11-4 多重人格の弊害

 ソニックが任務のために暁家の屋敷を出てから三日後。ソニックが屋敷を出ていった日を境に、今度はアリシエが表に出てこなくなった。アルウィスがどれほど呼びかけても反応がないらしく、アルウィスはやけに落ち着かない。そのせいなのか、ダンの武芸を監督する時を除き、不機嫌になった。そんなアルウィスを見かねて動く者が一人。


「アル」


 高い声と低い声を混ぜたような不思議な声がアルウィスのことを呼んだ。声に反応してアルウィスが顔を動かせば、その声の主の姿が見える。肩下まである黒いストレートの髪に白い肌。ソニックや金牙きんがと同じ濃い青色の目。それは、中性的な身体をした女性――虹牙こうがである。


「虹牙、か。なんだ?」

「時間はあるかい? ちょっと私と話してほしくてね」

「別にいいけど。どこで?」

「どこでもいいが……食堂の方が話しやすいかな。食べたり飲んだりしながら話せるし」

「わかった」


 正直な話、アルウィスは虹牙に対してあまりいい印象は抱いていない。そもそも、三ヶ月ほど屋敷にいるのにも関わらずあまり話していないのだ。実際に屋敷で動いていた期間は一ヶ月ほどではあるが、その一ヶ月の間ですら、アルウィスはほとんど虹牙と接していない。わかることは「人の心がわかるらしい」ということだけ。


 にも関わらず虹牙の申し出を受け入れたのには意味がある。一つは、屋敷にいる間に虹牙と接していたのはアリシエだから。もう一つは、虹牙の持つ稀有な能力が故。虹牙が人の心を読めることはその目で見た。だからこそ、今のアリシエと自分の関係性を改善するきっかけになると判断したのだ。


 人格というのは存在が不安定で、アリシエの精神状態によって存在するか消えるかが決まることもある。アルウィスは何故かその不安定さを自覚している。だからこそ、早急にどうにかしたいのが本音だった。自らが死ぬことがアリシエのためになるのなら、彼は迷わずその命を捨てるだろう。





 食堂は三方を白壁に囲まれた空間に、長テーブルと椅子を複数配置されただけの簡素な作り。食堂の南方だけは白壁ではなく窓が、屋敷と外を仕切っていた。食堂の窓からは屋敷の中庭を見ることが出来るのだが、今はカーテンによって景色を隠されている。


 この食堂は約二ヶ月前に襲撃を受けた場所でもある。血液の臭いが濃かった空間は、使用人の手によって襲撃があったことすらわからないほどに片付けられている。しかし足りない椅子と傷付いた長テーブルだけは、襲撃の爪痕を明瞭に残している。そんな食堂の中で、アルウィスと虹牙は机を挟んで向かい合った。


 濃い青色の目が銀色の目をじっと見つめる。瞬きすることなく、視線を逸らすこともなく、ただただ見つめる。全てを見透かすようなその視線に、アルウィスは思わず顔をしかめてしまう。それでも目を逸らさなかったのは、眼差しに意味があることを知っているから。


「大丈夫、アリシエはちゃんと、そなたの中にいるよ。とても小さいけど、心の声が聞こえる。でも……」

「でも?」

「前に聞こえていた三人目の声が聞こえない。その代わり、アリシエが何かに苦しんでいる声が聞こえる。多分、そのせいでそなたの声がアリシエに届かないんだ」


 「三人目」はアルウィスがアリシエから隠そうとしていた人格のことである。当主会談の日に、アルウィスに代わって表に出てきて、大怪我を負っても戦い続けていた。もっとも、あのタイミングで出てきたのかは当人達にもわからないようなのだが。


 アルウィスが虹牙の言葉で気になったのは「三人目」についてではなかった。その後に続けられた「アリシエが何かに苦しんでいる」という言葉が気になっている。アルウィスの声が聞こえないほどに苦しむアリシエ。その苦しみを想像して、思わず歯を食いしばる。


(何が起きてる? アリシエが悩んで、狂ったあいつが消えて。そんでもってどっちも出てこねー、と。この身体に何が起きてる? むしろ問題が起きてるのはアリシエの精神か?)

「問題が起きているとすればアリシエの精神だろうね。そうでなければ人格にまで影響は出ないよ」

「……おい、人の心を読んで口で答えるのやめてくれねーか?」

「悪いね。私の悪い癖だ」


 アルウィスが声に出さずに考えていた物事。それに対して、あたかも声で聞いたかのように自然に言葉で返す。そんなこと、「人の心を読む」という特技を持つ虹牙にしか出来ない芸当だ。心を読まれるという状況に嫌悪感を示し、アルウィスはわざとらしく咳き込んでみせた。


「微かな声でいい、アリシエの声を聞けないかな。アリシエを助けられるのはきっと、そなたしかいない」

「なぁ。なんでアリシエのこと、助けようとしてるんだ? 金牙のためって感じじゃねーよな」

「それは……今は、秘密にしてもらえないかな? と、とにかくだ! どうかアリシエの声に耳を澄ましてほしい」


 虹牙が色白の頬を少し赤く染めて答えると、アルウィスは不機嫌そうに小さく頷く。アルウィスにとっては、虹牙の表情の裏に見え隠れする心理よりアリシエの方が大切だ。少しでもアリシエのためになるのなら。アルウィスはその一心で両目を閉じ、頭の中で聞こえる些細な声を逃すまいと神経を研ぎ澄ます。





 アルウィスとアリシエは基本的には同じ記憶を共有出来ない。どちらかが出ている時、もう一人は外で何が起きているのかわからないのだ。声に出さずに人格同士で話すことで、記憶の欠落を可能な限り抑えていた。とはいえ共有するのは覚えた知識だけであり、記憶障害を完全に抑えるというわけにはいかない。


 アリシエが表に出ている時、アルウィスは暗い空間にいる。何も見えず何も聞こえない、自分以外誰もいない空間だ。そこではアリシエともう一つの人格の声しか聞くことが出来ない。例えるのなら、長い夢を見ているような感覚だ。アリシエと交代するまでずっと、現実の時間の流れに合った長い夢を見続けているのだ。


 だがアルウィスが表に出られなかった二ヶ月のと少しの間は違った。暗い空間にいたわけではなく、純粋に意識が途切れ、目覚めてら時が経過していた。いつものように暗い空間にいたとしても、その時の記憶がアルウィスにはない。


『……にぃには、いつからいた? 僕、ハベルトに来る前はどこにいた?』


 アルウィスが頭の中に全力で集中してようやく、弱々しいアリシエの声が聞こえてくる。その声をなんとか聞き取れた瞬間に、アルウィスはアリシエが何故出てこないのかを察してしまった。


(アリシエは、シャニマの記憶がほぼ全部抜け落ちてる。それは俺と狂った人格が代わりに表に出てたからで。その後も、俺が余計なことを思い出さねーように守ってたな)


 今までは、アルウィスが出てこれる間は守ってきた。それはアリシエを思ってのことで、アリシエの心が壊れないようにと配慮してのこと。しかしこの約二週間の間は、アリシエのことを守ることが出来なかった。アルウィスがいない状態で、金牙にソニックのことを聞かれたのが引き金になったのだろう。


 自らが忘れた記憶を、他の人格が出ていた時の記憶を、思い出そうとした。でも思い出そうにも、心の奥深くに閉じ込められた記憶はそう簡単には思い出せない。そこで、何かがあった。思い出そうとしたアリシエの精神に何かが起きて、外に出てこれなくなった。そんなアリシエと入れ替わる形で、アルウィスが表に出させられたのだろう。


『怖い、怖いよ。誰か、助けて』


 自問自答するような声が悲痛な叫びに変わる。その言葉の真意を知るアルウィスは、そんなアリシエの声を黙って聞くことしか出来ない。アルウィスの声は今、アリシエに届かない。だから、今までのように支えることも励ますことも慰めることも、何一つ叶わないのである。


 アリシエの記憶が途切れたのはシャニマが戦場へと変わった時からだ。記憶が途切れなくなったのは、ハベルトに向かう奴隷どれい船に乗り込んだ頃から。にも関わらずそれを気にしていなかったのは、記憶が途切れていることをほとんど認識していなかったからだろう。


 金牙に「あかつき風牙ふうが」について聞かれた時。宮殿の謁見えっけん室でダンに会った時。金牙に人格について聞かれた時、リアンに武芸や父親について聞かれた時。記憶障害を認識するきっかけはいつだって、アリシエの周りに存在していた。





 アリシエの小さな声からわかることがある。アリシエは今、「三人目」の人格に無意識に押し付けた記憶と戦っている。きっかけはわからないが、このために狂った人格が消えたのだと思われる。


 幸か不幸か、アルウィスはその光景の一部を知っている。アリシエの故郷であるシャニマという国。そこで起きたいくつかの悲しい現実も、アリシエが記憶を失った理由も、一部ではあるが知っている。彼はその時、アリシエの身体を守るために日々を生き抜いていたから。


「シャニマに敵が来た時、アリシエは七歳だった。目の前で沢山の人が死んだ。生きるために死体から物を奪ったし、食い物がねー時は死体を食った。生き残るために沢山の人を殺した、俺らを守って犠牲になった。それを……子供だったアリシエに耐えられると思うか? それこそ、狂った人格でも作らなきゃ、生きられねーよ!」


 ようやく意識を現実に向けたアルウィスが吐き捨てるように、感情に任せて言葉を紡ぐ。紡がれた言葉は、壮絶な過去を示していた。人を殺して、犠牲にして、食べて。そうでもしなければ生き残れない世界。言葉にするのは容易いが、想像するのは難しい。


 虹牙はそんなアルウィスの背中をさすることしか出来ない。だがその目はアルウィスの心を嫌でも見抜いてしまう。もっとも、心の声を聞いたところで、同じ光景を思い浮かべることも、アルウィスの記憶に共感することも出来ないのだが。


「いつどこで何してるかわかんねー。寝たらいつ目覚めるかも、寝てる間に何するかもわかんねー。アリシエは混乱して自分のことすらわからなかった。ムカつくけどさ。俺一人じゃ、あの地獄は生き残れなかったぜ? 自分攻撃するような狂った人格でも、必要だったんだよ。まだ必要、だったんだ。だから、抑えていたんだよ……」


 嗚咽おえつ混じりにアルウィスが紡ぎだしたのはアリシエの中にいた「三人目」を語る言葉。まるで「三人目」が消えることで何が起きるかを予想していたかのようなその言葉に、思わず虹牙は目を見開く。虹牙の脳裏にアリシエが目覚めた日のことが過ぎる。あの日、ソニックが語った言葉は、金牙を介して虹牙にも伝えられていた。


『もう一つの人格は……一言で言えばアリシエの代わりに狂った人格、かな。アリシエが耐えられない嫌な記憶を全部引き受けた人格なんだって』


 今、アリシエの代わりに狂っていた人格が消えた。その代わりに、「耐えられない嫌な記憶」がアリシエの元に戻ったはずだ。人格というのは消えるとその記憶の一部が主人格に戻るとされている。戻った記憶に今、アリシエは苦しんでいる。


『そなたはまるで三匹の狼だね。檻の中に閉じ込められた狼と血だらけの狼、そして血だらけの狼に守られている狼だ』


 初めてアリシエを見た時、虹牙は三つの人格を狼に例えた。今なら当時のアルウィスの言動の意味がわかる。わざわざアリシエの代わりに出てきて虹牙を牽制けんせいしたその意味が、事が起きた今なら嫌でも察してしまう。


 アルウィスは心を傷つけながらもアリシエを守っていた。檻の中に閉じ込められた人格――「三人目」を抑え込んでいた。「三人目」が消えないように抑え込むと同時に、アリシエを「三人目」から守っていた。アリシエの心が耐えられるようになるまで、その存在を隠し通すつもりだったのだ。


「そなたは、アリシエのために戦っていたんだね。アリシエが壊れないように、一人で戦っていたんだね」


 全てを知ってしまった虹牙はアルウィスの頭を優しく撫でてやる。その顔は、虹牙の小さな胸の中にうずめられた。やがて、アルウィスの目からは一つ二つ涙が零れ始める。今までこらえていた涙は、虹牙の上衣を濡らしていった。

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