自主企画用「掌編小説ロレンス」改訂版
淺羽一
第1話:3000字版
ハロー、Mr.ロレンス。結局、君は最後の最後まで僕に返事をくれる事はなかったね。
ねぇ、Mr.ロレンス。君は覚えているのだろうか。僕が初めましてと君へとこんな風に手紙を書いたのは、丁度あんな風にすっきりと晴れた夜空に浮かぶ月がお日様みたいにまん丸で、僕がこの世界に生まれ落ちてからぴったり十五年が経った夜の事だったね。
あのさ、Mr.ロレンス。今となってはもう、君がちゃんと信じてくれているのかどうか、残念ながら僕には確かめる術もないのだけれど、あの時の僕には本当に、あんな事をしでかすつもりなんて無かったんだ。
お父さんはなるほど確かに恐かったけれど、本当はとってもとっても真面目な人だったんだ。だからたまに僕を叱って叩くのも、それは全部、知らない内に僕が何か悪い事をしてしまっていたからで、そのせいでお母さんが僕を庇ってお父さんから叩かれるのも、つまりは要するに全部、僕が何か悪い事をしてしまっていたからなんだ。
だから、ね、Mr.ロレンス。何もかも色んな事に疲れ果ててしまったお母さんがあの日、家族の誰にもさよならを告げずに首を吊ったのも、突き詰めてしまえば一つ残らず全て何もかも、僕がとてもとてもとても悪い子供であったせいなんだ。
お母さんは、こんな僕を生んでくれただなんて信じられないくらい、まるでテレビや映画に出てくる女優やモデルさんみたいに綺麗な人のはずだったんだ。だってその証拠に、僕達が一緒に街を歩いていれば、沢山の人が男女を問わずにお母さんを振り返ったし、お母さんもまた一杯の視線を浴びながらも、しゃんと胸を張って堂々と振る舞っていたんだから。そしてそうだったからこそ、僕はあんな風に丸い眼球が飛び出すほど両目を開いて、紫色の長い舌をだらんと垂らして、いっそ廃墟になった遊園地のお化け屋敷に置き忘れられたホラー人形のように変わり果てたお母さんを、決して誰にも見せちゃいけないって思ったんだ。だってきっとお母さんはそんな事を望んでいなかったはずだから。せめて僕にもう少し化粧の知識でもあれば違っていたのかも知れないけれど、悲しいかな僕にはろくに口紅の塗り方も分からなかったんだ。
告白するよ、Mr.ロレンス。これは多分、まだ君にも言っていなかった秘密の話なんだけれど、あの日、夜遅くに仕事から帰ってきたお父さんは空中で気を付けをしたままのお母さんを見て、何を言うよりも早く大声で泣いたんだ。ねっとりとした油まみれの両手で汗ばんだ顔面を何度もこすって、まるで母親を呼ぶ赤ん坊のようにわんわんと泣きながら、四つん這いになってお母さんの足下へすがりついたんだ。傍らで膝を抱える僕の姿なんて、いっそ最初から生まれていなかったみたいに。
お父さんはね、何度も何度も声にならない声で言ったんだ、多分きっと「どうして」と。
僕はさ、Mr.ロレンス。そんな両親の姿を間近で眺めていたはずなのに、それこそどうしてなのかやけに遠く離れた場所からオペラグラスを片手に舞台を見守る観客めいた気分になったんだ。
あぁ、この二人は本当に素敵な夫婦だったんだ、そんな事をあたかも事前に与えられたパンフレットを読んでいるかのごとく自然と思ったんだ。そして僕は、気付けば立ち上がって両手を思い切り叩いていたんだ。手の平と手の平をぶつけると言うよりも、手の骨と手の骨で殴り合うみたいに強く強く叩いたんだ。
肉まんのようなお父さんの拳は、だけど鉄球さながらに黒くて硬くて、たった一発で僕の前歯は見事に四本、ばきっと折れて飛んでいったんだ。それからさらに二度、三度……。その度に鼻は折れて顎は割れて、僕はいつしかまともに息をする事さえ出来なくなったんだ。でも、それでも僕は、最後に左腕をぽきんと足で踏み折られるその時まで、両手を叩く事を止めなかったんだ。
お父さんは泣きながら叫んだよ。「どうして」と。「どうしてお前じゃなかったんだ」と。「どうしてお前なんかが」と。そして最後に「どうしてお前はまだ生きているんだ」と。
僕はお父さんの絶叫と共に自分の顔へ降り注がれる液体の臭いを、何故だか痛みよりも何よりもはっきりと感じながら、血に染まった視界を涙で洗って言ったんだ。「どうして」と。
お父さんは勿論、答えてくれなかったよ。と言うよりも、おそらく聞こえてさえいなかったよ。だって多分、僕はちゃんと声を出せてさえいなかったから。だとしたらやっぱり、悪かったのは僕なんだ。
教えておくれよ、Mr.ロレンス。僕は一体、どうすれば良かったんだろう。僕はただ、一度で良いからちゃんと名前を呼んで欲しかっただけなんだ。甘いケーキも、楽しいおもちゃも、親子三人で川の字になって眠れる夜も、そんな幸福はどれ一つとして信じるどころか願おうとさえしなかった代わりに、たった一度で良いから優しく名前を呼んで、そしてもしも叶うならわしゃわしゃって頭を撫でて欲しかっただけなんだ。
君は信じてくれるかい、Mr.ロレンス。僕は良い子であろうとしたんだよ。それで駄目ならもっと良い子になろうとしたんだよ。それでも駄目ならもっともっともっと……。
何が良くて、何が悪いのか、馬鹿な僕には最初から理解するなんて出来なかったけれど。だけどだからこそ僕は、何度も何度も失敗してはお父さんを怒らせながらも一つずつ一つずつ要らない部分を僕の中から削って捨てて、そうして少しでもせめて僅かでも本物の「良い子」に近付こうとしたんだよ。
だってね、Mr.ロレンス。誰かに嫌われるのは、つまり僕が悪い子だからなんだろ。だってだって、良い子を好きになる事はあっても嫌いになる理由なんてありはしないだろ。
……だけど、だとしたら、Mr.ロレンス。僕の倍はありそうな背中を小さく丸く震わせて、お母さんの亡骸をそっと畳の上に下ろそうとしていたお父さんを後ろから包丁で刺して、何度も何度も残った右腕までも折れそうになるほど力一杯に突き刺して、そうしてそのポケットに入っていたライターを使って部屋に火を付けた「悪い子」の僕は、もう永遠に誰からも好かれる事は無いんだろうね。その証拠に、考えつく限りのものを削って捨てた僕にはもう、そんな罪以外に残っているものが無いんだよ。
本当にさ、Mr.ロレンス。今夜は本当に月の綺麗な晩になったね。右の瞼を閉じるだけで簡単に闇を知れる僕の目にも、それはとてもはっきりと見えるんだ。お日様の光は強すぎて二度と見られない僕の目でも、それだけは唯一ちゃんと見られるんだ。そしてそうしたら片側からしか涙を流せない僕の目なのに、その時だけはふわりと両目に温もりを感じられたんだ。だからもう、僕はそれだけで満足なんだ。
さようならだね、Mr.ロレンス。この世界で僕の目にしか見えないインクで君宛にしたためた手紙に、やっぱり気付いてくれる人はいなかったけれど、それでも僕はこんな風に君へと手紙を書ける時間がとても幸せだったんだ。だから最後に君へと伝える言葉には、もうこれ以外に無いと思うんだ。
ありがとう、Mr.ロレンス。今から僕は旅立つけれど、いつかもしも、顔も知らない君と本当に出会う事が出来るなら、僕は今度こそ、言葉にならない声だけどきちんと目を見て伝えるから。
ありがとう、Mr.ロレンス。ありがとう、Mr.ロレンス。だから叶うならどうかその時まで、せめて君だけは僕を忘れないでいておくれよ。
〈了〉
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