メーデー、鬼畜島に囚われまして……。

青野はえる

序章 転移、のち宣告。

1 便所、のち転移。

 「何なんだよ……ここは」


 目を丸めるってのは、こういう事を言うのかな。

 そんな思案にふけるほどに、俺は困窮しきっていた。

 煉瓦積みの家が連なる、どこか古風な西洋的街並みに。十人十色。まるでこの世のものではない、様々な色の髪や瞳孔を持ち合わせた、見慣れない人の群れに。

 そのすべてが自分の脳に処理能力を超えた数多あまたの情報を植え付けてくるような、目前に広がる、異形の景色に。


 前段を少し説明しておこう。

 俺こと、朝凪湖月あさなぎこげつは、とある街の公立高校に通っている。歳は17で、趣味特技に関しては、秀でたものは特になし。まあ、誰にでもありそうな趣味を一つあげるとすれば、これから述べる内容で事足りるだろう。


 ある日の暮れ、高校からの帰途、俺はあいも変わらず、通い慣れた古本屋に立ち入っていた。といっても、本だけでなく家具やなんかまで買い取ってくれるような、大手チェーンではなくて、人通りの薄い細道沿いにチラと目に入る、ややタバコ臭い古ぼけた小店。寄り道というには少し帰路を逸れてはいるが、自宅の最寄り駅からほど近い場所に店を構えているということもあって、暇潰しや気紛らしとしては、便利に使わせてもらっている。

 遊び好きに見えるとよく言われるチャラい顔に見合わず読書家な俺は、いつもと違わず、掘り出し物を探して純文学のコーナーをうろついていた。

……正しくは、ラノベコーナーと純文学コーナーを行ったり来たりしていたんだ。

 人目を気にするのはあまり好まれたことじゃないが、最近の若者はラノベばっかり読むだとか、あーだこーだ怒鳴り散らすおっさんのブログを見ていると、どうもその若者って自分のことじゃないかと感じ、複雑な思いに浸ることがままあるのだ。

 ラノベは好きだ。次いで、純文学も嫌いではない。そんな気持ちにも気圧され、結局のところどっちつかずな行動に及んている次第だ。


 そんな、どうにも気の浮ついた男子高校生たる俺は、はたと尿意に目覚め、店の奥にある小さな便所へ向かった。

 男女共用なので、男性用便器ではなく、ごく普通の洋式便座。腰掛けつつ、用を足した後立ち上がった俺は、寸前の白壁を見て、違和感を覚えた。

 壁の真ん中で不自然に蠢く、雀の涙よりも小さな、黒い点。視認するのも目が疲れるほど小さな点だったが、動きが不規則で、ヌルヌルと気持ち悪かったため、気付いてしまったようだ。


 「んだよこれ、虫か?」


 なんとなくイラついてきたので、俺はおもむろに右腕を伸ばし、黒点を追うように、そっと指を近づける。飛んできたら厄介なので、刺激しないように、できる限りそっと。

 そして、人差し指の先が点に触れようとした、まさにその刹那。


 凄まじい速度で、点がその姿を拡大した。まるで、餌を前にした大蛇が、普段こそ慎ましやかに閉じて舌をニョロニョロさせている口を、豪快に開いたような迫力。

 その迫力と共に、点の肥大化によって現れた渦巻く乱気流。それは俺をまるごと飲み込むように、狭い個室に充満していた。

 黒や灰、紺などが混じった歪なその色は、これからお前をはるか彼方の地獄へと誘ってくれようとでも言いたげな、名付けようのない威圧感を放ち、恐怖感を煽る。


 「うぉっとっ……」


 気流の乱れのせいで、立っていることもままならない。俺はなされるままに背後に倒れ、床で尻を打ったが、痛みを気にしている余裕はなかった。


 何だよこれ、俺をどうしようってんだよ……。


 何か悪いことでもしたのか。あるいは、変な組織の実験にでも巻き込まれたのか。SF映画のタイトルがいくつか脳に浮かんだが、今の状況に適うものなど、見当たらない。

 気流の乱れは激しさを増し、俺は段々と、喉を潰されるような息苦しさに苛まれ始めた。酸素がうまく回らない。眠気にも似た感覚が、降って湧いたように俺を襲う。そして当然、体はピクリとも動かない。


 もう、勝手にしろよ。


 眠たさ、苛立ち、不安。色んな感情がないまぜになり、結論として、投げやりという言葉が放り出されたのを確認した俺は、このどうしようもない状況に、自分が手を打つことを諦めてしまったことを自覚した。


 後はもう、本当に、なすがまま。


 意識が覚醒した頃には、俺はこの見覚えのない街の一角で、浮浪者みたいに腰を下ろしていたというわけだ。


 さて、ここは一体どこなのか。

 わきを見遣ると、薄汚れ、シワのついた紙切れが一枚落ちていた。手を伸ばし、拾い上げて読んでみる。


 「……読めねぇ」


 英語でも、中国語でもない。まして日本語なわけもない。古代文字と呼ぶにも少々形がユニーク。要するに、まったくもって見覚えのない文字だ。読めるわけがない。

 ははっ、読めない紙切れをぼうっと眺めてる俺、しょうもねぇ。

 俺は思わず声を漏らして、皮肉るように笑った。


 「ねぇお母さん、あの人なんであんな所に座ってるの? それに笑ってるよ、何が面白いの?」


 「こら、見ちゃいけません!」


 よくある親子のやり取りの的になってしまった。幼子を必死に抱え込むエプロン姿のお母さん。

 周囲の景色に馴染まない、白いカッターシャツと黒い長ズボン。ああ、こりゃ間違いなく不審者の立場だな俺。危ないよお母さん、俺から逃げて。あと俺の母さん、俺、不審者扱いされました、すんません。


 なんてくだらないことを考えているうちに、俺はさらに気づいたわけである。


 日本語を、喋ってらっしゃる。


 ああ、これは確かに、紛うことなき日本語だ。俺が意を理解出来たのだから、日本語に決まってる。日本語しかまともに話せない俺がまともに意味を把握して、心中で親に謝罪までしたのだから。


 いやはや、文語は意味不明、でも口語は日本語。こんなちゃんちゃらおかしい国が、果たして世界のどこにあったと思う? 俺が知らないだけで、広い世界の中には、そんな国があるかもしれないって? 確かに、その可能性は否定できない。でも待ちたまえ。そして思い出せ。俺は一体どうやってここへ来たのか。トイレの中で、気流に巻き込まれて来たのだ。そんな非現実的な現象の果てに、世界の果ての秘境へたどり着くなんてこと、あるのだろうか。

 答えは否だ、とまで言い切るつもりは無い。しかしながら俺は、産業革命以前の、強弁、不条理がまかり通るようなヨーロッパ諸国に酷似したこの地を、一応、こう呼ばせて頂きたい。


 異世界、と。

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