14-2 絶望するにはまだ早い
檻の中に入ると、血の匂いが一段と濃くなった。金牙は震える指で壁や床にある血痕に触れてみる。しかし雪のように白い指先が血の色に染まることはなく、血痕は液体の形を成していない。それなりの時間が経過したことで固まったのだろう。このことから、
鉄格子の中にあるのは血の付いた椅子と血の染み込んだ紐だけだった。他の家具は見当たらない。床に落ちた、無理やり
(こんな目にあっていたのか。拷問されているとは知っていた。でも、改めて現実を知ると、こんなにも見るのが辛い。もう少し早く気付いていれば……)
血痕を見れば、落ちている爪や歯を見れば、銀牙に何が起きたのか想像するのは容易だ。爪を剥がされ、歯を抜かれ、暴行され。情報を引き出すためだけに様々なことをされ、それに耐えてきた。
怪我の治療がされている保証はない。もし正しく治療されていなければ、傷の経過が悪く苦しんでいる可能性がある。檻の中に広がる乾いた血液の量を見れば、生きていると断言することは出来ない。現実を知った金牙は身体に力が入らなかった。胸部には強い圧迫感と重さがある。
「まだ死んだとは限らないだろ。しっかりしろよ。自慢の頭脳はどうした? お前の頭脳がなきゃ助けられるもんも助けられない」
「お前、何を言ってるんだ? 銀牙は、もう――」
「生きてるってお前が信じないで誰が信じるんだよ! 冷静になって考えろ! 人を殺せば足がつく、情報は手に入らない。拷問してでも情報を手に入れたいなら殺したりしない。殺さない程度に痛めつける」
「でも、情報を手に入れたら用済みだ」
柔らかな橙色の明かりが差し込む檻の中で、海音の怒声が響いた。起き上がる気力を無くし、失意のままに床に座り込む金牙。その弱々しい姿と悲哀に満ちた顔を見ていられなかったからだ。
檻の中の様子を見た金牙の頭には悲劇ばかりが浮かぶ。最悪の事態を想定してはいいが、仮説の内容が内容なだけに思考回路が乱れる。今の金牙は戦闘貴族の当主ではなく、ただの無力な白人男性に成り下がっていた。
役に立たない金牙に代わり、海音が引き続き檻の中を調べることにした。壁や床を叩いて音を確かめ、隠れ場所や隠し通路の類がないかを探る。鉄格子を掴んで揺らし、鉄の棒に細工が施されているかを確認する。檻の中を可能な限り調べると、握りしめたままだった手紙の切れ端に目を通した。
「とりあえずここだけじゃ状況がわからないな。皇太子の部屋に行くぞ。隠し通路を進んだ先にあるらしいからな」
動こうとしない金牙の手を掴み、無理やり立ち上がらせる。手足に力の入らない金牙は、一人で立つこともままならない。今にも崩れ落ちそうな金牙に肩を貸し、海音はかつてアリシエが通った道を辿っていく。力なく伸びきった金牙の足が床につき、海音が歩を進める度にズサっという音がした。
隠し通路を進めばやがて、行き止まりにたどり着く。前方に手を伸ばせば梯子らしきものに触れることが出来た。手紙によれば、この梯子を登った先にあるのが皇太子の寝室らしい。足の踏み場も、掴むべき金属棒の位置も、何一つ明瞭には見えない。手を伸ばし、感覚だけを頼りに暗闇の中を登るしかない。
「梯子、登るぞ。嘆く暇があったら付いてこい」
海音は金牙に声をかけると、その直後に金属の板に足を乗せる音と梯子を登る規則的な金属音が響く。金牙はぼんやりとしていたが、音に気付いて、ゆっくりと力ない足取りで海音に続いて登り始めた。
暗闇のせいか、時折足を踏み外して落ちそうになる。ほとんど見えない足場を足先を使って探す。隠し通路の暗闇に、目はなかなか慣れてくれなかった。それでも梯子にしがみつき、歯を食いしばって見えない出口を目指すしかない。
先に梯子を登っていた海音が、ギイと微かな音を立てて頭上にある木の板を押し上げる。上方から差し込む明かりを頼りに、金牙は力を振り絞って梯子を登る。そうして梯子を登りきった先にあったのは……皇太子の寝室、ベッドや私物の置かれたプライベートルームだった。
「書斎に繋がるプライベートルーム、か。ハベルトじゃそんなに珍しくもないな」
ざっと部屋を見渡した海音がなげやりにつぶやく。海音のすぐ後ろでは、梯子を登ることで体力を使い果たした金牙が床に伸びていた。移動の際に靴が脱げたのか、左足だけは白く細いつま先が剥き出しになっている。
「こんな所に、来ても、意味が、ない。早く……宮殿へ、向かおう。そこに、銀牙が、いるはず、だ。皇太子が、銀牙を、連れて――」
「お前はとりあえず落ち着け。いつものお前ならここに残って情報収集するはずだ。今のお前、おかしいぞ?」
海音の言葉に眉をひそめた。腰に身につけたレイピアを杖の代わりにして、無理やり体を起こす。怒りのせいか疲労のせいか、呼吸は荒く、肩は上下に激しく動く。
「どこがだ? 僕は、最善の道を、選んでる」
「もし銀牙がこの屋敷の中に隠されていたとしたら? その可能性は無いとは言い切れないだろ」
海音の返した正論に言葉を失った。反論もせずにただ、大人しく
頬を叩かれた勢いで、金牙の身体は床に転倒した。頬はたった一回の平手打ちで微かに血を
「何をするんだ!」
「少しは頭冷えたか? 身を案じるなら、
金牙は海音の言葉に下唇を噛み締める。手に力を込め、拳を作る。濃い青色の目が部屋をぐるりと見回した。今いるのは、ハベルトの屋敷ではさほど珍しくない、書斎に繋がるプライベートルーム。ハベルトのプライベートルームには隠し通路や隠し部屋がつきものだ。
(生きている証拠はない。だが、死んでいる証拠もない。ここにいる証拠もここにいない証拠もない。決めつけるにはまだ早いじゃないか! 冷静を保たなきゃいけないのに、銀牙のことで感情的になってた。頭を回するんだ、暁金牙。僕の唯一の武器は頭脳だろ?)
折れそうな心を必死に奮い立たせる。その目に再び光が宿った。その身体に力が入り、顔に生気が満ち溢れる。濃い青色の
「…………そうだな。それに、銀牙はそう簡単に死ぬような奴じゃない。いないなら何か手ががりを残すはずだ」
「やっと目が覚めたか」
「お陰様でな。とりあえずこの部屋を漁るぞ。必要なら、書斎から他の奴らに合流しないとな。この広い屋敷を二人で捜索するのは非効率だ」
「そんじゃ、とりあえずプライベートルームの調査だな。檻から出されたならここは必ず通るから……何らかの痕跡が残るはずだ」
「人は完璧じゃない、ミスをする生き物だからな」
海音と金牙が目を合わせた。互いに笑い、小さく頷き合う。今は無駄話をする時間すら惜しい。二人はプライベートルームの中を調べるために散らばって動く。
皇太子のベッドの近くには小さな机がある。その上には吸い飲みと白い紙に包まれた薬草らしきものが置かれている。その薬草の匂いを嗅ごうとした金牙は、海音によってその行為を止められた。
「それは麻薬の一種だ。水に
なぜ麻薬などという
部屋に置かれたタンスの引き出しを開けると、恐ろしいものが出てきた。手枷や足枷に首輪、鞭に金棒に鉄球、マッチと
「全部拷問用の道具だな。拘束具には微かにだが血痕があるし、鞭や金棒にも血のついた皮膚が残ってる。ピンセットとハサミも拭き取れなかった血が残ってる。蝋燭は……多分熱いロウを垂らして火傷でもさせたんじゃないか?」
「よく知ってるな」
「
その扱いに詳しい者がその組み合わせを見れば、何を目的に使われていたのかわかってしまう。念のためにと道具を確認すれば、拷問に使われた痕跡が僅かにだが残っている。
拘束具には渇いた血がこびりついており、汚れを落とそうとした形跡はない。鞭や金棒は磨かれていたのだが、目を凝らすと僅かながら血のついた皮膚片が見つけられる。よほど慌てていたのか、器具の一部は雑に拭かれているだけで、真新しい凝固していない血がついている。
拷問の痕跡を確認した金牙は、考えるより先に床に敷かれた
床は簡易的なフローリング。木の板が規則性を持って並んでいる。その板と板の隙間には微かにだが、拭き損ねた血痕が残っていた。海音がその隙間に爪を入れて血痕を確認すれば、まだその血は固まっていないとわかる。
「わりと最近だな、これ。乾いてない。出る時に慌てて拭いたんだ、きっと」
「場所から考えて、銀牙がここを、何者かに連れられて通ったことになるな」
拷問具に付着した血液のほとんど固まっていたため、ここしばらくの間で付いたものだろう。銀牙の拷問に使っていたことが想像できる。今も出血をしているらしい銀牙を遠くには連れていけないはずだ。連れていけば血痕から場所が判明してしまうのだから。
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