泣きながら抱かれる

カフェを出ると雨が降り出しそうな気配がした。

やっと春めき、ラベンダー色のスプリングコートが着られる陽気になったが、不安定な空模様は自分の精神状態のようだった。


ここのところ、また日曜日が陰鬱としている。智との逢瀬を終えた日曜日の昼下がり、掃除と洗濯を終え一息つくとまた寂しさがやってくる。

以前のようにバイバイと手を振った直後に涙があふれるといったことはなくなったが、それでも気が緩むとすぐに泣いてしまう。


昨晩は結婚の話題になった。

よく智と一緒に遊び歩いていたという男友達が、婚約した。半年しか付き合っていない彼女から、結婚しないなら別れると迫られて決意したという。

「結婚しないなら、別れる」と言われたのだそうだ。

強気に出られる女の人が、心底羨ましかった。最終的には自分を選んでくれるという確信、愛されているという実感。それらの上にしか成り立たない提案。


「遊んでる男の人が結婚したいと思うときってどういうタイミングなのかな」


いわゆるエリートサラリーマンだった智の友達は、合コン中毒のような人間だったと聞いている。


「まあ、元々子供とか家族とか持ちたいってタイプだったけどさ。仕事が忙しくなってきて、この子を逃したらもうしばらく結婚できないかもって思ったんだって」


最近は家で安いワインを飲み比べるのに二人ともハマっていた。智は、空いたグラスにゆっくりとワインを注ぎ足す。シャンパンと違い、赤ワインはぶどうの種類が多すぎて区別がつかなかった。


「じゃあ、結婚願望がない男の人の場合は?」

「そうだなあ」


ワイングラスを置き、鍛えられた腕がソファのヘリに乗せられた。波留はその手が自分の肩に回されるのを期待したが、相変わらず智が波留に触れるのはセックスのときだけだ。


「現役でいることに疲れたときなんじゃないかな。今の彼女よりいい女がまだいいるかもしれないって気持ちがだんだん薄れてきて、”この辺で妥協しよう”って思うんだよきっと。言い方悪いけど」

「ふうん」

(だったらはやく老いてしまえばいい)

注がれたワインを一気に飲み干す。

(もしくは落ちぶれて終えばいい)


”都合のいい女”でいようなんていう余裕はもはや全くなくなっていた。それでも、「私たちどういう関係なの?」「付き合ってくれないの?」とは言わないように細心の注意を払った。どんなに酔っ払っていても、好きという言葉だけは酒と一緒に飲み込んだ。


でも、本当は”彼女”という確定的な身分が欲しかった。あわよくば、”妻”に。

恋心は一過性だし、付かず離れずの関係は曖昧だ。智が手の届くところにいる今この瞬間に、どうにか繋ぎとめてしまいたい。


結婚について考えるのはしんどい。周囲がどんどん結婚していく中、自分だけが取り残されている気持ちになる。結婚がしたいわけではない、智と結婚がしたいのだ。


「波留は結婚願望あるの?」

「どうかなあ。いつかは結婚、したい気もする。30歳とか」

「そうなんだ、意外。てかあと3年しかないんだね」


(智は怖くないんだろうか)

自分より幾つか年上の智の横顔は、これだけ近くで見てもシミや皴がほとんど目立たなかった。

この先ずっと独身でも、彼には未婚への風当たりも社会の圧力も飄々と受け流せる強さがある。結婚という制度で繋ぎとめなくても自分を好きでいてくれる恋人がいること、好きじゃなくなったら単に別れればいいだけということ。智はそれらを当たり前に受け入れられるのだろう。


「ベッド行こう」


智は立ち上がり、ダブルベッドに腰掛けた。波留の手を引き寄せ、抱きしめられる。

セックスの最中、彼は大抵目を閉じており、電気の照明はほとんど暗闇まで落とされる。だから波留は安心して、泣きながら抱かれることができた。智は気づかない。

(あなたが好きだから恋人になりたいし、結婚したい)


重い感情を吐き出したくて、無性にキスマークをつけたくなった。朝、鏡の前に立つとき、着替えるとき、なんなら他の女を抱くとき、波留を思い出せばいいのに。

そう強く願いながら、今の関係性で痕を残すことなどできる勇気もなかった。


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