Chapter.3 - In veterinary clinic
暗い空から落ちる雨は激しさを増し、ときおり風と共に小さな動物病院の窓を叩く。
リックが担ぎ込まれてから、およそ三時間。メルはケージの中のリックを見つめていた。
後ろ足に白い長靴のような器具を付けられていたが、命に別状は無いらしい。
馬車に乗っていた人――リックをここまで連れてきた人は、怪我で済んだと知るなり「これ以上の面倒事はごめんだ」と言い、そそくさと帰ってしまった。
「骨や内臓に損傷は見られないですね。よかった」
獣医が検査の結果がをメルに伝える。しかしメルは心ここにあらずといった具合で、変わらずリックを見つめ続けていた。リックは横になり、眠ってはいないが動きもしない。静かに息をし、しばしば「くぅん」と小さく鳴くだけであった。
心拍などの状態が落ち着くまでは連れて帰ることもできない。時計の音が響く狭い待合室で、メルはただただ後悔していた。
静寂を破ったのは、病院のドアが開く音。
「お嬢様」
「マクリッサ……!」
息を切らせて入ってきたマクリッサはずぶ濡れだった。いつものような、シャツの袖の先まで気を張ったような彼女からは想像もつかない。
「どうしてここにいるってわかったの?」
朝に市場でマクリッサを見た時とは違う、「助けに来てくれた」という安堵からの言葉であったが、マクリッサの受け取り方は違った。「見つかってしまった」からその言葉が出たのだと思った。
「…………その前に、言うことがあるのでは?」
メルは息が詰まった。顔が青ざめるのが自分でもわかる。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」
絞り出した声は小さく、掠れ、静かなこの病院でなければ目の前のマクリッサにも届かなかっただろう。
マクリッサは何か言おうとしたが、「保護者の方で?」と割り入ってきた獣医に遮られた。リックの状態や治療費のことなど、ひととおり話と手続きを済ませ、再びメルと向き合う。
もう息は乱れていない。メルを見つめ、十秒ほどの間を置いて、落ち着いた声で話しはじめる。
「リックを連れてこなければ良かったとお思いですか?」
メルは「うん」と、はっきり答えた。自分が連れ出したせいで怪我をしてしまったのだから、当然だ。
「…………――どうしてここが分かったか、という話でしたね」
いつの間にか濡れた外套とエプロンを脱いだマクリッサは、メルの隣に座った。
「女の子より犬の方が印象に残っていると思い、コッカー・スパニエルを見なかったかと聞いて回りました。辿っていくと『犬と馬車が接触する事故があったらしい』と噂が耳に入ったので、そこから病院を回ったんです」
マクリッサは手を伸ばし、気持ちの上でリックを撫でるように、ケージを触った。
「リックがいなければ、お嬢様を見つけるのにもっと時間がかかったでしょうね」
――いなければ見つけにくかった。しかしいなければリックが怪我をすることも無かった。怪我をしなければ街に来たことを後悔もしなかった。後悔しなければ……早くマクリッサが来てほしいと思っただろうか?
――いいや、いなければ……馬に跳ね飛ばされていたのは私だったかもしれない。
馬でなくとも、宿に泊まるお金も無いのだ。雨の中、毛布もなく橋の下で眠ることになったかもしれない。震える体を虫たちが這うかもしれない。
メルの体が揺れ、表情がこわばったのを察したが、マクリッサは続けた。
「リックにストレスがかかるといけないので、帰りに馬車は使わず歩きます。疲れているでしょうが、そのつもりでお願いします」
「言うまでも無いですが、今後このようなことはやめてください。自分の行動がどれだけ周りに影響を与えたのか、身をもって感じてください」
「ナージュも心配していました。帰ったら彼女にも謝っておいてくださいね」
「とはいえ……鍵も内側から簡単に開けられる、旦那様の言いつけをいつでも破れる状態にあったことは私のミスです。私は……責任をとります」
メルは「うん」「うん」と涙声で返事をしていたが、最後の『責任をとる』が指す行動を察することはできなかった。
箱入り娘は、ただそれを知らなかった。
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