1-2 黒人達の逃走劇

 西は険しい山脈を境とした他国、東は海、北と南は川を境とした他国にそれぞれ隣接している皇国ハベルト。山脈や川が遮っているものの、隣国との国境争いが絶えない。とても安全とは言えない国であったが、一部を除いた人々は平和に暮らしていた。


 石のタイルで覆われた地面。きちんと歩道と車道に分かれた道。そこに並ぶ石造りの民家や建物。路地裏には生気のない顔で細々と暮らす、住む家を失った人々がいる。ハベルトのどの地域に行っても、これらの光景だけは変わらない。


 ハベルトの東部に位置する都市ラクイアには、歩道に並ぶ建物の中でもやけに目立つ建物がある。名はラクイア大聖堂。大きな傾斜を持つ赤い屋根、屋根についた銀色の球体が特徴だ。屋根に装飾のある建物はラクイア大聖堂だけであり、装飾が他の建物越しに遠くからでも確認出来る。


 ラクイア大聖堂の前を全速力で走るはアリシエとソニック。彼らの後ろから追いかけてくるは二人の武芸者。黒装束と武器を身につけた武芸者である。アリシエとソニックは奇妙な船員の助けもあって何とか奴隷どれい船から逃げ出せたものの、見知らぬ武芸者に追われていた。


 奴隷船が着いた港には黒装束をまとった武芸者がたくさんいた。そんな中、アリシエとソニックの二人は黒人特有の素早い瞬発力で武芸者の合間を縫って逃走したのだ。二人を追いかけて数名の武芸者が動き出したのは記憶に新しい。走る距離が長くなるにつれて二人の速度は落ちていき、追っ手との距離が徐々に短くなっていく。


「にぃに。あれだよ」


 そんな体力もギリギリの状態でアリシエが指で示したのは、ラクイア大聖堂だった。赤い屋根で銀色の球体がついている建物はこれしかない。二人を助けた老人が言うには、赤い屋根に銀色の球体がついた建物の近くなら戦ってもいいらしい。だから二人はその建物――ラクイア大聖堂を探していた。


「アルは、中に、入ってて。オイラが、ここで、追っ手を、止める」


 アリシエはソニックの言葉に素直に従い、行動する。ラクイア大聖堂の扉を開けて中へと足を踏み入れた。一方ソニックはラクイア大聖堂の前で足を止め、腰に装備した刀に手をやる。その刀は船から逃げる時に老人がくれた物だった。


 刀を鞘から引き抜いて太陽の光に刃をかざす。刃は歪みも欠けもしていない。試しに左の親指を軽く刃に乗せて動かせば、皮膚が浅く裂けて鮮血が刃を伝う。それはこの刀がきちんと使える刀である証。


(助かった。とりあえず本物の刀、真剣だ。ありがたい)


 助けてくれた船員がくれた一本の刀。斬れない使えない偽物を掴まされたかと疑ったが、紛れもない本物である。奴隷船の船員が本物の刀を渡して逃げるのを助けるなんてこと、よほど運が良くなければありえない。ソニックは顔に出ないように気をつけながらも心の中で歓声を上げた。


 追っ手が来るまでの僅かな間に呼吸を整える。ギリギリまで身体を休ませて体力を回復させたいのだ。追っ手を止めるためにも、体力を回復させてまともに戦えるようにしなくてはならない。追っ手のシルエットが少しずつ近付いてくる。


「逃げんじゃねーよ」

「大人しくしてろ、奴隷」

「もう一人、大聖堂の中に入ったぞ!」

「その前にこいつをどうにかしないと。武芸しか能のない猿のくせに、面倒かけやがって」


 ソニックの前に立ちはだかるは二人を追いかけてきた武芸者達。彼らはそれぞれ武器である剣を構える。貴重な商品である「戦える黒人奴隷」を逃がすわけにはいかない。彼らは大怪我をさせてでもアリシエとソニックを連れ戻すつもりだ。


 先に動き出したのはソニックではなく武芸者達だった。二人はソニックに向かって同時に走り出すと途中で左右に散らばる。かと思えば一人はソニックの頭部に向けて縦に、もう一人は腹部に向けて横に剣を振るう。よく連携の取れたその動きから、普段から鍛錬を怠っていないことがわかる。


 ソニックは頭部に向けて振るわれた剣を刀で受け止めた。攻撃を受け止めた勢いを利用して攻撃の間合いの外へ移動。腹部に放たれた斬撃を紙一重でかわす。それだけでは終わらない。足が交叉する形で着地して、攻撃を仕掛ける。


 足が交叉して不安定な体勢になり、ソニックの身体が少しふらつく。かと思えばその身体が地面に向かって横に倒れていく。次の瞬間、強く足を踏み込んだかと思えば、とても人間とは思えない速さで武芸者達との間合いを詰めた


 武芸者二人がその動きに反応するよりも早く刀を横に振るう。致命傷には到底及ばないが、二人の胸部に傷を与えることが出来た。ソニックの攻撃に反応し、武芸者達が剣を動かす。その間にソニックは素早く後退。二人の武芸者の剣は虚しくも空を切った。


 攻撃に失敗することは戦いの場では不利である。それは攻撃直後に出来る隙が大きくなってしまいがちだから。この二人の追っ手も例外ではなかった。相手の失敗によって出来た大きな隙を見逃す者など、戦場にはいない。


 敵の隙に気付いたソニックは再び間合いを詰める。かと思えば刀を横に振るってすぐに後退。その刃は相手を捉えたかに思われたが、武芸者達はソニックの単調な攻撃をいとも簡単にかわし、さらには体勢を立て直してきた。


 二人の武芸者が同時に地面を踏み込んで一気に間合いを詰める。ソニックが咄嗟とっさに刀を構えるも、予想外の速さで放たれる斬撃を防ぎきることは出来なかった。二本の剣が同時に振り下ろされ、ソニックの左腕に浅い切り傷をつける。


 振り下ろされたはずの二本の剣は、次の瞬間には勢いよく振り上げられる。ソニックは身体を横に回転させることでそれをかわし、その勢いを生かして一人の腹を突いた。残されたもう一人の武芸者は強く地面を蹴って突進。ソニックに向けて剣を振るように思われたが――。


「もう一人が先だ!」


 ソニックの目の前で剣の切っ先を鞘ごと地面に立てて方向転換。切っ先を地面に強く押し付け、それを軸にして身体の向きを変えて走る。速度を落とさずにソニックの身体を右にかわした。止めようにも方向転換が急だったために反応出来ない。持ち主を失った剣が地面に倒れてカランカランと虚しい音を立てる。


 ソニックは慌てて追いかけようとしたが諦める。彼の目には黒装束を身につけた武芸者――新たな追っ手が走ってくるのが見えていた。これ以上追っ手を中に入れるわけには行かない。そう判断した彼は、声を大にして叫ぶ。


「アル! 替われー!」


 ソニックに出来たのは建物の中に聞こえるほど大きな声で叫ぶことだけ。あとは祈るしかない。何事もなく済むことと、できる限り早くが来ることを。


 ソニックはそのまま落ち着く暇も無く、新たな追っ手と戦うことになってしまった。刀は先程の武芸者の腹に刺さったまま。それを引き抜く時間は無い。仕方なく目の前に落ちている剣を右手に、殺した武芸者の手が握っている剣を左手に構える。





 青、黄、赤……様々な色のガラスを組み合わせて出来た三枚のステンドグラス。それらは両壁と一番奥に配置されていた。ここはラクイア大聖堂と呼ばれる建物の内部だ。かつては神父が常駐していたのだが、今は無人となっている。


 奥にはパイプオルガンが置かれている。左右に一列ずつ縦に並べられた長椅子は触れただけでギシギシと音を立てながら微かに揺れる。綺麗に磨かれた白い床は微かにだがアリシエの姿を映し出す。


 緩い外巻きで明るめの金髪に銀色の目。首にある首輪は付いている鎖が短く、先端は綺麗な断面を持つ。彼は穏やかで優しい目つきをしていた。彼の足が床に着く度に鎖が揺れてカチャカチャという金属がぶつかる音を立てる。その音が面白いのか、彼は楽しそうに笑う。


「……ル。替われー」


 微かに聞こえるソニックの声は、鋭い。声の高さは彼より少し低い程度。危険を知らせるその声にアリシエは動いた。ラクイア大聖堂の入口の扉を注視して人が入ってくるのを警戒する。


 ソニックが叫んで数秒と経たないうちに大聖堂の中に誰かが入ってきた。先程までソニックと戦っていた追っ手である。アリシエは視線を男性の腰辺りに向けた。パッと見はカラになった剣の鞘しか見えない。だが黒装束の下に何かを隠しているように見える。


 それに気付いたアリシエはなぜか楽しそうに笑った。普通、命を賭けた戦いの場では真剣になるものだ。そこには笑うような余裕なんてあるはずもなく、あるのは恐怖のみ。命のやり取りをする戦場で笑うなんてまともな精神ではない。


 さて追っ手の男性はというと、ブツブツと何かを呟きながら黒装束の中に手を入れる。その手が出てきた時、指の間に挟むように数本のクナイが握られていた。男性が武器を取り出す僅かな間に、アリシエは目を閉じて再び開く。彼のまとう雰囲気が変わったのは気のせいだろうか。


 男性はアリシエの変化に気付かずに一本のクナイを投げる。クナイはアリシエの眉間に向かって飛んだ。だが彼の左手によって止められる。正確には持ち手を止められた。


 その行為は攻撃の軌道を読んだ上で速さを見切る必要がある。近距離から放たれた武器の持ち手を正確に掴むなんて芸当、普通の人なら不可能だ。よほど目が良くない限り不可能な行為である。しかし彼はそれを見事に実現している。


「こんな攻撃、俺には当たんねーよ」


 アリシエの口調が変わる。優しそうな目つきが鋭い目つきへと変わった。高く可愛らしい声が急変し、低い骨太の声になった。満面の笑みは一瞬にして消え、追っ手を睨みつける。一体彼の身に何が起きたのだろうか。


「お前――誰だ?」


 男性はアリシエのあまりの変わり様に驚いてそう尋ねた。こんなにもすぐに口調も声の高さも雰囲気も、何もかもが変わるはずがないからだ。しかしこの様子は演技とも思えない。少なくともつい先程までは、こんな攻撃的な雰囲気ではなかった。

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