それでも俺は、やってない(1)
「誤解だ! 俺は触っていない!」
けたましく鳴り響く出発のベル。
ホームに取り付けられたスピーカーから、注意を促す呼びかけが、乗客へ向けてて流される。
ドアが深く息を吐くように空気圧を抜きながら閉まり、電車はゆっくり動き出す。
次第に加速が上がって行くとタイヤとレールがひしめく音で、周囲の音をかき消す。
そんな電車の騒々しい走行音に負けじと、駅のホームでは男女の口論が虚空に響く。
電車が走行音の余韻を残しつつ走り去ると、男女の声はより鮮明に聞こえるようになった。
女は金切り声を上げて
「いいえ! 触りました」
どうして俺にはこういう、自信過剰で気の強い女ばかりが寄って来るんだ?
女は滝馬室の腕を高らかに上げて注目を浴びせる。
「この人、痴漢です!」
ホームから階段へ向かう、人の流れが、一斉に彼を見つめる。
まるで無数の刃に串刺しにされている気分だ。
小柄な女は白のブラウスに黒のスーツと膝丈ほどのスカート。
髪はうなじのあたりで縛り襟にかかるぐらいの長さ。
ナチュラルメイクで整えた顔は丸みをおび、目は細く鼻は低い。
色気は薄く美人と呼ぶにはほど遠い、地味で大人しそうなOLだ。
だから、痴漢には丁度いい獲物なのだ。
行為に及んでも騒ぎ立てることをしない。
と、痴漢は考える。
だからって俺が痴漢な訳ではない。
滝馬室は女性の手を振りほどき怒鳴る。
「ち、違う! 俺はやってない!」
彼は女性に対して言ったつもりだが、周囲にも理解してほしいと思い、叫んだ。
いそいそと階段へ向かう人の流れは、滝馬室に冷たく刺すような目線だけを残して去って行く。
彼はこの目線を向けられと、呼吸すら忘れるほどの恐怖を感じる。
仏教には古くから、”
七十二キロメートルにも及ぶ壁に囲まれ、地面は業火に焼かれ天上からは熱鉄の雨が降り注ぎ、生い茂る木々からは刀が鋭く伸び、その刃が罪人を串刺しにして切り刻む。
今まさに滝馬室はこの地獄に放り込まれたかのような気分だ。
しかし、彼は咎められるようなことはしておらず、地獄に叩き落とされるようなことはない。
事実無根。
痴漢など、していないのだ。
朝、家を出る時、こんなことに巻き込まれる何て、夢にも思わなかった。
いつも通りの時間に電車へ乗り、いつも通り通勤ラッシュに揉くちゃにされなが、下車予定の駅で降り会社へ出社する。
そつなく仕事をこなし、五時になったら退社して家に帰って、また次の日、同じ時間の電車に乗る。
今日も明日も、繰り返される平凡な毎日を送るはずだったのに、何故? こんなことになったんだ?
分が悪い状況に更なる追い打ちが重なる。
騒ぎに気付いた二人の駅員がやって来た。
一人は背の高い男で、若さの衰えを感じさせない三十代。
もう一人は二十代くらいの女性駅員。
どちらの駅員も滝馬室を軽蔑する眼差しを向けた。
仲裁に入り男性駅員が心配そうに女に話かける。
「大丈夫ですか? 痴漢の被害に遭われたと、聞こえたもので」
「この人、痴漢です!」
女がこちらを指さして声を荒げると、女性駅員が増悪を込めて睨んで来た。
女二人がかりで睨まれ、四十代中年は息を詰まらせる。
男性駅員が威圧するように、こちらへ質問した。
「あんた。やったんだね?」
待て待て。
”やったんだね?”とは何だ? 端っから俺がやった前提で話を進めるのか?
痴漢の件数は年間で約三四〇件ほどある。
一ヶ月で言えば痴漢が起きない日が、一日か二日あるぐらいだが、被害受けた女性も恐怖や心的ショックで、声を上げずらい。
明るみなってない痴漢はもっと多いはずだ。
つまり痴漢は三六五日、休むことなく起きている。
二人の駅員からすれば痴漢だと突き出されれば、疑いようがないくらい、痴漢は日常茶飯事。
――――――――だからって、俺は痴漢じゃない!
なんとしても疑いを晴らさなければ。
「お、俺はやってない。やったていう証拠が、どこにある?」
そう問い掛けられて駅員二人は女に向き直る。
スーツを着て短い髪をうなじの辺りでまとめ、顔が丸みを帯びたOL。
彼女は少し悩んだ後、答えた。
「指輪……そうよ! 私が痴漢の手を掴もうとした時、指輪が当たったわ」
その答えに滝馬室は活路を見出す。
滝馬室は反論する――――――――。
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