンタルがやばいからそろそろやるか。で、やっぱ町中でメノを暴れさすのはダメなんか、ファンロン?」

 少しは真面目になったセムが皇龍に現状を確認する。

 皇龍は少し呆れた態度で返した。

「駄目に決まっています。中央広場に住民全てを集めて、我とメノ殿で二重結界は張りましたけれども町全体までは守れません。町を壊せば、彼等の生活は立ち行きませんよ」

「確かにそこは開き直れんわな。しゃーない」

 流石は自己主張の激しい問題児ベータテスターをラストクエストへ導いた方だ。

 この癖の強いセムの意志を自然と無難なものへと導く皇龍の手腕に惚れ惚れする。

 そこで、セムはキャロに水を向けた。

「つまり、キャロさんの出番と」

「ですね」

 キャロはスタンドマイクを構える。電子機器はこの世界ではまだ発見されてないので、それは当然、ベータテスターのハンドメイド装備である。

 キャロは静かに息を吸い、自らを励ますように頷き、胸を掌で撫でる。

《窓辺の百合に恋す蝶 いつか散るとは知りますか》

 歌声が空気に染み渡っていく。

 〈拡声〉のスキルによって、それは儚い程に小さくても、届けたいと想った先まで何処までも届く。

《はらりひらりと恋す蝶 どこへ行くかは知りません》

 鼓膜を撫でる声に聞き入っているのか、ドラゴンも、プレイヤー達も動きを止める。

 キャロのウィスパーボイスは、爛漫の桜のように香りゆく。

 彼女がリズム取って体を揺らす度に、禁色のスカートからオオムラサキが一頭、また一頭と飛び立つ。それらはドラゴンの方まで行くとその羽から鱗粉を散らす。

 キャロの生み出した艶やかな静寂を打ち破ったのは、それを目視したメノと弥兵衛だった。

「やばっ。全員逃げろーー!!」

「バカキャロ!? お前、歌う前に一声かけろや!?」

 脱兎の如く逃げ出す二人のベータテスターに、ユウを含めてルーキー達が唖然とする空気が漂う中で。

《やがてわたしも知りますか 花に恋する蝶のよに》

 キャロが三番目の八小節を歌いきり、一呼吸置く。

《庭に咲いたわたしは一人手折られ窓辺に挿されたの

 誰より美しく咲いたのよ

 誰より甘く香るのよ

 そんな孤高のわたくしはされどそれゆえに

 今は窓辺に孤独なの――》

 転調。運命に翻弄されるままに悲愴に悲嘆に悲痛に、キャロの声が転がり回る。

 その声に、身を引き裂かれるように、逃げ出さなかったプレイヤー達が身を捩り、泣き出し、或いは恍惚と体を揺らめかせる。

 ドラゴンが鳴いた。海を叩く鯨のような声だった。彼の化け物の声を聞いたのは、この場にいる者誰もが始めてだった。

「相変わらず、見事な迄に無差別ですね、キャロ殿の《胡蝶こちょう恋花こいばな》は」

 皇龍が呆れきった意見を述べた。

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