第164話32-5.ステップインの妙技
都内で彼女が緊張状態に陥り、無意識のうちに邪素を消費して怪力を発揮してしまったら、大惨事を引き起こす危険が高い。ちょっと刺激を与えただけで爆発してしまう火薬のような少女を、わざわざ人気の多い場所に連れて行く度胸は無い。ヘンリエットを現実世界で自由にさせるためには、ちょっとした刺激では動じないように、彼女を〝訓練〟する必要がある。
そのために、志光が白羽の矢を立てたのは、やはり門真麻衣だった。少年から相談された赤毛の女性は、少女に腹式呼吸の方法をレクチャーした。
「人間も悪魔も感情をコントロールするのは難しいが、部分的だが呼吸はそれを可能にする。呼吸は脳幹にある網様体という部位が司っていて、普段は意識をしていなくても息を吸ったり吐いたりすることが出来るんだが、意識的に息を大きく吸ったり止めたりすることもできる。腹式呼吸には、この網様体の特徴を利用して緊張しやすい感情を落ち着かせる効果がある」
麻衣はそう言うと、トレーニングルームの床に敷いたヨガマットの上に、ヘンリエットを仰向けの姿勢で寝転ばせた。
「腹式呼吸の方法は、息を吐くときに腹を凹ませ、息を吸うときに膨らませるというものだ。ただし、息はゆっくりと吐く。息を吐く時間と吸う時間の比率は、だいたい二対一だ。たとえば、十秒で息を吐いたら五秒で吸う。息を吐くことから始めるのが、腹式呼吸をマスターするためのコツだ。やってみよう」
赤毛の女性のアドバイスに従って、少女は腹式呼吸の練習に励んだ。志光は彼女の傍らで鏡の前に立ち、左フックのフォームをチェックしつつ、何百回、何千回と腕を振った。
ヘンリエットが来日して何週間か経つと、志光が待ち望んでいた変化が彼の肉体に訪れた。体重移動と左腕を振る動作が、何も考えずにできるようになってきたのだ。
運動の自動化が起きたのを確認すると、麻衣は新たな課題を少年に与えた。それは、ステップインに関するものだった。
「フックは腕を曲げるのだから、僅かな角度と言っても命中する距離が短くなる。だから、フックを当てたいと思ったら、今まで以上に大きくステップインしなければならない。ところが、以前キミが指摘したとおり、ストレートを打ってしまえば自分の腕がつっかえ棒の役割を果たすので、フックが当たる距離では戦えない。そこで、フックが打てる目処が立ってきたキミが覚えるべきなのはステップインの方法だ」
「ステップインの方法?」
「フェイントとは異なるフックの打ち方だよ。ただし、正式な名前は無い。これを理解するには、最初に鏡の前で右ストレートを打つのが手っ取り早い。やってみよう」
「はい」
志光は麻衣に言われるまま、鏡の前で右ストレートを打った。彼が何度か同じ動作を繰り返すと、彼女は次に注文を出す。
「右ストレートを打ち終えたら、そのままの姿勢で止まって」
「はい」
「鏡で自分の姿が見えるかい?」
「見えます」
「右ストレートは真っ直ぐ打ってるね?」
「はい」
「その腕は、身体の中心にあるかい?」
麻衣の質問を耳にした志光は、首を捻りながら鏡に映った己の姿を凝視した。
「いいえ。拳一個分ぐらい、右側にあります。上半身を回すといっても九〇度まで回っているわけではないので。間違ってますか?」
「いや、キミが正しいよ。つまり、右ストレートを真っ直ぐ打つためには、拳一個分はキミから見て左側、相手から見たら右側にズレる必要があるわけだ」
「右ストレートを真っ直ぐ打つためには、真っ直ぐステップインするんじゃなくて、拳一個分だけ左斜めに前進しろということですか?」
「そうだ。より大きなスタンスでね」
「拳一個分といったら、十センチぐらいですよ? 戦っている最中に、そんなことが出来るんですか?」
「プロのボクサーでも、出来るヤツとそうで無いヤツがいる。でも、できるようになると、実戦で使えるワンツースリーが打てる。これも実際にやってみよう。アタシの前に立ってみて」
「はい」
少年が正面に立つと、下着姿の麻衣はファイティングポーズをとってから、ゆっくりと斜め前にステップインをした。
「左斜め前に前進しつつ左ストレートを打つ場合、左腕は右方向にやや曲げて伸ばす必要がある。前手の腕の場合、後ろの腕よりは上半身を深く回せるので調整が可能だ。これは解るね?」
「はい」
「次に打つ右ストレートは、最初に説明したとおり真っ直ぐ打つ。そして、最後に返しの左フックを打てば……」
「ああ、そうか! 左ストレートをやや斜めに打っている分だけ、届く距離が短くなっているから、左のロングフックが当たる距離とほぼ同じなんですね!」
「そういうこと」
志光の右頬に軽く拳を押しつけた麻衣は、彼の目の前でワンツースリーを再演した。少年は半ば呆れた面持ちで、赤毛の女性に疑問を提示する。
「凄い技術だ。でも、細かいステップインまで考えてボクシングをしている人っているんですか?」
「沢山いるよ。前に紹介した、ロッキー・マルシアノを覚えているかい?」
「名前は覚えています。ヘビー級のチャンピオンですよね?」
「彼は逆方向のステップインが得意だった」
「逆方向というと……オーソドックススタイルなら右方向にステップインするってことですか?」
「そうだよ。左足を前に出しているオーソドックススタイルのボクサーは、人体の構造上、真っ直ぐか左方向にステップインし易い。これは解るね?」
「解ります」
「そこで、ロッキーはわざと遠距離から左ストレートを大ぶりして上半身を右に回しつつ右側、相手から見た場合は左側にステップインした。そうすると、ロッキーは相手のすぐ側で右側に上半身を捻った姿勢で立つことになるから……」
「解りました! 右側に捻った上半身を左に戻す勢いで右フックを打つんですね!」
「何だよ、詰まらないな。もう、手品のタネが解っちゃったか。当たりだよ。ロッキーはそこから右フックを相手のボディや顎に打った。ボクシングで最も強いと言われているパンチだ。彼はこれと最初に教えた飛び込みざまのフックでKOの山を築いた」
「よく考えてますねえ……」
「何度も言うけど、フックは横方向から振り回すパンチだから、軌道を予測しやすい。だから、ストレートに比べると命中率が低い。これをどう解消するのかが知恵の出しどころってことだ。ロッキーはヘビー級のボクサーとしては背が低く、リーチが短かった。だから、相手の懐に飛び込まなければパンチが当たらない。そこで、セオリーには無い動きをして相手を攪乱したんだ。ただ、これもキミは真似しなくて良い。それよりも、さっき教えた斜めにステップインしてのワンツースリーを覚えるんだ」
「解りました!」
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