「バロック」「猫の手」「偽善者」 (2017年09月25日)

矢口晃

第1話

「バロック」「猫の手」「偽善者」



 ため息なんかつかないでおくれ。猫の手も借りたい忙しさだっていうのに。僕にばかり引っ越しの準備をさせておいて、君は窓際にぼけっと立って煙草なんか吹かして、それでいてため息ばかりついているなんて、不公平じゃないか。

 引っ越しをしようと言い出したのは、君の方じゃないか。僕はもともとそれほど不満でもなかったんだ。この街での暮らしも、このアパートでの生活も。

 決して栄えてはいないけれど、この街には昔ながらの八百屋もあるし、魚屋もある。肉屋だって少し埃っぽい古本屋だってあった。駅前から通り一本離れた路地には商店街があって、そんなににぎやかではないけれど、寂しい感じもしなかった。

 このアパートは木造で、築四十年も建っている。震度二の地震が来ても震度三くらいには感じるし、隣の部屋で流れるステレオの音楽も、まるで同じ部屋で聴いてるみたいにはっきりと聞こえてくる。アパートの前は広い駐車場で、日当たりは最高だ。その駐車場の向こうには新築のきれいなマンションが建っていて、そのどこかの部屋からは、週末の三時になるとバイオリンのきれいな音色が決まってバロック時代の音楽を奏で始める。。僕は何も用事がない時は、その音色を聞きながら、缶ビールを開けて、ピーナッツをポリポリ噛みながら、うとうとするのが結構好きだった。

 だから、不満はなかったんだよ。この部屋の暮らしには。

 君となんて、付き合わなければよかった。そうだ。君と付き合い始めたのが、僕の運の尽きだったんだ。

 僕はただ、平穏に生活したいだけだった。

 お金だって、全然ないのは困るけれど、そこそこあれば十分だった。毎月の家賃が払えて、電気代とガス代と水道代と携帯電話の料金を滞りなく収められて、なおかつ手許にいくばくかのお金が残れば、それで十分だったんだ。月に一回、コンビニのおでんを好きなだけ買うのが、僕の些細なぜいたくであって、幸せだったんだ。

 最初に好きになったのは、僕の方だったかもしれない。けれども僕は、どこかで気が付くべきだったんだ。

 僕の本当の幸せは、君と一緒にいることではない、ってね。

 確かに君と出会ってから、僕の生活は一変したよ。自由に使えるお金も増えたし、毎日おでんを食べられるようにもなった。

 でもね、変わったのは、いいことばかりじゃなかったんだ。変わらない方がよかったことも、たくさんあったよ。

 わかってる。今更言っても、しょうがないっていうのは。

 でも、僕はもう君から離れられなくなってしまったんだ。最初から、それが君の狙いだったていうのは、今になったらよくわかるよ。君に出会った当初は、全然気が付かなかったけれどね。

 僕は、善人になりたかった。貧乏でもいい。偉くならなくてもいい。ただ、人から愛される善人になりたかったんだ。僕の名前にも、両親のそんな願いが込められているんだ。

 君みたいな偽善者に騙されて、僕がこんなになってしまうなんて。

 とにかく、そんなことを言っていてもしょうがない。引っ越しの準備を急ごう。

 地元の銀行の防犯カメラに映ってしまったんだろう? 僕が、君に命じられて、あのおばあさんの口座からお金を引き出そうとしている姿が。

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「バロック」「猫の手」「偽善者」 (2017年09月25日) 矢口晃 @yaguti

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