Mission2 通った過去。通る未来。立ち止まれない『現在』

 あの手を離さなければよかった。彼を傷つけて、後悔させても我が儘を言えばよかった。死んでしまったら会うことも話すことも出来ない。


 無茶ばかりする男の子だった。ベテランのオーグナイザーだって腕組みして考えるような作戦にだって、ふらっと参加しちゃうくらい危ない子。


 死んじゃったら終わりなんだよ。無茶ばかりしないで、と不安になったりもしたけれど、気の無い返事や肩を竦めるばかりでちゃんと向き合ってくれたりはしなかった。


 ああ、この子は死んじゃいたいんだなって思った。


 産まれたときからヴェクターと戦うことを義務付けられた少年。


 状況が変わったからなんて勝手な都合で、まともな訓練課程も修了せずに、戦場に立たされた子供。心はぐちゃぐちゃになってたっておかしくない。


『大人はみんな怖がってるのに、子供の俺が戦ってたら格好良いでしょ?』そんなセリフを儚く、無邪気にはにかんで彼は言った。


 お調子者っぽいサムズアップの仕草で誤魔化して、本当は怖いのを見せないようにしていたムーンチャイルド。


 それを指摘する事なんて出来なかった。酷い事ばかりを強いられる彼が、ギリギリを保っていられるプライドだって解っていたから。


 それを取り上げて叩きつけるような傲慢を、ぬくぬくと育った私に出来る筈ない。そんな事したら、彼は本当に壊れてしまう。それが怖くて堪らなかった。


『そうだね、イザヤは凄いよ。格好良い』そんな上辺の賞賛で彼――オイガミ・イザヤを理解したつもりでいた。


 私は君のことは何だって解ってるんだよ。大好きだから。そんな理解ある異性を気取って。


 本音を言えば戦って欲しくなかった。でも、彼にはそれしかない。それだけがオイガミ・イザヤという造られた少年のアイデンティティーだった。


 だから私はそれを支える立場でいようと思った。余計な事だったかもしれないけれど、お父さんの会社が製造するA.U.Gの新型や、色んな武器を勧めたりした。私が彼にしてあげられる助けなんてそれぐらいしかなかったから。


 月にはたっぷりの武器が送られる。地球のあらゆる企業が月という防衛線を物凄く強くするために。だから、そこで戦う彼には命を預ける道具を選り好みする権利ぐらい、ちょっとだけ許されていた。


 スペックを語るためにA.U.Gの事を沢山勉強した。間違ったことを彼に教えて、大変な目に遇わせてしまわないように。


 それで褒めてもらったり、『ありがとう』とお礼を言われるのが凄く嬉しかった。A.U.Gの事でお喋りすると、彼がキラキラと目を輝かせて楽しそうにするのが好きだった。


 戦うための手段であり、それを強いられているのだとしても、ロボットという存在は、やっぱり年頃の男の子を不思議と擽るんだなって思った。


 私自身も育った環境や周囲の影響もあって、人並み以上にA.U.Gが興味深かったし、ハンガーや工場を覗くと宝箱の中にいるみたいで楽しかった。


 けれど、一番の要因はイザヤが好きだからだ。


 ハンガーに収容されたA.U.Gをベンチから見上げてお喋りする時間は、凄く特別で大切な時間だった。


 遊びに行く約束をした時も、初めて手を繋いだ時も、私達の傍にはいつもA.U.Gがあった。鋼鉄の巨人は、私達の絆として静かに、とても綺麗に輝いていた。


 この手を離したくない。ずっと握っていたい。そう思っていたのに。


 なのに、どうして。どうして、離してしまったんだろう。


 月面の都市で鳴り響くサイレン。怯えた人達の波。廃墟となって燻る街並みを映した沢山のニュース。


 その中で彼は小さく手を振っていた。強気になろうとする寂しそうな笑顔を浮かべて。


『俺は月に残るよ。俺達の大切なこの場所を守るために。またね、アンリ……』


 二度と会えない様に呟かないで。


 私とそんなに変わらない背中。子供の、小さな背中だった。


 傍に居てよ、イザヤ。私の手を取って、お願いだから。


 炎が街を焼いていく。彼と歩いた場所が灰になっていく。そして、そこへ行く彼自身も――飲み込んでいく。


 どうして手を離してしまったんだろう。


 何でもっと我が儘にならなかったんだろう。


 彼を困らせても、プライドを傷つけても手を離すべきじゃなかった。


 死んじゃったら終わりなんだよと言ったのは私なのに。


 彼に生きたいという気持ちを起こさせたのは私なのに。


 ずっとずっと死にたがっていた彼に、生きて欲しいと望んだのは、私の身勝手なのに。


 好きだから。大好きだから。傍に居て欲しいから。だから、戦うことを怖がらせてしまったのは私のせいなのに。


 それなのに。なのに、私は彼の手を離してしまった。私が――私が彼を死なせてしまったのも同じじゃない――。



 イスルギ・アンリは息を呑んで目を覚ました。目元がヒリヒリして、枕代わりにしていた腕が涙で濡れている。


 車の後部座席で横になっているうちに、すっかり眠ってしまった。休むように何度も促されてようやく眠ったのに、寝過ぎてしまっては申し訳ない。疲れているのは自分だけじゃないのに。


「ごめんね、ドロシー。私、寝すぎちゃったみたい」


 むくりと起き上がるアンリ。目元を擦りながら一呼吸する。後悔ばかりを映した夢に、胸元がざわついていた。涙の跡が残っていたら心配させてしまうだろうなと、顔を何度も拭う。


「まだお休みになってください、アンリ。着く頃に声をお掛けしますので」


 運転手を勤める秘書の女性――フランシスカ・〝ドロシー〟・マイヤーズは主人であるアンリを気遣った。まだ休息するように促し、澱のように溜まった疲れを解して欲しいと望んで。


「ううん、もう平気! 充電させて貰った分、しっかり頑張らないとね!」


 アンリは気丈に鼻を鳴らし、小振りな胸を軽く叩いて見せる。


 片目が隠れるようなセミロングの黒髪。褐色の瞳は溌剌とした輝きに爛々としている。乱れた髪に指を通しながら、白い歯を見せる彼女の笑顔は底抜けに明るい。


 常に自分らしくいる事も責任者として大事な努めだ。いつも機嫌が変わったり、調子が違ったりしてはいけない。秋の空みたいにコロコロ変わるような態度だと、部下として付いてきてくれる人は物凄く接し辛いだろうから。


「あ、ねぇ、ドロシー。私、ヨダレ垂らしてない? 大丈夫だよね?」


 恥ずかしそうに口回りを指で拭う。ホルターネックのシャツを引っ張って見回したりするけれど、どうやらシミなんて無いみたいだ。


 これからお堅く在る事を信条とする役人に会うのに、『あ、コイツ寝てやがったな』と見抜かれてしまっては印象が悪い。纏まっている話も、ちょっとした感情で拗れてしまったりするのが、仕事の厳しいところだ。


「大丈夫ですよ。アンリがご立派にお勤めなされている姿を御両親は自慢に思っているでしょう」


 ドロシーは普段の冷涼な美人といった目元を柔らかに綻ばせ、アンリの立場に寄り添ってくれた。何時だって味方で、そっと褒めてくれる彼女をアンリは心から好いている。子供っぽいと自覚していても、嬉しいのだからどうしようもない。


 照れ隠しに微笑みながら、窓の景色へと視線を移す。ひび割れた鏡のようにバラバラになった土地を、幾重にも張り巡らした道路や橋で繋いだ街が見えた。立ち並ぶように建造されたビル群は、企業の背比べみたいで客観視する分には中々愉快かもしれない。


 流れ過ぎていく街並みと、その成長速度は比例している気がする。苛烈なまでに凄まじい技術競争は、まるで噛みつき合う獣みたいだ。血こそ流れはしないけれど、それに代わって莫大な金や優秀な人材がドクドクと音を立てて都市には溢れている。


 かつて国という体裁を持っていた時代に、その一部だった都市。今では外部とではなく、内部で奪い合う形での戦争が恒常化している。企業の戦争は解りやすい暴力でやっつけるのではなく、金や駆け引きでゆっくりと弱らせてから食べてしまうという嫌らしいものだ。


 アンリは噛みつかれこそしていないが、出方を窺うような突っつきを何度も受けていた。これは食べられるかな、どうかなと、それこそ気にしていたらキリがないくらいに。


 A.U.G製造開発において最も先進している大企業イスルギ重工の社長である彼女には、そこらのコロニー指導者よりも敵が多かった。その分に味方も沢山居るのだけれど、協力関係にある旨味が無くなってしまえば、そのままの関係でというのは難しい。利益を上げられない企業協力なんて本末転倒も良いところだ。


 父はこの重荷を飄々とした振る舞いでこなしていた。それを支えていた母は凄く理解のある良き妻であったに違いない。その立場になって初めてちゃんとした理解を得て、二人を更に尊敬するようになった。大人になるのは大変なことで、大人であろうとするのはもっと大変なことだ。


 家に帰ってまで仕事の話しをされたら、両親はきっとゲンナリするだろうなと思って、気兼ね無い談笑ばかりしていたのがちょっぴり惜しい。今となってはもっと色々訊いておけば良かったなと、寂しく思う。両親を喪った今となっては――。



 二年前に突如として降りかかった不幸は、ただの少女であったアンリの立場を大きく変えてしまった。


 民間輸送艦の大規模な事故。それにアンリの父親である先代社長――イスルギ・アガヤと妻のイスルギ・マウラは乗っていた。千人以上の乗員・乗客全員が死亡するという今世紀最大の悲劇は、色褪せることなく語られ続けている。


 事故の原因は不明。真っ二つにへし折れた輸送艦は、デブリとなって解体処理も間に合わないまま、凄惨な姿で宇宙の暗闇に未だ漂っている。


 両親の遺体は見つかっていない。沢山の身元不明者達の一部として、捜索は続けられている。二人は衝撃によって吹き飛ばされてしまったのだろうか。それとも艦内の酸素によって広がる高熱の渦に焼かれ、他の被害者とすっかり融け合ってしまったのか。


 遺体の行方は誰も知らない。事故の究明に打ち込む統合政府や、目的地であった月の運営権を持つU.N.Sが躍起になっても。


 ただ、もう二人はいないんだと、アンリは遺影を抱えながら遺品だけを詰めた棺を前にそう思った。せめて愛用していた品々を供養して、故人になったと割り切るために行われた葬儀だったのだけれど、父や母だとはっきり割り切れる遺骨は一欠片として娘には与えられなかった。


 その代わりに、とでも言うように当時十五歳になったばかりのアンリに与えられたのは、イスルギ重工の社長という重いポストだった。


 代表取締役である叔父に経営と業務執行の全てが任される話しもあったのだけれど、代表権を集中させて今回のような不測の事態が再び生じれば、もっと酷い混乱になるんじゃないかと危惧した株主達はアンリにも立場を与えるよう勧めた。


 一見、遺族として権利の譲渡が滞りなく行われたようだけれど、実際のところ要するに彼女は利益を守るための人柱だった。企業を守るためには血を流す人間がいなければならない。父がそうしたように。


 その事実にアンリは苦しめられた。父の替わりを埋めろと責められているようで。


 大企業のポストを引き継いだって嬉しくなんかない。社長の立場を望んだ事なんて一度もなかった。父のいない社長室は冷たい空気に満ちていて、ひたすらに悲しかった。傍に居る心地好さを思い出せる分、虚しさばかりが込み上げてくる。


 重鎮を失ったイスルギ重工はその替わりを求めていた。形ばかりとは言え、トップに立つ者は利益を生み、それを守らなければならない。そのためには空白の物悲しさに軋む社長椅子を埋めなくてはいけなかった。


 でも、そこに座ってしまったら。本当に父と母は帰って来なくなるのではないか。彼女はそう怯えた。


 もしも、二人がひょっこり戻ってきたら。その時に座る椅子と、寄り添う立場が無かったら、きっと二人は悲しむに違いない。彼女はそう思って、自室に引きこもる日々を過ごした。


『お帰りなさい』と言える場所を取っておいてあげたかった。両親の居場所を奪うような真似をしたくなくて。


 そんな事をしても戻ってくる筈がないのに。解りきっている筈なのに、どうしてもそこに座れなかった。生きているという希望を自分で潰してしまう気がして。


 社長なんて務まらない。ただ、ひたすら両親に会いたかった。


 父のチクチクする無精髭と、母の暖かい胸が恋しかった。日向で涎を垂らして幸せそうにしている父の寝顔と、それを優しく見守る母の姿が、ぼんやりとした遠い思い出になってしまった。


 葬儀を終えてからは塞ぎこむ日々が続いた。何もしたくないのに、心だけは焦っていてどうにかなってしまいそうな日々が。


 泣き疲れては眠り、目が覚めては泣くことを繰り返し、閉めきった自室では、どれだけの時間が流れたのかすら定かじゃなくなっていた。


 イザヤを喪った時、傍で励ましてくれた両親。その二人を一度に喪い、痛みに寄り添ってくれる人はいなくなった。事実上の経営者として代表取締役を勤める叔父に、塞ぎこんだ姪を励ますゆとりは無く、グループの会長である祖父も息子と義娘を喪った事実に苦しみながら、建て直しに奮闘していたから。


 孤独に押し潰されそうだった。世界から切り離されてしまったような心の解離があった。何もかも悪い夢で、今度目を覚ました時には両親もイザヤもいるのではないかと、非現実的な逃避すらしていた。


 閉じきった部屋の扉を静かに叩く音。息苦しい膜に包まれたような日々で、その音は何度も聴いていた気がする。


 虚ろな瞳で呆然と扉を見詰めたりするけれど、それに応える気持ちは、すっかり欠落していた。


 誰だろう。私なんかに気を留める暇なんてある人居ただろうか。忙しさの合間に訪ねてくれる誰かがいるなんて思いもしなかった。


 思い付く顔を浮かべる。葬儀の参列者からも覚えのある人を探す。誰と喋り、誰と知り合っただろう。


 そうだ。とても気になる人がいた。あの人は誰だったんだろう。遠くで私達を悲しげに見ていたあの人は――。


 呆然とする私を抱き締め、『大丈夫だからね。何も心配しなくて良いんだよ』と言ってくれた叔父。


 ずっと険しい表情のまま、黙って込み上げてくるものを押さえ付けていた祖父。


 その悲しみを、まるで自分のせいであるかのように悲痛な面持ちで見ていた喪服の女性――あの人は誰だったのだろう。


 きっとそれは――これから教えてくれる。


『……今、お目覚めになっていますか? 物音がしたので、もしかしたらと思って……少しだけ、話しをさせてください……。初めましてアンリさん。私は御父様の秘書を務めていたフランシスカ・ドロシー・マイヤーズと申します』


 彼女は話してくれた。自分の事を。そして、父との関係を。


 ――……貴女は何もかも変わってしまった世界に、酷く戸惑っていると御察しします。同じ痛みを知ることは出来ませんが、僭越ながら寄り添わせて下さい。……とてもお辛いでしょう。私も御父様と御母様には大変お世話になりましたから……。


 ――まるで心に穴でも空いてしまったかのような、虚しさですね……大切な人を喪うのは、まるで自分の一部を失ったように苦しいです。……ですが、貴女がその全てを受け入れ、飲み込めるだけの大人になる時間を社会は与えてくれません……。


 ――……『未来に追い付け』と御両親は頑張ってきました。半ばで止まってしまったその夢を引き継いで、〝月に遺された未来の技術〟に追い付こうと走れるのは貴女だけです。イスルギ・アンリという娘の他に、誰がやってもそれはただの代わりでしかないから……。


 ――貴女以外の誰かでは夢を継げません。それこそ、本当に御二人を喪ってしまう。意思を継げる真っ当な存在は、貴女の他にはいないんです。……私は秘書として、その続きを傍で支えられるなら、それ以上に嬉しいことはありません。


 ――……どうか、イスルギ・アガヤとイスルギ・マウラの夢を消してしまわないで欲しい。此処に居ると……傍に居るのだと……あの二人の夢は決して無念なんかではないと思わせて欲しい。……だから――社長……宜しくお願いします。


 葬儀に加わらずにいたあの女性が、父の秘書だったと初めて知った。どうしてそんなポストに着いていた人が、参列しなかったのだろう。あの悲しげな瞳は、後ろめたい何かを潜めていたからなのだろうか。両親の死に関わる何らかの事情を彼女は知っているのだろうか。


 ――違う。考えを巡らせるのは彼女への疑心じゃない。今、自分を部屋から出そうとしてくれているその姿勢にこそ、意識を向けるべきだ。


 ドロシーが紡いだ言葉は、アンリの再起を心から望んだ必死な訴えだった。二人が目指していたものに、自らの願いを重ね、そこへ引っ張ろうと手を伸ばしてくれていた。


 説得に訪れたのは、今回が初めてじゃないと解っている。扉を叩き、何度も反応を窺っていたと。何もかも悲観して、気にも留めようとしていなかった今までの身勝手が恥ずかしかった。自分ばかりが不幸だなんて、とんでもない自惚れだった。


 ドロシーだって泣いている。啜り泣きも、言葉を詰まらせることも無かったけれど、確かに彼女は泣いていた。


 涙を流すだけが悲しみを表す訳じゃない。ひたすらに堪えて、食いしばる悲しみだってある。誰かの目に留まらないように、自分自身で解きほぐしていかなくちゃいけない悲しみが。


 きっとドロシーが抱えている喪失感は、葬儀の場にいた皆とは違うんだろう。だから遠くで両親を見送るだけで、その内へ入って行こうとはしなかった。きっと誰とも自分の苦しみを共感できず、癒せないと彼女は思っていただろうから。


 けれど、自身が孤独の悲しみの中にあったとしても、酷く悲しんでいる人がいるのなら、手を差し伸べなくてはいけない。


 ドロシーにはそれができる強さがあった。だから、今こうして打ちひしがれた少女を励まし、寄り添ってくれていた。自らの苦しみが、誰かを助けないという理由にはならないから――。


 それを無視して応えないなんて傲慢が、出来る筈ない。支えようとしてくれる説得の中に、ドロシーの苦しみも感じていたから。


 それを汲み取らないなら、伸ばしてくれた手を掴む権利なんてない。やらなくちゃいけない事があると気付いた。


 ――月へ行く。行かなくちゃいけない。両親が最後に行こうとして、途絶えた夢の続きを目指すために。


 けれど同時に、初めて好きになった男の子と、誰よりも愛していた両親を喪ったのも月だという事実があった。


 そこに辿り着くためには、社長として企業を守り、走り続けなくちゃいけない。あの星に、何もかも奪われるままでいるなんて出来ないから。


 両親が目指した夢の形。〝月に眠っている未来からの贈り物〟。辛いことばかりだからといって立ち止まり、放って置いたりしたら二人を悲しませてしまう。


 A.U.G開発のきっかけであり、ヴェクターに対抗できる技術がどっさりと詰め込まれた超兵器――【クラインの飛来者】を解析する歩みは決して止めてはいけなかった。


 父の言葉を思い出す。これが人類の到達する目標だと。そしてここから産み出される技術が人々を助けると。ヴェクターの天敵となる〝未来からの来訪者〟をぞんざいになんて出来ない。


 その未来に追い付く。イスルギ重工の経営理念であり、その存在理由を大事にして守ってきた家族。今度は――自分の番だ。


 それを引き継ぐのが、愛した両親にできる最後の親孝行だ。二人が目指した夢を私が果たさなくちゃいけない。


『アンリは何だかエンジンみたいだね』とイザヤが言っていたのをふいに思い出す。


 元気だね、という褒め言葉としては物凄く微妙だった気がするけれど、好きな子に言われて、そうあろうと決心した。


 私はもう絶対に止まらない。走り続けて何処までも突き抜ける。遥かな未来の先を目指して――。


 アンリはおもむろに立ち上がり、勢いに任せるまま扉を開け放った。明るい廊下は眩しいくらい輝いていて、素足に触れるフローリングの冷たさは、ぼやけていた気持ちを引き締めてくれた。まるでパズルピースのようにバラバラだった自分が、ぴったりと組合わさって一つに成ったようだった。


 不意討ちをくらったドロシーが、びっくりして目を丸くしている。けれど、それはすぐに穏やかな微笑みに変わって、アンリとの出会いを柔らかに受け止めていた。


『ご迷惑を御掛けして申し訳ありませんでした。改めまして、イスルギ・アンリです。イスルギ重工の社長として相応しい人物であろうと研鑽して参りますので、至らない点をどうかご助力下さい。宜しくお願いします、マイヤーズさん』


 ボサボサの髪と、くたびれたパジャマ姿のまま、アンリは深々と頭を下げた。父の秘書として様々な事案に関わった彼女に、遜色無く相応しい人物でありたいという意識を口にしながら。――今のだらしない身嗜みは、こっそり棚に上げて置くとしよう。


『こちらこそ宜しくお願いします、社長。微力ながら誠実に職務を務めるとお約束します。我々が引き継いだ夢を必ず叶えましょう。……それと、私のことは是非ドロシーとお呼び下さい。先代は親しみ易く、そうお呼びになっていましたので』


 ドロシーが慎ましく頭を下げると、綺麗なブロンドが滑らかに垂れた。シニヨンに纏めているから、長い髪がばっさり乱れることがなくて、それが何となく大人っぽいなとアンリには映った。自分とはまるで月とすっぽんだ。……まずは身近な月を目指して頑張るとしよう。


『……頑張って大人になります』


『……? 年齢的な問題は差し置くとして、社長のご苦労は大人に充分比肩すると存じますが?』


『そ、そうかな?』


『そうですよ』


 ドロシーは何やら良い方向に受け取ってくれたらしく、アンリは照れながら頭を掻いた。そういう意味だったんじゃないんだけどな、と思いつつも褒めてくれたなら素直に喜ぶとしよう。


 傍目には凸凹な社長と秘書かもしれない。だけど、夢や理想を重ねるならそっちの方がちゃんと噛み合うに決まってる。


 お父さん、お母さん。私はもう大丈夫だよ。大切に抱えていた夢なら任せて――アンリはドロシーの手を取り、温もりのなかに想いを重ねた。


 独りでは決して辿り着けない場所へ。月を目指して、歩み出す。支え合える人が傍に居るのなら、それは必ず叶うだろうから。


 この喜びは、かつてイザヤに向けていた好意によく似ていて、アンリの胸は締め付けられるような懐かしさに熱く高鳴っていた。


 喪った君が、思い出の中で息づいている。優しくて暖かかったあの日々が。

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