第89話 男装女子は、屋敷にいる

「もう少ししたら、お父様と一緒にお茶にしましょうか」

 お母様は私にそう言う。


 お父様はあの事件以降もいつも通り領主館に通い、ユリウス様のお側に控えている。


 私は。

 戻って来たお母様と共に、屋敷で刺繍をしたり、ピアノを練習したりしていた。


 自分自身で思ったからだ。

 もう、アルには私が必要ないのだ、と。


 あの暴漢に素手で立ち向かい、傷も無く、むしろ取り押さえたその手練に、私の『護衛』としての必要性はもう無いのだ、と知ったからだ。いや、気付いたからだ。


 私自身が、恋に落ちたことを。

 あの日。 

 あの第二書庫で。

 恋に落ちてしまったことを、気付いたからだ。


 だからもう、自分からはアルには会わない。


 お父様も、別に私を領主館に誘わない。お母様はなんだか物問いたげに私を時折見るけれど、特に口に出しては何も言わなかった。アルだってそうだ。あいつからの音沙汰は無い。手紙も使者も来ない。


 なぁんだ、と思う。

 自分にとっては、『領主館に行く』ことと『アルの護衛をすること』は、ものすごく意味のあることだったけれど。

 それは、自分だけのことで、他の人にとってはたいした意味を持たないのだ、と実感した。


「お父様は今日、まだ領主館に行かないの?」

 珍しいな、と思って尋ねる。お母様は口を尖らせ、「そうなのよ」と私に言った。

「行かないなら、一緒におしゃべりしましょう、って言ってるのに『僕は僕で準備が』とかおっしゃるのよ」

 不満そうなその口ぶりに、しまったと心の中で思う。

 この話はきっと長い。


「ウィリアム様がユリウス様のことを別格で大切に思っておられることは、お母様だって知っているわよ。だけどね、家にいるときは、お母様のモノなの。お母様の、ウィリアム様なんだから、もうちょっと……」

 案の定、お母様はぶつぶつ言いながらも、ちくちくと絹に針を刺していく。どうやら、お父様のスカーフに何か縫い取りをしているようだ。

 なんだかんだで、お母様の頭はお父様のことでいっぱいらしい。私は苦笑して、再び自分のリネン布に目を向ける。


「そうそう。アルフレッド坊ちゃんがね、とうとう、本腰を入れて結婚相手を探すそうよ」

 突然お母様が、脈絡なくそんなことを言い出した。私は指を止めたものの、顔は上げなかった。

「へぇ、そう」

 答えてから、針を布に刺す。ぷすり、と針は布に潜った。


「今進めておられる結婚話は、ユリウス様もアレクシア様も納得なさっておいでらしいの。そのこともあってね、ウィリアム様もお忙しくって……」

 ふぅん、と私は返事をする。


「貴女にもお見合い話が来てるんだけど、どうする? 進める?」

 お母様の声を俯いて聞く。


「うん。進めて」

 針を沈み込ませ、下から引き抜く。つー、っと布を糸がすべる音を聞きながら私は答えた。


「お母様、まだお相手のお名前も伝えてないけど」

 溜息混じりにお母様が言う。私は「うん。大丈夫」と答えた。針を今度は下から上に差し込む。ぽつり、と針の先端が布から顔を出した。


 誰でも、一緒だ。

 運命の相手じゃなければ、誰でも一緒。

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