第162話32-3.左フックという虚構(中編)

「あの……質問しても良いですか?」

「どうぞ」

「実戦に使えないコンビネーションが、どうしてボクシングの基本として残っているんですか?」

「それも良い質問だね。それはキミが推測した通りだよ」

「僕の推測?」

「そうだよ。キミは左フックを打つのであれば、事前に右ストレートを打った方が効率が良いと考えた。何故なら、右ストレートを打てば自然と上半身は左方向に回転するからだ」

「ああ……なるほど。つまり、身体の動かし方は合理的なんですね。ただ、実戦では使えないんだ」

「そういうことさ。だから、基礎的なコンビネーションとして残ってしまったんだ。身体の動かし方は合理的だけれども、実戦では使えない技がある。ボクシングに限らず格闘技や武術を学ぶ上で、この事実に気づけるかどうかはとても重要だ」

「間違いを見抜けるからですか?」

「それもあるけど、それ以上に合理的な身体の動かし方を、現実に合わせるために試行錯誤をすることが、技術向上に欠かせないのさ」

「そりゃそうでしょうけど、初心者に毛が生えた程度の僕じゃ、教わった技をアレンジするなんて無理ですよ。そもそも、今の僕はその実戦的じゃないフックすら打てないんですから」

「そこは想像力で補って話を続けよう。右ストレートから返しの左フックという連続技の問題は、パンチが届く距離がそれぞれ違う点にある。具体的には、右ストレートは長く、左フックが短い」

「解ります」

「これを解消するには、どうしたら良いと思う?」

「うーん……解消すると言われても…………やっぱり駄目だ。思いつかないですね」

「難しすぎたかい?」

「だから、最初から解らないって言ったじゃないですか」

「まあね。実は、解消の方法は複数ある。まずは、一番簡単な方法からやってみよう。フェイントだ」

「フェイント?」

「相手を騙すための動作だよ。この場合は右ストレートをフェイントに使う。つまり、右ストレートを打つフリをして、身体を左に回転させてしまう」


 麻衣は一歩前進してから、右ストレートを打つように上半身を左側に捻った。ただし、右腕は真っ直ぐ伸ばしていない。自らの顎の脇に置いたままだ。


「こうやって、ステップインしながら右ストレートを打つ要領で上半身を左側に捻れば、左フックを打てる姿勢になっているのと同時に、左フックが当たる距離まで相手に接近できるようになる。何故なら……」

「右ストレートを打ってしまえば、それがつっかえ棒の役割を果たして、相手との距離が右ストレートが当たるか、あるいはギリギリ当たらないかぐらいの距離になってしまうからですね。その距離じゃ、肘を曲げて打つ左フックはまず当たらない……ですよね?」

「そうだ。それに加えて、右ストレートを打たないことによって、顔の右側を防御していることにもなる。ただし、この方法だと上手く接近するまで、相手のストレートは届くけれども、自分のフックは届かない距離で戦うことになる」

「それは、逆の立場をタイソン戦で経験しました。バックステップされながらストレートを打たれると、フックは当たらない」

「その通り。そこで、どうやって相手との距離を詰めるかというのが、フックを打つ時のポイントになってくる」

「どうするんですか?」

「一つはヘッドスリップという頭をボクシンググローブ分だけ横にずらす防御テクニックを使いつつ、ストレートを避けて相手に接近する方法だ。自分の膝と同じ位置に頭を動かす感じだね」

「頭を小さく振るアレですね」

「もう一つは、相手の懐に一気に飛び込んで左フックを打つ方法だ。こんな感じだよ」


 麻衣は上半身を左右に振りつつ一旦ダッキングの要領で屈むと、脚を伸ばす力を利用して志光の正面に飛び込んできた。少年が驚いている間に、彼女の左拳が彼の顔の右側を軽く押している。


「これが飛び込みざまのフック、あるいは〝ガゼルパンチ〟と呼ばれる技だ。一九五〇年代にボクシングヘビー級チャンピオンだった、ロッキー・マルシアノという名ボクサーが得意としていたパンチで、一九六〇年代にはフロイド・パターソンというヘビー級のチャンピオンも使っていた」

「今のパンチ、見えなかったんですけど……」

「飛び込んでくるアタシの顔に意識がとられて、左腕に注目していないからだね」

「なるほど……」

「ただ、この方法では、最初に教えたのと足の動かし方が違う」

「は?」

「大きくステップインして、着地するのと同時に左フックを打つためには、左脚から右脚に体重を移動する暇は無い」

「でも、左足に体重がかかっている状態で、どうやって上半身を回すんですか?」

「セオリー通りの左フックと違って、軸足である左脚の足首を起点にして、ドアスイングの要領で全身を回しているんだよ。だから、脚を深く回すことは出来ないから、予備動作の段階で身体を深く左側に捻らない。ほぼ正面を向いた状態から左フックを打つ」

「ああ……上半身を回転させる角度を狭くすることで、体重移動をしなくても良いようにしているんですね? でも、それじゃ最初に教わったのと動きが違うわけですよね?」

「その通り。だから、今はこの方法を覚えなくて良い。後々でちゃんと教えるよ。今の段階では、体重移動をしないフックの打ち方があるということを覚えておけば良い」

「はい」

「この方法の利点は、セオリーに無い動きで相手を幻惑させられることにある。欠点は、この方法ばかり使っていると、左右のストレートを打つ頻度が極端に減ることかな?」

「それじゃあ、長い間ストレートの練習ばっかりやって来た僕には向いてないですね」

「そうだね。そこで、次の方法を説明しよう」

 麻衣はそこで一旦席を外すと、何冊かの本と一つのタブレットを持って戻ってきた。書籍は全てボクシングの教科書だった。彼女はそこで付箋が付いているページを開ける。

「これがボクシングの教科書に載っている左フックの打ち方だ」

「はい」


 志光は赤毛の女性から提示されたページに目を通した。彼女が言っていたとおり、肘と肩は同じ高さにあり、手の甲は上側を向いている。


「見ました。麻衣さんの言っていたとおりですね」

「じゃあ、次だ。この動画を見てくれ。これは左フックがフィニッシュブローになった試合を集めたものだ」


 麻衣は続いてタブレットを少年に見せた。彼は幾つものKOシーンを視聴している間に、試合中に放たれるフックが、教科書通りのフックとは二つの点で大きく異なる事実に気がついた。

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