13-3 誰が為の嘘
その日、一通の手紙が屋敷に届いた。使用人の手によって速やかに主の元へ運ばれる。屋敷の主は三階にある自らの書斎で、その文が来るのを今か今かと待ちわびていた。いざ手元に届けられると、すぐに封を開けて中身を確かめる。子供がずっと欲しかった玩具を手に入れたような興奮具合だ。
「拝啓、
それは、事情を知らない者が読めば占術の類、何者からか送られてきた予言のように思えるだろう。しかしこれは、金牙にとっては占術以上に意味のある文字列。無論、予言以上の意味が込められており、事情を知る者が読めばその文字列の真意がわかるようになっている。
(父様の伝言の意味はわかった。皇太子様が
金牙は届いたばかりの手紙を読んで、虹牙から貰った図書室での情報を確認して、そして父親からアリシエに伝えられた言葉を知って。卓上で頭を抱え込み、呻き声を上げていた。テーブルに置かれたティーカップは手をつけられないまま、湯気だけが静かに天井に昇っていく。
宮殿の図書室にて調べ物をしていた虹牙は敵に襲われた。フィールからの連絡によれば、刺客は白人の政治家。皇太子派に属する者であり、政治家というだけあって武芸の実力は女性である虹牙に劣るほど。皇太子に関連する書物ばかりを狙って破いていることから、皇太子が自らの素性を隠そうとしていることがわかる。
皇太子の背景に何があろうと現実は変わらない。だが、彼がなぜ「皇帝」の地位にこだわるのかを知らなければこの争いは終わらない。何かがあって人種差別を容認する過激派になった。今の皇帝――アノリスによる統治に不満があるから、反乱を起こして困らせている。
(
金牙が困っている原因は、皇太子派の動きではなく、皇帝派の動きが読まれていること。銀牙が皇太子に拷問されるより先に知られていた情報もある。このことから、全てを銀牙のせいにすることは出来ない。
ひたすら頭を回していた金牙は、突然目を皿のように丸くした。開いたままとなっている口の端から
息苦しさで我に返り、慌てて大きく息を吸う。外気を取り込み過ぎたせいか、肺が痛くなるのを感じた。痛みに咳き込みながら、必死に呼吸を繰り返す。濃い青色の
わざとらしく大きなため息を吐くと、すっかり冷たくなった紅茶を一気に喉に流し入れる。香りも味も感じないが、喉の渇きだけは確実に癒してくれる。紅茶を飲み干したところで自らの過去の行いを振り返り、がくりと肩を落とす。
彼は今、事情があるとはいえ宮殿に二度もアリシエを入れたことを思い出した。アリシエは黒人というだけで目立つ。それに加えて特徴的な青みがかった銀色の双眸――「神の眼」。皇太子派の者ならば、黒い肌と銀色の目を見てその正体に気付かないはずがないのだ。
「手下にダン様を襲わせたのは僕を宮殿におびき寄せるためか。アルが暁家に来た翌日には陛下から手紙が届いてる。陛下の言う先日は一週間以内のことだ。なんで気付かなかったんだろう。
クラウドからラクイアまでなら、長くても半日で手紙が届くじゃないか。シャニマからハベルトなら船で一週間、電報ならすぐに連絡が出来る。あの船にもう一人、電報を打った奴がいたんだ。くそっ!」
柄にもなく乱暴に机を叩く。その振動でティーカップが揺れ、カタカタと音を立てた。透き通るように白かった肌は桃色に染まっている。皮膚の下に見える血管は普段より浮き上がって見える。
(やられた。アルに気付いたから、早々に黒人を用意したんだ。その後にダン様を狙ったのは、アルの技量を計るためだ。当主会談の日に襲ったのはフィール達を挑発するためだろう。ダン様の命を狙ったのは、この屋敷で死なせることで暁家の実力不足を露呈し、もう一度地位を剥奪するため)
戦闘貴族は国の主要都市五つを統治する氏族であり、皇帝直属の戦力として様々な権限が与えられている。そんな戦闘貴族は、有事の際にはいかなる事情があろうとも政治家達に審査され、戦力不足と認定された瞬間にその地位が剥奪される。暁家は過去に一度、地位を剥奪されたことがあった。
皇太子の狙いは皇位だけではなかったのだ。「神の眼」の血筋も狙っていた。そのためにはアリシエを雇っている暁家が邪魔なのだろう。アリシエは「神の眼」を持つ血筋であり、皇太子の血筋に関わっている。アリシエは皇太子にとって、その存在そのものが危険なのだ。戦力的な意味ではなく、血筋のためだけに。
金牙の頭の中で、今までの出来事が歯車のようにピタリと噛み合い始めた。複雑な事象が今、歯車として組み合わさり、一つの出来事を動かしている。人の力では抗えない、目に見えない大きな何かが動いているように感じた。
金牙は必死に皇太子の思考へと自身の思考を近付ける。自分が皇太子ならどうするか。そう考えることで見えてくる物事がある。いかに相手の動きを読んでその裏を突くか。今、彼の頭脳が最も必要とされている。
(好機は逃さないはずだ。銀牙を放置してでも来るだろう。ダン様がここにいると言ってあるのだから、この屋敷には確実に来る。それに……混乱に乗じて陛下殺害、も考えられるな)
皇太子イグニスが狙うのは皇帝の地位。皇位継承権はダンより上のため、本来なら何もせずとも皇位につける。それなのにわざわざこのように反乱を起こす。それ自体が異例と言えた。
宮殿の書物に手を出して、法を犯してまで身元を隠したい。「神の眼」の血筋を滅ぼしたい。どちらにも共通するのは皇太子の母君、第二皇妃の存在だ。第二皇妃は書物によれば「神の眼」の血筋であり、アリシエの親族である可能性が高いのだ。
(ダン様とアルのためだけに暁家に戦力を割く。だがこれはそう思わせるためであって、本命は宮殿という可能性もある。宮殿とこの屋敷、どっちにどれだけの戦力を割くのか……全くわからない。少なくとも何度か欺かれている。これ以上騙されて戦力分配を誤るわけにはいかない)
脳裏によぎるのは、先程気付いた皇太子の行動とその意図。暁家の行動を長らく監視し、時が来るのを待っていたのだろう。「神の眼」を持つアリシエがハベルトにやってくるその日を見計らって、反乱のための準備を始めた。
(屋敷に残すのは少人数と銀牙。宮殿に連れていくのはお気に入りの部下だろう。皇太子様は
心を落ち着かせようと卓上のティーカップに手を伸ばす。口元まで持ってきてから、ティーカップが空になっていることに気付いた。先程怒りに任せて一気に中身を飲み干したのだ。それを忘れてしまうほどに、皇太子派の動きを読むことに気を取られていた。
大きく息を吸い、ゆっくりと息を吐いた。深呼吸を三回繰り返すことで心を落ち着かせる。落ち着いてから最初にしたのは、書斎にある電話に手を伸ばすことだった。
書斎にある電話は受話器も
金牙は慣れた手つきで受話器を手に取ると、ダイヤルを回し始めた。ダイヤルは動く度にギイという音を奏で、限界まで回しきるとカチッと微かな音が鳴る。一音一音間違いの無いようにダイヤルを回す金牙の顔は、真剣そのものだった。
「暁家当主、暁金牙です。陛下に代わっていただけませんか?」
「その必要は無いのう。我こそが現皇帝、アノリスじゃ」
受話器越しに聞こえてくるのは、心地よいアルトソプラノの声。皇族特有の少し間延びした口調は、日々の喧騒を忘れさせるように思える。たったの一声で心の荒波さえもを落ち着かせる。
「陛下。他に人はいますか?」
「今は我だけじゃ。して、何用じゃ? お主が電話をするということは、余程の急用なのじゃろう?」
「僕はそんな印象ですか?」
「印象ではなく事実じゃ。お主が戦闘貴族になってからというもの、手紙のやり取りこそあっても、通話は数える程じゃ。その数回も、早めに伝えるべき要件じゃったからのう」
金牙は受話器越しに、音で悟られぬように気をつけて唾を飲み込んだ。皇帝の言葉に肩が激しく上下する。心を読む能力があるわけではない。そうとわかっているのに、胸中を全て見透かされているような気がする。心臓を鷲掴みされたかと脳が錯覚をして、呼吸が出来なくなる。
行動を見抜かれている。それが皇帝の分析力によるものか、第三者から見てわかりやすいのか、金牙には判断出来ない。前者であれば、皇帝の見る目を変えればいい。だがもし後者であれば、皇帝派の今後に影響が出てくる。
「十月三十一日に、反乱が起きます。狙いはおそらくこの屋敷と宮殿でしょう。そこで、何らかの理由を付けて政治家を入れないようにしてください。有事と悟られないような理由で、お願いします」
「…………わかった。じゃが、我はここにいよう。理由は言わずともわかるな?」
「はい」
金牙の言葉を最後に沈黙が訪れる。受話器越しに鳥の鳴き声が聞こえた。皇帝のものかわからないが、人の息遣いと足音が聞こえる。ついで、口を開いて息を吸い込む音が雑音混じりに聞こえてくる。
「そうじゃ。一つ、お主に面白いことを伝えようかのう」
「面白いこと、ですか?」
「アルはな、イグニスの
「それはどういう――」
「ここから先は宿題じゃ。彼女ならきっと、教えてくれると思うがのう。さて、客が来たようじゃ。切るぞ」
相手側の受話器が筺体に置かれたのだろう。通話終了を知らせる虚しい音が聞こえてくる。だが金牙は、口をあんぐりと開けたまま瞬き一つしない。後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を受け、その場からしばらく動けずにいた。
天井に付けられているのは巨大なシャンデリア。天井に描かれているのはハベルトの地図。シャンデリアと椅子と机以外には特に目立つ物はない。赤い
ここは宮殿の
「陛下も人が悪い。この場には僕もいたというのに」
「そうかのう? 少なくとも、必要とされる情報は伝えたと思うぞ」
「答えを教えてもよかったのではありませんか? いくら金牙様でも、破かれた書物からでは正解に辿り着けませんよ」
ソファに座っていたのは、右側の方が長いアシンメトリーの髪型をした白人男性だった。皇帝と同じ白銀の髪に、皇族の血を引く証とされる濃い青色の瞳。彼はクライアス家当主、フィールである。
「『イグニスの甥』はほぼ答えだと思うがのう」
「彼の罪と、陛下の考え。どちらも伝えていませんよ?」
「知らぬ方が都合がよい。金牙は先代と違って、裏工作を好まんからのう。『殺し』に嫌悪感を示す、戦闘貴族に向かぬ奴じゃ」
「そんな金牙様の頭脳を買われたのは陛下では?」
「そうじゃ。あやつでなければ、アルを見つけられん。そう考えてのことじゃ」
皇帝が出来るだけ声を抑えて笑う。口角を僅かに上げ、愛想笑いにはほど遠い薄気味悪い微笑を見せる。だがフィールを捉える濃い青色の
「陛下はあくまで、イグニス様のためだけに動くのですね」
「大切な友の仇じゃからのう。残された我の、ただの自己満足じゃな」
「その言葉、金牙様にも――」
「あの子は余計なことを知らなくてよい。私情が入ると、あの子の頭脳は落ちてしまう。真実を知らせるのは、終わってからでよかろう」
「否定はしません」
謁見室内で、二人の乾いた笑い声だけが虚しく響く。声に合わせて揺れ動く白銀の髪が、宝石のように
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