夏休み
相生薫
第1話
1
幼き日に想いを馳せる
青き空、緑の大地
草いきれの野原を駆け巡る
虫を追い、風に流され、巨木の囁きに耳を傾ける
朝日に力をもらい、夕日に涙する
今は無き命みなぎる地球
コンクリートとアスファルトに覆われたこの土地を再び私は堀返し、元の地球に戻すのだ
バイザーに張り付いた赤錆び色の塵を手で拭うと、彼は、延々と地平線のかなたまで続いてる荒涼とした大地を眺めた。見渡す限り、赤茶けた岩と砂しかない世界。空までもが不気味に赤黒く広がっている。
『幼き日に思いを馳せる青き空、緑の大地』
この赤黒い空を見上げると、ふと、今は亡き父親のメッセージが心に浮かぶ。
それが、詩だったのか、日記の一部だったのか、或いは只の落書きだったのか、今はもう調べようが無いが、父親の手帳に残された文章だということは確かだった。
親父も俺と同じ事を想っていたんだな。
藤井鉄雄は砂にまみれた青い防護服を叩きながらそう思った。
荒涼とした赤茶けた大地。三百六十度、見渡す限り不毛の大地だ。この世界の何処に緑があるっていうのだろう。本当に青い海なんて存在するのだろうか。だが、確かに実在するのだ。それは確かなのだ。
鉄雄は気を取り直し、足下に散らばる岩の中から手頃な重さの頑丈そうな丸い石を拾い上げ、採集パックの中にいれた。浸食された花崗岩の一種だ。ここがかつて川だったことを示している。今はもう只の赤い荒野だが、かつてはここにも液体が流れていた。
風が強くなってきた。そろそろ嵐が来る頃だ。早く帰らなければ。残りの酸素もあと少ししかない。
鉄雄は急いで辺りに散らばったサンプリング機材を片づけ、ランドローバーに載せた。密閉式の防護服に動きを捕られ、のそのそと機材を片づけると、埃まみれの運転席に乗り込み、イグニッションキーを回した。新品の時は真っ白だったランドローバーは今や赤錆と泥にまみれて見る影もない。鉄雄の乗った車は咳する様に車体を振るわせてゆっくりと走り出した。
鉄雄の父親は大学と大学院で量子力学を研究し、卒業後は民間大手企業に入社し、政府の「世界環境保全計画」を手伝うという変わった経歴の持ち主だった。研究生時代は専ら放射線の研究をしていたが、徐々に生物環境学に目覚め、食物連鎖の重要性にこだわった。
人間は食物連鎖無しでは生きられない。たとえ人間が食物連鎖の輪から抜け出しても、傍らに食物連鎖が存在しなければ生きられない、と彼は主張した。
環境破壊が危惧された当時、彼の意見に賛同するものは多かった。誰もがオゾンホールの拡大を恐れ、全ての企業が「地球に優しく」をモットーとした。
やがて、政府が動き出し、各国が「世界環境保全計画」を唱い始め、鉄雄の父はその一部を担うこととなった。
ランドローバーは巨大なクレーターの縁に沿ってゆらゆらと進んでいた。遠くに今にも潰れそうなキャンプ・ノアが見える。密閉されているとは到底思えない埃まみれの建物の横には脱出シャトルの格納庫が液体水素の煙を上げていた。
突然、ローバーの無線機が薄い空気の中で不愉快な音を鳴らしはじめた。
ザーザー、ザー、キュッ、キュッ、ザー
「キャンプ・ノアよりT-2へ、そろそろ花火が上がる頃だ。早く基地に戻って来い。あと30分だけ待つ。繰り返す。キャンプ・ノアよりT-2へ、30分以内に戻って来い」無線機からグラス少佐の無機質な声が響いた。
ノイズがひどいので、ボリュームを下げようとした途端、『花火』は舞い降りた。
鉄雄の正面の中空に現れたその光は巨大な流星と化し、鉄雄の背後の地平の彼方に落ちていった。
鉄雄が背後を振り返ると、地平線の彼方に閃光が広がった。赤茶けた空は一瞬にして光の洪水となった。
遠退いて行く光の波の中心からキノコ型の雲が蒙々と立ち昇った。
「少しのんびりしすぎたな」
鉄雄は舌打ちをしてアクセルを踏む足に力を入れた。衝撃波が届く前にキャンプにたどり着かなければ、木っ端微塵になってしまう。鉄雄のローバーは岩を蹴散らし、クレーターの縁を疾走していった。
ローバーが荒野を疾走する様は、まるで糞転がしが慌てて逃げていく姿に似ている。長いサスペンションをガタガタと振るわせ、砂埃を撒き散らして一目散にキャンプを目指す姿は小さな虫のようだ。
しかし、それにしても早すぎないだろうか。確か、嵐の後にやってくると聞いた筈だ。時計を見ても後2時間は余裕がある筈だ。何か緊急事態でも起きたのだろうか。
キャンプの薄汚れた白い壁が視界一杯に広がる頃には地面が大きく揺れだしていた。
不気味な地鳴りが辺り一面に木霊し、大地の震えが漸く激しくなってきた時、鉄雄のランドローバーは搬出・搬入用エアーロックに滑り込んだ。
ビーッ、ビーッ、ビーッ。
建物の中では警報が鳴り響き、所々で赤い警告回転灯がグルグル回っていた。
エアーロックが閉じ、天井のあちこちから合成空気の白い蒸気が吹き出る。
「遅いぞ、鉄雄!」インナーエアーロックからグラス少佐が飛び出てきた。「早くシャトルに乗るんだ!」
「すぐ行きます」
鉄雄はローバーに載せた機材やサンプルの入ったのバック肩に引っかけ、グラス少佐の後に続き、インナーエアロックの中に駆け込んだ。
インナーエアロックが閉じた途端、衝撃波が基地を地面ごと揺さぶった。床から突き上げる衝撃に鉄雄とグラス少佐は空中に投げ出され、壁に身体を嫌というほど打ちつけた。
「時間がない。すぐに二発目が来るぞ」
グラス少佐はフラフラと立ち上がり、鉄雄を急かした。
「こんなに酷いなんて聞いてませんよ」
しとどに壁に打ちつけた後頭部をさすりながら鉄雄は立ち上がった。
「俺もお前がこんなに遅く帰ってくるなんて聞いて無いぞ」
「私は遅刻してませんよ。ヤツが早く来すぎたんです」
鉄雄がそう言い終わるか終わらない内にまた衝撃が二人を襲った。
グラス少佐は鉄雄の腕を捕り、シャトル搭乗口へと続く廊下に鉄雄を引っ張り出した。
廊下は照明が消え、補助電灯と警告灯だけが灯っていた。スタッフは全員シャトルに避難したらしく、薄暗い廊下には二人の他には人の気配すら無かった。
衝撃波の振動で立ち上がる埃に蒸せながら、鉄雄はグラス少佐に引き擦られ、ヨロヨロと薄暗い廊下を走り出した。
「第二級緊急警報が発令されました。スタッフは全員避難してください。繰り返します、第二級緊急警報が発令されました。スタッフは全員……」
スピーカーからセキュリティーコンピューターの落ち着き払った声が流れた。
右足の太股に激痛が走る。
壁に打ち付けられた時に机の角に足を打ち付けたか、何か破片が飛んできたのだろう、鉄雄の太股から血が流れ出していた。防護服のパンツが破け、そこから真っ赤な血液が滲み出ていた。足を運ぶ度に激痛が走る。グラス少佐も左手を負傷したらしく、鉄雄を支えていない左腕をぶらぶらさせていた。
基地の何処かで火災が発生したのか、薄暗い廊下のあちこちから気化二酸化炭素が吹き出していた。二酸化炭素のシャワーを浴びながら二人は進んだ。緊急モードに入ったキャンプ・ノアは、いつも見慣れたキャンプ・ノアと異なり、狭苦しい地獄の迷路のように見えた。
ヨロヨロと走る鉄雄達を衝撃波の第二波、第三波が容赦なく襲い、二人をおもちゃの人形の様に四方の壁に叩き突けた。
「これじゃあ、全面核戦争だ」
グラス少佐は奥歯を噛み絞るように呟いた。
「日本の地震はいつもこんなもんですよ」
鉄雄はグラス少佐の肩を叩いて嘯いた。
二人はお互い肩を抱き合って、絡み合うように廊下の奥へと消えていった。
跡には警報音が鳴り響き、赤い警告灯がグルグル回って廊下を照らし、鷹揚の無いセキュリティーコンピュータの声が誰も居ない廊下に空しく響いていた。
二人が脱出シャトルのハッチになだれ込むと、ハッチの側にいたルストフ軍曹が駆け寄ってきた。
「少佐!ミスター・フジイ!大丈夫ですか」
「大丈夫だ。全員乗り込んだか?」グラス少佐は尋ねた。
「はい、お二人が最後です」
そう言うと、ルストフ軍曹は鉄雄からグラス少佐の肩を預かり、少佐をキャビンに運んだ。
鉄雄は痛む足を引き擦り、二人の後に続いた。
脱出シャトルのキャビンには不安な顔でシートに収まる兵士や研究員で一杯だった。
「着弾点が随分ずれているようだが…」鉄雄はグラス少佐の安全ベルトを装着するのを手伝いながら尋ねた。
「太陽が突然、黒点活動を停止したために花火の軌道がずれて二時間十四分早く着弾しました。宇宙風の影響です。大気圏突入前に軌道修正をかけましたが、間に合わなかったんです」
「早く教えてくれよ」鉄雄は情けない声で言った。
「私もさっき知ったところです」ルストフ軍曹は事務的な手つきで鉄雄の安全ベルトを締めると自分の席に走っていった。
格納庫のシャッターが前方で開き、シャトルの窓から弱々しい太陽光が漏れだした。格納庫の前面がきれいに取り除かれると、シャトルの下から遥か彼方までジェットコースターのレールに似たカタパルトが現れた。
「発進します。全員加速に備えてください」コンピューターの声が終わるや否やシャトルはエンジンを吹かし、鉄雄達はシートに身体を押さえつけられた。
カタパルトからシャトルが投げ出された。花火の爆風のお陰で機体はポルターガイストのようにガタガタ震えていた。ただでさえサテライト・ラブのレーザー照射で気象が悪化しているのに、花火の着弾点修正ミスのお陰で爆風が吹きすさび、シャトルはおもちゃのように揺れている。木星基地から発射されているこの花火の大群にシャトルが衝突しないとも限らない。
無事に無限落下軌道に乗ったら、管制室の誰かを捕まえて文句の一つも言ってやろうと、鉄雄は思った。
どのぐらいの時間歯を食いしばって悪魔のような揺れに耐えていたのだろう。おそらく、5分かそこらなのだろうが鉄雄には2時間にも3時間にも思えた。気がつくと、いつのまにか揺れは治まり、シャトルは自由落下軌道に乗っていた。鉄雄は恐る恐る緊張を解き、窓の外を眺めた。
そこには、所々に小さな海を散りばめた、火星の姿があった。テラ・フォーミングを始めたばかりで二十世紀の面影を残したままの火星だ。人為的ディープ・インパクトであちこちに大きな嵐が発生しているが、あの赤茶けた色はそのままだ。
シャトルのエンジンはまだ微かに噴射を続け、より高い高度へと、自由落下の井戸をジリジリと昇っていた。昇り着く先は「サテライト・ラブ」。火星の遠距離軌道を回るテラ・フォーミング・プロジェクトの中枢基地。国際空間軍とヨーロッパ宇宙開発事業団が共同で建造した小型スペース・コロニーだ。シャトルは相対速度をゆっくりと縮めながらサテライト・ラブへの長い道を昇って行った。
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