第188話36-10.新垣の空手

 絶命した魔物が固い地面でバウンドしてから黒い塵と化す間に、茜が志光の脇に走ってきた。彼女は右で道路の右側を指す。


「新垣さんはウチの仲間を助けるためにそこの路地へ行きました。ヨーコさんは警察を抑えに行ってます!」

「僕は新垣さんの加勢に入る! 過書町さんは後ろの方で人間が来ないように見張っていて!」

「はい!」


 眼鏡の少女の返事を聞いた少年は、即座に前進して一つ目の角を右折した。左側が自動車教習所、右側が豊島郵便局という道路の中央には、新垣が仁王立ちになっている。


 禿げた中年男性と対峙しているのは、二体の魔物と一人の少年だった。ソレルの報告通り、少年の目鼻立ちは日本人と異なっていたが、比較的長い髪の色は黒かった。


 白人少年の背後には麗奈の部下たちが立っていたが、その中の一人の額は腫れ上がっていた。彼女とは別に、少年の足元にはスーツ姿の男性がうつ伏せに倒れ、大量の血を流していた。


 志光は状況を一瞥すると、新垣の斜め後ろに立った。女尊男卑国の女性を除けば、この作戦の参加者は全員自分の顔見知りだ。だが、倒れている男に見覚えは無い。


 恐らく、この白人少年は通行人を巻き込んだのだろう。彼が警官襲撃事件の犯人ならば、逃走中に一般人を犠牲にすることは十分あり得るし、そもそも白人至上主義者にとって有色人種は害虫のような存在でしかない。


「棟梁。ご覧の有様です。申し訳ない」


 新垣はそう言うと、半身になった状態で両足を大きく開いた。続いて彼は両手を顎のやや下で保持する。


 新垣が習得した空手の構えなのだろう。禿げた中年男性はそのままの姿勢で少しずつ魔物に近づいていく。

「ジャップ! ジャップ!」


 手長の怪物は、先ほどと同じように手を振り上げ、新垣に向かって突進を試みた。ところが、禿げた中年男性は魔物を避けようとしなかった。彼は前腕部を斜め前に上げて上段受けの構えになると、振り下ろされた長い腕を迎え撃つ。


 魔物の一撃が、完璧なタイミングで新垣の前腕部に炸裂した。しかし、次の瞬間に折れたのは長い腕の方だった。


 志光は息をするのも忘れて新垣の様子を伺った。禿げた中年男性は、手負いの魔物に再び近づくと、今度は前足に全体重をかけ、後ろ足を前方向に伸ばすようにして、爪先を日本人風の顔に顎からめり込ませる。


 新垣の攻撃が決まった瞬間に、魔物は黒い塵と化して消滅した。すると、白人少年は倒れていた人間をすくい上げ、禿げた中年男性に投げつけた。それから彼は自動車教習所のフェンスを越え、立体教習コースを抜けてサンシャインシティ側に逃げてしまう。


 残った一体の魔物も、麗奈の部下たちを恫喝しつつ少年の後を追った。新垣は構えを解くと怪我人の様子を確かめてから志光に謝罪する。


「たびたび申し訳ない。取り逃がしました」

「いいえ。一匹始末していただいて助かりました」

「しかし、マズいですな。あの悪魔、ショッピングモールに逃げ込みましたよ」

「すぐに後を追います」

「マスクを被ったままですか?」

「監視カメラに写るよりはマシだ」

「もっと大騒ぎになってもですか?」

「ええ」

 禿げた中年男性の質問に頷いた少年は、麗奈の部下たちに声を掛ける。

「君たちは無事か?」

「あの子供を追いかけている後ろから、テナガザルみたいなのに襲われて一人やられました! 残りは無事です」

「もう犠牲者が出たか……」

「はい。すみません。それで、私たちはどうすれば良いですか?」

「マスクは持ってきてないよね?」

「はい。武器運搬の途中で、急に命令が来たので持ってきていません」

「分かった。監視カメラに写らないように撤収してくれ! 麗奈とソレル、クレアさんに報告を忘れないように」

「はい!」

「お疲れ様。怪我をしているなら、すぐ手当を受けてくれ」

「ありがとうございます」


 麗奈の配下が警戒しつつ撤退を始めたところで、志光の耳にソレルの声が飛び込んできた。


「ベイビー! 休んでる暇は無いわよ! 敵はサンシャインシティのショッピングモールに突っ込んで、人間を襲いながら逃走しているわ。ヨーコさんと過書町が追跡中だけど分が悪いわね」

「分かった! こちらは新垣さんと後を追う! 僕に新しい計画があるから、ソレルは大工沢さんとも連絡を取ってくれ」

「大工沢と? 良いけど、何をするつもりなの?」

「もう、今の状況を警察やマスコミに隠すのは無理だ。だったら逆に利用する」

「……なるほど。そういうことね」

「説明する手間が省けて助かるよ。僕は動く」


 志光はそこで通話を一旦止め、新垣に助力を依頼した。


「聞いての通りです。過書町さんは戦闘力として期待できないので、敵を倒すのは僕の役目になります。協力していただけると助かります」

「もちろんですとも。私の方もヨーコに後を追わせている。交代しなければ」

「行きましょう!」


 少年と禿げた中年男性は、反転するとサンシャインシティの入り口に向かって走り出した。右側はプリンスホテル、左側はワールドインポートマートビルという入り口のガラスは割れており、中に倒れた人が何人もいるのが見える。


 当然だろう。悪魔は人間の約十倍の速度で走れる。少年の体重がどれぐらいあるか分からないが、仮に五〇キログラムだとして、それが時速二〇〇キロから三〇〇キロの速度で人間に当たればどうなるかなど、想像するのも怖ろしい。


 ショッピングモール入り口をくぐった志光は、無線機のスイッチを押して過書町に語りかけた。


「過書町さん! 状況は?」

「すみません! 今はこちらが追いかけられています! 助けてください!」

「場所は?」

「噴水前広場の周囲です!」

「分かった! すぐ行く!」


 通話を終えた志光は、新垣に話しかけようとして息を呑んだ。恐らく例の少年に追突されたであろう、女性の遺体を見下ろしている禿げた中年男性の眉間に、太い青筋がくっきりと浮かんでいる。


「女に手を上げるとは……。あの子供には〝お仕置き〟が必要ですな」

 新垣はそう言うと、絶命した女性に手を合わせてから口角を上げた。

「棟梁。それでは行きましょうか。我々には護るべきご婦人方が大勢いそうだ」

「そうしましょう」


 同意した志光は、広い通路を歩きながら襲撃に対して気を配る。


 ショッピングモール内は地獄のような有様だった。老若男女が悲鳴を上げながら出口を求めて逃げ回っている。彼らの大半が志光たちが入ってきた出入り口に向かわなかったのは、恐らく最初の襲撃が行われた場所だったため、殺傷された被害者がゴロゴロと転がっていたからだろう。

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