16-4 譲れないもの

 床に崩れ落ちていく小さな身体。その黒褐色の身体はどさりと音を立てて床に倒れ込む。金色の瞳がゆっくりと閉じていく様を、開いたばかりのフィールの目がしっかりと捉えてしまう。その瞬間、フィールの中で何かが壊れた。


 皇太子イグニスに狙われ、動けなくなったフィール。そんな彼を守る為に、神威かむいがその身を盾とした。フィールの代わりとなって身体を圧し斬られ、倒れ際にイグニスの体勢を崩す。神威でなければこんな芸当、出来なかっただろう。


「か……神威!」


 目の前で倒れた神威を見たフィールの悲痛な叫び。しかしイグニスはそれをあざけり笑う。神威の目は開かない。苦しげな呼吸と呻き声が、彼の生存を知らせていた。斬られた服の下からは鈍色のくさり帷子かたびらが見え隠れする。


 鎖帷子を着ていたとしても、衝撃を完全に殺すことは出来ない。立ち上がれないこと、苦しげな呼吸と呻き声。これらから、神威が何らかの怪我を負ったことがわかる。治療に必要な薬や道具、技術は全てフィールが持っている。しかしフィールが神威の治療を開始すれば、皇帝を守れなくなってしまう。


 その光景を見たからなのだろうか。それまで椅子に座ったままだった皇帝が、自らの顔を覆っていた白く薄い布を外す。肘掛け椅子の背もたれから、隠してあった細身の長剣を取り出した。濃い青色の双眸そうぼうがイグニスの姿を上から見下ろす。


 その時、バタンと音を立てて謁見えっけん室の扉が開いた。かと思えば何者かが慌てた様子で部屋に入ってくる。その左手には、刃に血が付着した剣が握られている。右手は、金牙きんがの胸ぐらを掴んで離さない。


 現れたのは、短い黒髪に濃い青色の瞳をした、黒褐色の肌を持つ男性――ソニックだった。彼は謁見室に入るなり金牙から手を離し、素早く皇帝とイグニスの間に入り込む。アリシエによく似た笑顔を見せていた。


 ソニックの手を離れた金牙は、謁見室の壁に寄りかかる形で床に崩れ落ちる。状況を把握しようと試みるが、疲労のせいか頭が上手く回らない。その濃い青色の目が、イグニスと対峙するソニックの口元を捉える。


「間に合って、よかった」


 その口から掠れた声が零れ落ちる。口の動きを読めば、離れたところにいる金牙にも話している内容を読み取れる。しかし、今の金牙はすぐにその言葉の意味を理解することは叶わない。彼が理解するより先に、事態が大きく動き始める。





 ソニックの登場により生まれた一瞬の隙。フィールはその隙を突いて神威に駆け寄り、治療を開始する。迷わずにその行動に移れたのは、彼がソニックをある程度信用しているからと言える。フィールが神威の元に辿り着くと同時に、体勢を崩していたイグニスがついに立ち上がる。


 汚いものでも見るかのように眉間にシワを寄せ、その血走った目でソニックを睨んでいた。目の前に立ちはだかるソニックに気付いた次の瞬間、一気に間合いを詰めてその腹を蹴りつける。突然のことに、ソニックは反応出来なかった。強烈な一撃を腹に食らったソニックは力が抜けたように地面にしゃがみこむ。


 歯を食いしばって痛みをこらえるのが精一杯だった。両足に力を溜めて必死に体勢を維持し、左手で剣を握り続ける。だが自分から攻撃を仕掛けようとはしない。呼吸を整え、痛みを和らげることに専念する。


(まだ、手足が……。この状態で、攻めても、ダメだ。落ち着け、冷静になれ。父さんなら、そう……言う、はずだ)


 攻撃を食らってもまだ、ソニックは冷静だった。鋭い眼差しがイグニスを真正面から捉える。体勢を維持するのが精一杯だと悟られないように、その顔から表情を消す。激しく上下する肩だけが、その苦しみを示していた。


「この程度もかわせない黒人ブラックを、汚らわしい黒人ブラックを、存在しなくていい――」

「てめぇに何がわかるんだ?」


 「存在しなくていい」という発言にソニックの身体が反応してしまう。ピクリと眉が動いた。震える足で踏み込み、イグニスの首に刃をあてがう。刃が食い込みその首から微かに血がにじむ。だがイグニスはこの状況に動じなかった。顔色は変わらず、眉一つ動かない。それどころか笑顔を見せている。


「オイラの生きる価値を決めるのはてめぇじゃねぇ。生きる意味を決めるのも、てめぇじゃねぇ」


 先程まで穏やかだった口調が荒々しくなる。普段より低い声音とその口調のせいか、先程までとは別人のように思える。声で誤魔化していたが、その手足は微かに震えていた。左手は剣を落とさないようにするのが精一杯で、これ以上刃を食い込ませることができない。


(存在しなくていいのは自分達じゃない、一部の白人だ。自分達は悪くない。悪いのは一部の差別をする白人だ。それに……)


 ソニックが心の中で唱えたのは、これまで抑えてきたハベルトという国の人種差別に対する怒り。心の声はいつしか音となって、口から勢いよく飛び出してしまう。


「てめぇがアルの故郷を奪ったんじゃねぇか。存在しなくていいのは――てめぇみたいな白人ホワイトの方だろ!」


 ソニックの咆哮ほうこうが謁見室内に響き渡った。それに反応するかのように謁見室の扉が開き、中に二人の人物が入ってくる。その足音に気付いてか、咆哮に感化されたのか、イグニスがソニックより先に動いた。





 イグニスの左手が、首にあてがわれた剣の刃を掴み取る。素手で刃を掴んだためにその掌に刃が食い込み、鮮血が刃を伝って床に滴り落ちていく。見ているだけでも痛々しいというのに、彼は怪我に動じない。痛みを感じていないのか、顔色を変えないまま剣を力一杯引っ張り、ソニックの手から剣を引き抜く。


 イグニスがソニックを無視して皇帝の元へ行こうとする。武器を奪われたソニックにはもう、体術しか残されていない。迷う時間はなかった。ソニックは考えるより先にイグニスの体に絡みつき、その動きを止めようと試みる。


 それは一瞬の出来事だった。イグニスが上半身を回転させた後ろを向く。その刹那、右手に握っていた剣でソニックの腹部を突き刺した。剣はソニックの身体を貫通し、ソニックの背面から血塗れの刃の先端が飛び出す。イグニスの顔が醜く歪み、その口から嘲り笑う声が漏れる。


 腹部を剣で刺されてもなお、ソニックは生きていた。まだ生きて、その意識を保っていた。命の灯火が消える前にと残っている力を振り絞り、自身の腹を貫く剣を捉える。剣の柄を握るイグニスの腕を、震える両手で掴む。それが今のソニックに出来る精一杯の抵抗。


 イグニスはソニックの手を払って剣を抜こうと躍起になる。だがソニックの腹部を見事に貫通した剣はそう簡単には抜けない。皮膚が刃に絡みついていた。血が刃と皮膚の隙間に入り込んで凝固しようとしている。


 迷った末に、イグニスの右足がソニックの腹部にあてがわれた。ソニックの身体を踏みつけ、力ずくで剣を引き抜く。ソニックの腹部から大量の血が流れ出すと同時に、引き抜いた反動でイグニスの身体が僅かにった。ソニックが床に倒れ、その血が赤い絨毯じゅうたんに染みを作っていく。


 この一連の動きを見て、動かずにはいられない者が一人。彼は後先を考えずに刀を抜いて構えた。銀色の双眸が、一定の間合いを維持した状態でイグニスを睨みつける。


「……て、……して、どうして! にぃに、殺した、許さない」

「ほう、『神の眼』の生き残りがおったのか。その目、その顔、その声! 我がシャーマンによく似ておる。あやつは確か、シャニマで子を庇って無駄死にしたんじゃったのう」


 ソニックが床に崩れ落ちたことを知って動いたのはアリシエだった。ダンを守ることも忘れ、左大腿の痛みも忘れ、殺気を放つ。その足がジリジリと間合いを詰めていく。その様を見ても、イグニスは笑顔を崩さない。


「パパが、にぃに? 見た目、違うのに?」

「父親が違うからのう。『神の眼』さえいなくなれば、我の忌まわしき血筋が明るみに出ることはない。我のために、死ぬがよい!」


 イグニスの手には、血で赤く染まった刃があった。イグニスは宝石を思わせる赤い剣をアリシエに向ける。瞳孔が開いているせいか目が爛々らんらんとしており、獲物を見つけた獣を連想させる。





 イグニスの言葉にあおられ、アリシエが右足で力強く床を蹴った。突進と同時に振り抜かれた刀がイグニスの剣とぶつかり合い、カチンと乾いた音を立てる。二人の双眸が至近距離で相手の姿を捉える。


 刃のぶつかり合いに勝つために、アリシエの左手が刀の背を押した。にもかかわらず、イグニスの剣は微塵も動かない。このまま刃を交えていても意味が無い。そう判断したアリシエは左足を軸にして後退し、上体を大きく後ろに反らす。イグニスの剣がアリシエの腹の上を通過した。


 仰け反った状態で、アリシエが右腕を動かし始める。右手に握られた刀が振り上げられた。切っ先がイグニスの顎を掠め、鮮血を撒き散らす。イグニスはその攻撃に動じずに、持っていた剣をアリシエの首目掛けて勢いよく振り下ろす。


 剣が首に命中する直前、アリシエは器用に上体を傾け、紙一重で攻撃をかわしてみせた。赤く染まった刃はアリシエの髪を掠める。明るい金髪が何本か、シャンデリアの光を反射しながら宙を舞う。


 イグニスが攻撃したことによって生まれたわずかな隙。それを利用し、アリシエは右腕に身につけていた短剣を鞘から引き抜き、左手に構えた。アリシエの目がイグニスのまとう銀色の鎧を捉えている。


「アル! 殺すな!」


 謁見室の入口付近、壁際から聞き慣れた主の声がする。言葉を明瞭な音として耳で聞き取りはした。だが、アリシエの心はその言葉の意図を理解できない。床に転がるソニックに向けた視線は、凍てつくように冷たくも儚い。


「こやつは……シャーマンと風牙ふうがを殺したを引き起こした犯人じゃぞ!」


 謁見室の奥、ひじ掛け付きの座椅子からは特徴的な口調が聞こえてくる。言葉が耳に届いても、アリシエは声の主の方を見ようとはしない。かわりに、イグニスを睨む力が強くなる。


(にぃに、殺した。パパ、馬鹿にした。パパと風牙さん、殺した。この人……嫌い!)


 アリシエの左太股から、細長い布が数枚が剥がれ落ちた。傷口を抑えるガーゼだけが、血を吸って赤く染まってもまだ患部に貼り付いている。傷口が開いたのか、患部の出血は続いているようだ。ガーゼで抑えきれなかった鮮血が、左下肢を伝って靴と床を濡らしていく。


 イグニスが振るったばかりの剣を手元に引き寄せようとする。その視線がアリシエから自らの剣へと動いた瞬間、アリシエはイグニスの首を狙って、左手に持った短剣を突き立てた――。

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