第191話36-13.偽装と脱出

 人気の無い下足場を抜けて女湯の暖簾をくぐると、多数のロッカーを備えた広い更衣室が現れた。そこには、既に覆面を脱いだ茜とヨーコの姿が見えた。


 古びた革張りのソファに座った眼鏡の少女の髪の毛は汗に濡れ、恐らく走りすぎで息も絶え絶えと言った有様だった。覆面を脱いだ志光は、ヒューヒューと喉を鳴らしている茜に労いの言葉をかける。


「無事だったようだね。お疲れ様。ちょっとした運動になったかな?」

「わ、私の姿を見て……よくもそんな台詞を言えますね。こんなに走ったのは……人生で初めての経験ですよ」

「座り方を変えた方が良いよ。パンツが見えてる」

「そんなこと…………気にする余裕が無いほど疲弊しているのが分からないんですか?」

「普段運動しないからだよ。僕とボクシングの練習をしよう」

「私がまだ人間で、病気もそれほど重くなかった頃、学校で逆上がりが出来なくて、粗野な体育教師に散々いびられた話を三時間ぐらいしてやりたい気持ちですよ! 呪う! 呪ってやるっ!!」


 だらしのない格好で茜がわめき散らしていると、ソレルが次の指示を出してきた。


「脱衣所の中央部にあるロッカーを開けて。着替え用の衣類が入っているはずよ。三分以内にサイズに合ったものを見つけて着替えて。その銭湯に迎えが来るわ」

「了解」


 眼鏡の少女が垂れ流す呪詛の言葉を無視した志光は、脱衣所の中央部にあるロッカーの一つを選んで開けた。そこには、きちんと包装された紺色のポロシャツが幾つも入っていた。


「なんだ?」


 志光はその中の一つを適当に選んで開けた。ポロシャツの左胸当たりには〝共生サービス〟の文字がプリントされてある。


「ロッカーを開けた。〝共生サービス〟のポロシャツがある。これを着るの?」

「そうよ。それは私が持っているハウスクリーニングのダミー会社で、ディルヴェとは直接的な関係はないわ。他のロッカーにはベースボールキャップとバスタオルがあるはずよ。着替えたら、共生サービスのマークがついたワゴン車が来るはずだからそれに乗って。脱いだ服はその場に残しておいて良いわ。他の部下に回収させるから」

「ありがとう」

「それで、行き先は? 一旦池袋から離れたアジトに戻ってから改めて出直す? それとも、大回りをして直接ラブホテルに行く?」

「もちろん後者だ。ただ、新垣さんたちに約束以上のことをさせるわけなには行かないから、アジトの前で降りてもらう。それで、さっき話した大工沢さんの件なんけど、十分後ぐらいに例のビル爆発を起こせるかな?」

「ベイビーが敵とやり合っている間に大工沢から連絡が来ているわ。いつでも大丈夫だそうよ」

「じゃあ、爆破を頼む。今なら警察はサンシャインシティの件とビル爆発の件で手一杯になるはずだ。その隙を突いて、一気に物資をラブホテルに運び込む」

「分かったわ。物資輸送の差配は私がやっていい?」

「もちろんお願いする。ただし、他の人で良いから爆発が起きた後の状況を逐一報告させてくれ。よろしく」


 ソレルに次の計画の手順を伝えた志光は一旦無線機を外すと、次々とロッカーを開けてベースボールキャップとバスタオルを引っ張り出した。少年はそれらをロッカーの上に置いて、残りの三人に見せる。


「無線連絡があった通りです。ここで着替えて、迎えの車に乗りましょう」


 続いて志光は上衣を脱ぎ、汗まみれの身体をバスタオルで拭った。新垣とヨーコも、その場で服のボタンに手をかける。


 しかし、茜だけは疲れた身体を引きずるようにして、三人の視界からはロッカーで隠れる場所まで移動した。彼女はバスタオルを手にしつつ、志光に釘を刺すのを忘れない。


「ヤリチンさん。覗いたら殺しますよ」

「前にも言ったとおり、女性の着替えは見慣れてるし、特に過書町さんのサイズなら気にもならないから安心して良いのに」


 少年が軽口を叩きながらポロシャツに袖を通していると、茜が着ていた白いシャツが弧を描いて飛んできた。彼はそれを片手でキャッチすると中央ロッカーの上に置き、改めて無線機を装着してからベースボールキャップを被る。


「行きますか」


 残りの三人も〝共立サービス〟の清掃用シャツに着替えて銭湯の大きな鏡の前で準備を整えると、志光は彼らを先導して入り口への引き戸を開けた。ソレルの言っていた通り、建物の目の前には〝共立サービス〟という文字が描かれた大きな白いバンが停まっている。


 バンの運転席にいたのはウォルシンガム三世だった。彼も四人と同じポロシャツを着用している。


 陰気な青年が無言で頷いたのを見た志光は、車の後部ドアを引き開けた。清掃用具が詰まれた車内に全員が着席すると、バンはゆっくりその場から発車する。


 車が動き出して銭湯から離れたのを確認した志光は、ふうっと安堵の溜息を吐いた。それを待ち構えていたかのように、新垣が彼に声を掛ける。


「棟梁。さきほど、私とヨーコはここでお役御免と言うことを、お話になっていらっしゃったようでしたが」

「ええ。男尊女卑国の方には、物資運搬のお手伝いをしていただいているだけですから、それが終わってまで危険な戦いにご参加いただくわけには……」

「ヨーコはそれで問題ありませんが、私は残していただきたい」

「新垣さんが? それは心強いですが、一体どうして?」

「ホワイトプライドユニオンの関係者、私が殺したあの少年が女性を殺害したからです。今までは、ただの人種差別問題だったので、私の公的な見解は差し控えさせていただいておりましたが、女性に危害を加えたとあっては話は違ってきます」


 禿げた中年男性はそこで隣の席に座ったヨーコの顔を覗き込むと質問する。


「なあ、ヨーコ。俺が女を殺すようなゲス野郎を放っておいたら、他の奴らに何て言われるか分かるよな?」


 派手な中年女性は満面の笑みを浮かべて回答した。


「もちろんよ、拳示。腰抜け野郎、フニャチン、役立たず……後は何かしら?」

「なるほど」


 ヨーコの言葉を聞いた志光は唇をへの字に曲げた。


「沽券に関わる問題なんですね」

「男尊女卑国の男が腰抜けと呼ばれるのは、ハーレムから追放される前兆です。私はまだ、自分の支配地域で女性たちからチヤホヤされたい。お分かりいただけますか?」

「承知いたしました。それでは、僕に同行して……」


 志光がそこまで言いかけたところで、車を震わせるほどの物凄い爆発音が聞こえてきた。車内にいた全員が口を閉じ、お互いの顔を見合わせる。


「祭りの始まりですか?」


 ウォルシンガムが後部座席の悪魔たちに声を掛けた。彼の運転する白いバンが大通りに出たところで、サイレン音をけたたましく鳴らしたパトカーが信号を無視して雑司ヶ谷方面に走って行った。

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