この唇はあなたのために
HAL
第1話 さよなら、梅雨前線
私は、幼馴染の春香のことが好きだ。
ライクじゃなくてラブの方。女の子が女の子を好きなんておかしいって思われるかもしれない。
まあ普通はあり得ない。だけど、そんなこと私が一番良くわかってるんだ。でも好きなものは好きなんだから仕方ない。
物心ついたときから、私たちは一緒にいた。春香はいつも泣きべそをかいている私の手を引いてくれた。その手の温もりは今でも時折思い出す。
何度も隣で季節を数えて、いつのまにか、春香の存在が当たり前になっていた。
だけど、一緒に地元の高校に進学して少し経った時、私はふと自分の中の異変に気が付いた。
「春香の裸が見たい」
きっかけは思い出せない。たぶん、心の奥深くに眠る欲望が、入念にシェイクされた炭酸飲料のキャップを開けた時のように、噴出したのだろう。
それと同時に私は理解した。
幼馴染を、性の対象として見ていることを。
幼馴染を、独り占めしたいと思っていることを。
なにより幼馴染に、恋愛感情を抱いていることを。
「夏実ー!聞いてるのー?」
「え、あ、ごめん!ははは…ちょっとぼーっとしてた」
「まったくもう。そんなんだからいつまで経っても彼氏出来ないのよ」
「それは春香もでしょ」
ああ、またこのやりとりだ。改めてこの想いが春香に届かないことを再確認させられる。しかも無意識な本人からっていうのが最高に皮肉。
「私はいいのよ。彼氏欲しくないもん」
「いつもそれ言うけどさ、私たちがそれ言うと負け惜しみっぽく聞こえる」
言葉とは裏腹に、生暖かい安堵の風が胸を撫で下ろす。
「べっ、べつにそういうわけじゃないもん。作ろうと思えば10人くらい作れるよ!」
「また随分思い切ったね。そういえばさ、春香なんか言いかけてなかったっけ?」
「ああっ!そうだ、ここわかんないから教えてもらおうと思って」
そう言って春香は、夏休みの宿題である数学のプリントを差し出した。私たちは春香の部屋で、一緒に勉強をしているのだった。
「ほう、どれどれ……。これはね、一旦a+bの部分をAと置いて……。」
春香が納得するまで何度も説明した。私たちは昔から役割が決まっている。運動は春香、勉強は私。苦手なものはお互いにフォローし合える関係が、たまらなく心地良い。
「わかった!!ありがと、夏実!もう一回自分で解いてみるね!」
そう言って春香は再びノートに向かう。計算式を書き綴るシャープペンの装飾が、楽しげに揺れている。
のめり込むように前屈みになる春香。薄手のワンピースの首元から、ちらりちらりと柔らかそうな胸が見え隠れする。
やばい。
落ち着きなさい夏実。
意識しちゃだめ。
そうだ、素数でも数えよう。
2.3.5.7.11...
ってこれじゃ完全に男の子だ。
「出来た!」
春香は満足気にノートを見せてきた。
丁寧に書かれた数式が、正しい答えを自慢気に示している。
「おお!合ってるよ!よく出来ました!」
「えへへ、やったっ」
「とりあえず、夏休みの宿題はこんなもんかな」
「ねえ、夏実」
「ん?なに?」
「好きな人いるでしょ?」
「……えっ…?」
沈黙。空白。間。
不意に投げ込まれた爆弾に、私の頭は正常に動くのを止めた。
「あ、やっぱりそうだ」
「なっなんでそんなこと言うのよ。居ないわよ別に好きな人なんて」
「嘘。お天道様を騙せても、幼馴染の目は誤魔化せません」
春香はしたり顔で私を見つめている。
今まで一度も思ったことは無かったが、この時ばかりは幼馴染という関係を恨んだ。
「どうしてそう思ったの?」
私は春香の純粋な目に観念した。
別にいいんだ。適当にごまかせば。
どうせ春香に伝えることなんて出来ないし。
「最近の夏実、なんか可愛くなったもの」
「…ばっ…ばっかじゃないの」
可愛いという言葉が胸に刺さる。
それは紛れもなく、春香の口から紡がれたものだからだ。
こんな状況でも、泣きたいくらい嬉しかった。
「それにね、恋してる顔してるもん」
「春香にはかなわないなあ…。恋かどうかは別として、気になってる人はいる」
「あ、やっぱりそうなんだ!なんだ、水臭いなあ、言ってくれれば良かったのに」
私が男の子で、この気持ちを言えてたらどんなに楽だっただろう。
例え振られたとしても、よくある話として終わったはずだ。
だけど、幼馴染で女の子同士なんて、それがきっかけで一緒に居られなくなっても文句は言えない。
「ねえねえ、相手はどんな人なの?」
「えっと、いつも私のこと一番に考えてくれて、優しくて、あったかい人…かな」
「ふふっ、そんな完璧な人、夏実にはもったいないんじゃないの?」
「もう、春香ってば!」
いい加減分が悪くなってきた。そろそろ話題を変えたいな。春香のママが用意してくれたオレンジジュースに口をつける。氷が溶けたせいか、少々薄めの酸味が口の中に広がった。
「……気持ち伝えないの?あ、さっきから質問ばっかりだったね、ごめん」
春香が申し訳なさそうに私を見た。
「ううん。それがね、やめておこうと思ってるの」
今日1番の私の本心。春香にこれを伝えることは、私の中の気持ちを永遠に封じ込めることになる。まあ、当の本人はまさか自分のことだとは思ってないだろうけど。
「そっか」
春香は予想外に、安堵した表情を見せた。
「あれ、気持ち伝えた方が良いって言われるかと思ってた」
「うーん…」
春香がシャーペンを置いて黙る。今まで、うじうじしている私の背中を押してくれてきた。いつだってそうだった。だからこそ、春香が躊躇する意味がわからない。
「あのね、私子どもだから、夏実と距離が出来るのはつらいかも」
春香は、ほっぺを掻きながら言った。
「春香…」
「さっきも言ったけどね、彼氏欲しくないっていうのは冗談じゃなくて、こうやって夏実と一緒にいる時間が楽しいからなの」
とくん。落ち着き始めていた私の心臓が再び動き始めた。
「わ、わたしも!」
これくらいは伝えてもいいよね。ここぞとばかりに、私の声が部屋に響く。
「夏実……。ふふっ、私たちってほんとに仲良しだよね」
「当たり前じゃない。幼馴染なんだから」
とくんとくん。おかしい。心臓の鼓動がどんどん早くなる。
「夏実?どうしたの?顔色悪いわよ?」
待って。今近付かれたらやばい。春香は小さな手を伸ばして、私の額に当てた。
「熱は無さそうね。ちょっと休む?」
どくんどくん。だめだ。墓場まで持って行くって決めたのに。言いたい。伝えたい。目の前の女の子に、私の気持ちを全部あげたい。
「春香ぁっ……。うっうぇっ、うっうっううっ」
目から温かい何かが零れ落ちた。一度決壊したそれは、止まることなく溢れ続ける。
たぶんこれは雨だ。それも、6月中旬くらいの嫌な感じのやつ。春と夏の間には、いつだって雨が降っていて、交わることなんて出来ないんだ。
春香は言葉を発しない。幼馴染の情緒不安定な姿に面食らってるのだろう。
引かれたな。こんなダメな私だから、告白なんてしてもしなくてもそのうち嫌われる運命だったんだ。
そんな私の捻くれた妄想は、
春香の香りと柔らかさで掻き消された。
「夏実、ごめんね。私、夏実のことが好きよ」
そう言って春香は私を抱きしめた。
「…………っ?」
「だから、夏実のこと好きって言ったの。何度も言わせないでよ」
私はわけがわからなかった。春香の言葉が、私の身体の中で弾けて回転してる感じ。でも何故か、涙が止まらなかった。
「うぇ、うっうっ、春香が……私を好き?」
「そう、ライクじゃなくてラブの方だよ」
「………ううっ」
突然のことに言葉が出て来ない。私の頭は、状況を理解するのを諦めたかのようだ。
「ほんとはね、夏実から言ってくれるの待ってたんだよ?」
「え、わっ…わかってたの…?」
「あんなに胸とか見られてたらね。男の子と同じ様な視線だったもの」
「……ごめん。あんまりにも春香が可愛いから…」
それも気付かれていたのか。消えてしまいたい。自分でも自覚できるほど、ほっぺたが熱くなった。
依然として春香は私を優しく抱き締めている。
「でもなんで私から言うの待ってたの?」
「だってそれが乙女心じゃん」
「ちょっと、私も女の子なんですけど!」
春香は、物凄く嬉しそうに笑った。
ああ、こんな表情初めて見た。幼馴染として、春香のことは何でもわかっている気になってた。
そんな事を考えると、余計にどきどきして、もっと別の表情を見てみたいと思った。
「春香、目つむって」
「うん」
春香は特に理由も聞かず、私に言われるがまま目を閉じた。
不思議と私の胸の鼓動は落ち着いている。私の身体も、春香との関係を応援してくれるようだ。
「んんっ…」
私の唇が、春香の柔らかい唇に触れた。人生の1ページに、春香とのファーストキスが鮮明に刻まれた。
私たちには、梅雨はもう来ない。
そして新しい季節が、今日から始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます