16-5 越えてはいけない一線

 フィールが神威かむいの治療を終えたのは、丁度アリシエがイグニスの首を狙って短剣を突き刺した時だった。幸か不幸か短剣は、偶然イグニスが手元に引き寄せた剣の刃によって阻まれる。その刹那、アリシエが右手に握っていた刀を鎧の隙間にねじ込む。


 隙間から鎧の内部に入り込んだ刀は、イグニスの左脇を貫いた。刃が肉に刺さる独特の感覚を察し、アリシエが刀から手を離す。そのまま素早く後退し、二本目の刀の鯉口を切った。イグニスの身体に刺さる刀を引き抜こうとはしないらしい。


(神威を殺そうとした。そしてソニックを……。陛下――リフレクト様を、本気で殺しに来てる。この人を殺さなきゃ、誰も救われない)


 フィールの凍てつくような眼差しが、刀が刺さったイグニスを捉える。アリシエは刀を構え、吊り上がった目でイグニスを睨みつけていた。よほど強く刀の柄を握っているのだろう。右手は微かに震え、血管が浮き上がっている。


 イグニスのすぐ後ろには、仰向けに倒れたまま動かないソニックがいる。剣が貫通した際に出来た穴から絨毯へと、血が流れ出ていく。その手足が意思を持って動くことはなく、その心臓は既に動きを止めている。


 その濃い青色の目は見開かれたまま。鉄が錆びたような臭いが、ソニックの死体を中心として謁見えっけん室全体に充満していく。イグニスの攻撃一つで呆気なく奪われた命はもう返ってこない。


(アル、君じゃダメだ。金牙きんが様のためにも、君がに成り下がってはいけない。急がなきゃ)


 アリシエとイグニスの戦いを遠くから見たフィールは、すぐさま動き始めた。イグニスとの間合いを詰めながらも、衣服の内ポケットに手を入れる。そこから銅色の注射器を取り出すと、整った顔が不自然に歪んだ。


 フィールの手に握られた金属製の注射器。そのシリンジには既に薬液が入っている。注射器の先端に手早く注射針を取り付けると、右の親指がピストンの端に乗せられた。濃い青色の瞳が、イグニスの首筋をその背後から見据える。


 それは僅かな間の出来事であった。イグニスに背後から接近したフィールが、その首に注射器を突き刺す。イグニスが顔を動かすより早く、親指がピストンを一定の速度を保って押した。薬液が注射針を通過し、イグニスの血中へと流れていく。


 二人の眼前には、既に振り上げられたアリシエの刀が迫っていた。シャンデリアの光に照らされ、刃が煌めく。銀色の双眸そうぼうの奥には、怒りの色が見え隠れしている。


「アル! やめろ!」


 金牙が壁に寄りかかったまま、体力のほぼ尽きた身体で声を張り上げる。苦し紛れのその声に反応し、アリシエの動きが止まった。刀の刃が、イグニスの額に接する寸前で動きを止める。空になった注射器が、音を立てて床に転がった。





 僅かな間ではあるが、謁見室の中では時間が止まった。その場にいた者は皆、生命維持以外の動きを全て止めてしまったのだ。静寂に包まれた謁見室で、注射器の転がる音がやけに大きく響いている。


 フィールがイグニスの身体から離れた。イグニスの血で赤く染まった左手が、その首元にあてがわれる。その様子に、フィールがクスリと音を立てて笑った。空になった注射器を目にして、金牙の目が大きく見開かれる。


「貴様……何をした」


 投与された薬物のせいだろうか。イグニスの呼吸は荒く、苦しそうだ。しかしすぐに倒れることはない。薬物を投与された直後でも彼はまだ生きている。鎧越しに、胸元に血だらけの左手をあてがった。左手から流れる鮮血が銀色の鎧を濡らし、足元へと流れていく。


 よほど苦しいのだろう。イグニスはもう、動こうとはしなかった。目の前に刀を構えたアリシエが迫っている。それにも関わらず、アリシエから逃げようとしない。その刃に気付く余裕もなく、顔を歪ませて荒い呼吸を繰り返す。


 イグニスの急変に、アリシエは戸惑いを隠せない。先程まで怒りに任せて殺そうとしていた相手が今、目の前で苦しんでいる。弱っている今ならば、刀を振るえば容易にその命を奪うことが出来るだろう。それを知りつつも、アリシエは手に持った刀を振るうことが出来ずにいる。


「何、起きる、てる?」

「……あと数分もすればわかるさ。さぁアル、その刀をしまうんだ」

「嫌だ。この人、パパとにぃに、殺した。この人嫌い、大嫌い! ……でも、刀、動かせない」


 アリシエの胸中を駆け巡るは激しい怒りと憎しみ、そして金牙の指示。皇帝の言葉の真偽こそわからないが、イグニスがソニックを殺したのは紛れもない事実である。殺したいほど憎いのに、金牙の命令に背いてはならないと刀を動かす手が震えてしまう。


 アリシエが攻撃を躊躇う間も、イグニスの容態は変化していく。顔は赤く染まり始める。その口元からは涎が垂れる。胸が痛むのか、血だらけの左手で拳を作り、何度も胸元を叩く。やがてその動きは弱々しくなり、その身体が音を立てて床に倒れていく。


「僕が殺した。君達、黒人武芸者は……命をかけて、陛下を守った。そして、アル、君はイグニスの親戚にあたる。君とソニックの、功績とその血筋が……この国を変える、一手になる」


 倒れたイグニスはもう、動かなかった。前のめりに倒れたイグニス。フィールはその背中に足を乗せ、イグニスの身体を踏みつけながら微笑む。勝者が浮かべた笑みはどこか悲しげで、その瞳には涙が浮かんでいた。





 壁に寄りかかって体力の回復を待っていた金牙は、全ての騒動が落ち着いてからようやく動き出した。目の前で繰り広げられた争いと、その結果失われた尊い命。突きつけられた現実に、はらわたが煮えくり返る思いである。


 彼は、イグニスを踏みつけるフィールの元へと静かに歩み寄った。フィールの顔を見上げ、鋭い眼差しで睨みつける。かと思えばその右手が、フィールの左頬を叩いた。パシンという乾いた音が響く。


「貴様……自分が何をしたのか、わかっているのか!」


 金牙は声を荒らげると、平手打ちしたばかりの右手を抱えてうずくまる。少し人を叩いただけなのに、反動で手が酷く痛むのだ。先程までの戦いを、無力な金牙はただ見ることしか出来なかった。止めることの出来なかった戦いの結末を思い、自然と身体が熱くなる。


「何って、イグニス様を殺しただけだよ?」

「皇族に手をかけることは、いかなる理由があっても――」

「法を遵守じゅんしゅして、陛下を守れるかい? 現に彼は陛下を、殺すつもりだったじゃないか」


 フィールの言葉は正しい。神威の負った怪我とソニックの死が、イグニスが「皇帝を殺すつもりでいた」という事実を物語っている。だが、皇帝に直接危害を与えられたわけではないため、イグニス殺害が正当であったと言いきれない。


 フィールは金牙の前にしゃがみこんだ。その両手が、平手打ちでピンク色に変化した金牙の手を優しく包み込む。氷のような冷たさが、熱を持つ金牙の手には心地よい。次の瞬間、フィールが金牙の唇に口づけをする。


「貴様、何を――」

「僕は、金牙様のためなら命すら捨てられる。僕は金牙様を人として、恋愛対象として、愛してる。これまでも、これからも。さぁ、僕を逮捕しておくれ。ここからが本番だ。金牙様ならこの意味、わかるだろう?」

「……ああ。、と言うのだろう? だからって、自ら罪を犯す馬鹿がどこにいるんだ、このおろか者!」


 金牙の言葉に、クスリと笑って舌を出すフィール。紅色の舌が金牙との接吻の味を確かめるように丁寧に、時間をかけてその唇を舐めていく。一通り舐め終えるとゴクリと音を立てて唾を飲み込み、嬉しそうに微笑んだ。


 金牙が自らの手で、フィールに手錠をかける。手錠から伸びる鎖をしっかりと握りしめた。空いている左手でダンを呼び寄せると、アリシエには目で合図を送り、四人で皇帝の座る肘掛椅子の前まで歩いていく。





 大きな肘掛椅子に座る皇帝は、玩具と見間違うほどに小さく見える。白銀の髪は薄くなり、一部頭皮が見え隠れしていた。濃い青色の瞳から放たれる光こそ強いが、その顔に深く刻まれたシワはその姿を弱々しく見せる。衣服から露出している四肢はその指先にシワが刻まれ、腕には血管が浮き出ていた。


「……皇太子様がいなくなった今、皇太子派の動きは減衰すると思われます。それも新たな首謀者が現れるまでのこと。陛下、この過ちを繰り返さないためにも、国政を変えましょう」

「変える、とは?」

「現在のハベルトは貴族による政治が行われています。さらに、政治家のほとんど、いえ、ハベルトの貴族のうち半数が差別容認派でした。このまま、世襲制で貴族による政治を続けていても、国は変わりません。差別容認派が横行したままです」


 金牙の言葉に、皇帝は瞳を閉じて静かに耳を澄ましている。わからない言語があると聞かずにいられないアリシエは、現在の緊迫した雰囲気に圧され、無言を貫いている。フィールとダンは金牙の方を向いてその言葉の続きを待つ。


「すぐに全てが変わるとは言いません。ですが、国政に貴族以外の国民や有色人種カラードを関与させてもよいのではないでしょうか。『差別をして貴族に取り入らなければ、要職につくことはおろか、まともに生活すら出来ない』という国の現状を今こそ変えるべきではないでしょうか」

「その現状は真か? そのような報告、我は受けていないぞ?」


 国民の置かれた状況。上流階級の者達が支配する職場環境。「差別廃止」をうたっておきながらも、人種差別はもちろんのこと、が現存しているという事実。この場で金牙が嘘をつく必要はなく、彼の報告は真実である可能性が高い。


「失礼ながら申し上げます。我ら戦闘貴族は、政治家の上層部に報告しておりました。議会で話し合うと言われていましたが、議題にすら上がっていなかったようですね」

「……なるほど、そういうことか。一般市民が介入すれば、貴族はこれまでのように自由に振る舞えなくなる、と。あやつらの考えそうなことじゃ」


 ハベルトの政治は、貴族で構成された政治家達が宮殿で議会を開くことで行われる。議会には皇帝も参加し、今後の国の方針などを決めるのだ。しかしその裏では、貴族がその地位を維持するためにも貴族有利な議題ばかりが進んでいた。見抜けなかった真相に、皇帝の顔が歪む。


「それともう一つ。戦闘貴族当主に、有色人種カラードを入れませんか? 神威はもちろんのこと、アルも充分な戦果を上げています。一例でもあれば、地位向上に繋がると思います。また、可能であれば今回の反乱に関わった有色人種カラードの功績を、国民に知らせてください。このままでは彼らも、ソニックも、無意味な死を迎えてしまう」

「一理ある。一つ、考えてみるかのう。政治家達の身辺調査、密輸されたいくさ奴隷どれい達の解放、議会の再編成。……これから忙しくなるぞ?」


 金牙が考えていたのは、国政に国民を関わらせることにより、国民間の身分差別を減らすこと。差別に反対するならば、人種差別だけでなく身分差別への対応もしなければならない。「差別しなければ貴族に気に入られない」「貴族が全て」という現状が変われば、国の雰囲気も変わるかもしれない。


 戦闘貴族当主に神威やアリシエを提案したのも、雰囲気を変える手段の一つだ。前例がないからこそ、このタイミングで一例を作る。運が良ければ、他の要職に有色人種が採用されるになるかもしれない。また、議会を再編成することで皇太子派の総数を減らす目的もある。


 皇太子イグニスが自らの欲望のためだけに引き起こした今回の騒動。それを利用し、国政のあり方を根底から変える。これは、金牙の求める理想の世界を作るための第一歩にすぎない。





 金牙が話を終えると、今度は皇帝が大きく空気を吸い込む。皇帝も話すことがあるようだ。それを察した金牙達はすぐさまその場にひざまずき、皇帝からの言葉を待つ。


「我がこのようなことを言うのは良くないのかもしれぬ。しかし、伝えさせてほしい。皇太子を……イグニスを、止めてくれてありがとう。あやつは、シャニマに戦争を引き起こした張本人じゃ。他国を上手くそそのかし、シャーマンを含む多くの先住民を犠牲にした。あのような者、国の上に立つには相応しくない」


 皇帝から紡がれたのは、イグニスを殺したことに対する礼。シャニマで起きた争いに関する内容に、意図せずとも金牙とアリシエの顔が強ばる。イグニスは金牙とアリシエにとって、間接的であるとはいえ親のかたきであった。それを知ったところで失われた命が戻ることはなく、やり場のない気持ちをぶつける相手も今は存在しない。


「フィール、お主を神威の治療が終わるまで金牙に監視させる。逮捕は、神威が回復したらでよい。お主を逮捕して生きるべき者が死んでしまっては意味が無いからのう。回復したら、神威を正式にクライアス家当主とし、お主に『無期懲役』を課すこととする。よいな?」

「リスレクト様、ありがたいかぎりでございます」


 イグニス殺害に対する礼を述べた上で皇帝が続けたのは、フィールに課す実刑と刑執行までの期間。フィールを庇い重傷を負った神威は今、応急処置をされて絨毯の上で横になっている。幸いにもフィールの見立てでは胸部の骨折だけであり、合併症などを引き起こさなければ一ヶ月半で完治するだろう。


 神威はクライアス家の次期当主となることが既に決まっており、養子の手続きも済んでいる。今この場でフィールを逮捕することは、クライアス家次期当主を失うことに等しいと判断された。


「金牙、お主にはもう少し動いてもらいたい。内政を大きく変えるにはお主と、アリシエを含む有色人種カラードの協力が必要不可欠じゃ。国内全ての貴族を調査するのは、骨が折れるぞ。覚悟はよいか?」

「覚悟なら、既に出来ております。リアンもテミンも海音かいねも、協力してくれるはずです」

「さて、政治家共をいかに黙らせ、奴隷解放を行うかが勝負、じゃな」


 皇帝は変化を恐れなかった。差別が容認されない、全ての者が人として扱われる世界の実現に向けて、騒動の直後だというのにすでに頭を回している。それは金牙も同じ。ただ一人、話についていけないアリシエだけがポカンと口を開けたまま言葉を失っている……。



 騒動が終わったのは夕刻のこと。早朝から始まった反乱は、多くの死者を出した上で、皇帝派が鎮圧する形で幕を閉じた。皇室の窓から見える空は清々しいほど綺麗な夕空。オレンジ色の空はハベルト全土に平等に広がっている。十月の終わりを告げる北風は、死者をいたむかのように穏やかに吹いていた。

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