第161話32-2.左フックという虚構(前編)

「また、次に説明するが左フックは予備動作が必要な分だけ左ストレートよりも打つまでの時間が長い。そして最後に、ボクシングの教科書に書かれてあるフックの打ち方は間違っている」

「ええ? どういう意味ですか?」

「文字通りの意味だよ。間違ったことが書いてあるんだ。また、こうしたボクシング本を参考に描かれた漫画やアニメなんかでも、間違ったフックの打ち方が延々と描写されている。ただし、これは実際に経験しないと解りづらい。アタシは、この問題を〝フックの嘘〟と呼んでいる」

「フックの嘘?」

「じゃあ、最初に教わる前手のフック、キミの場合はオーソドックススタイルだから左フックから実演してみよう」

「はい」


 志光が頷くと、下着姿の麻衣はトレーニングルームの大きな鏡の前でファイティングポーズをとった。


「フックは奥手のストレートと同じように、上半身の回転を利用して打つ。左フックの場合は、上半身を右方向に回転させることになる。これは解るね?」

「解ります」

「ところが、オーソドックススタイルのファイティングポーズは、右ストレートを打つことが前提だから、上半身は常にやや右方向に捻れている。何故なら、右ストレートを打つ時には、上半身を左方向に回すからだ。これも解るね?」

「解ります」

「ということは、左フックを打つためには、まず右に捻れている身体を左に捻り直さなければならないわけだ。これが予備動作になるため、左フックは左ストレートよりも打つまでのタイムラグが長いため命中率が下がる。そこで質問だ。このデメリットを解消するための、一番良い方法は何だと思う?」

「何となく解りました。右ストレートを打つ、ですね?」

「そうだ。素晴らしい理解力だよ。右ストレートを打てば、右脚が内旋して上半身が左方向に回転する。つまり、右ストレートを打つことが、左フックを打つための予備動作になる。こんな感じだね」


 麻衣はそう言うと、一歩前進してから右ストレートを打った。赤毛の女性が事前に説明したとおり、彼女の上半身は左方向に捻れている。


「ここからは、下半身の動きを含めて説明するよ。右ストレートを打つと言うことは、右脚を深く内側に回すわけだから、体重がかかっていてはまずい。つまり、重心は左脚にある。これも解るね?」

「解ります。ステップインしてからワンツーなら、前進して左ストレートを打った段階で重心は左脚にありますよね?」

「そういうこと。ボクシングの原理がだいぶ解ってきたね」

「ありがとうございます」

「教科書的な左フックを打つ場合、左脚の重心を右脚に移しつつ、身体を右側に捻る。これを〝返しのフック〟と呼ぶ」

「返しのフック?」

「実際にやってみよう。まず、右ストレートを打つ。そうすると、身体は左側に捻れる」

「はい」

「この時に、左膝をいつもより僅かに深く曲げる」

「こうですか?」

「それでいい。その時に、左足のかかとは地面に着いてしまって構わないし、初心者ならむしろその方が良い」

「はい」

「そこから、左足のかかとを地面から跳ね上げる力を利用して、右足のかかとを下ろして重心を右脚に移しつつ、身体を右方向に捻る。このように、左ストレートを打つ時に、右脚から左足に移した重心を、左フックを打つ時に右脚に戻すので〝返し〟と呼ばれるんだ。解るかな?」

「だとするなら、返しの左フックは左右のストレートを打った後に打つパンチなんですか?」

「おお、鋭いね。でも、今はまだその段階じゃ無い。腕について説明するよ。フックは上半身の回転で生じた運動エネルギーを、直線方向に変換せず腕に伝える打撃だ。その際に、もう一度言うけれど、肘と肩を同じ高さにしなければならない」

「拳の位置はどうなるんですか?」

「基本的に同じ高さだ。だから、フックは地面に対して水平に動くことになる。もちろん、相手の背丈が変われば拳の位置も変わるんだが、それは原則的に膝を曲げることで対処する。相手の上背が高い場合は違うけど、これは例外だ。また、教科書通りのフックは、その際に手の甲を上側に向けるとされている」

「ストレートを打つ時と一緒ですね」

「そういうこと。じゃあ、実際に見て貰おう」


 麻衣はそう言うと、その場で右ストレートを打ってから、返しの左フックを打つ動作を何度か繰り返した。それが終わると、彼女は次の説明に移る。


「君の言ったとおり、左フックは左右のストレートを打った後に打つのがセオリーとされている。つまり、ステップインして左ストレート、そこから上半身を左に捻って右ストレート、そして最後に左側に捻った上半身を右に捻り戻しつつ、重心を前脚から後ろ脚に移して返しの左フックを放つ。これをワンツー左フック、あるいは単にワンツースリーと呼ぶ。ボクシングのコンビネーションの中では基礎的なものとされている。実際に打つとどうなるかを見てくれ」


 話を終えた麻衣は、ファイティングポーズをとった状態から一歩前進しつつ左ストレートを打ち、その直後に上半身を左に回して右ストレート、そして最後に上半身を右に回して左フックを打った。彼女は同じ動作を何度か繰り返してから志光に質問する。


「さて、ここで次の質問だ。左右のストレートを打った後に、左フックが敵に命中するためには、どんなシチュエーションを想定すれば良いと思う?」

「うーん。まず、左右のストレートを打つと言うことは、相手との距離はストレートが届くぐらいということですよね?」

「そうだね」

「でも、フックは肘を曲げるんだから、ストレートよりも届く距離は短いですよね?」

「合ってるよ」

「つまり、僕がワンツーを打ち終わった瞬間に、わざわざ自分からフックが届く距離まで頭を出してくれる敵がいる、という状況ですか?」

「そうなるね。それじゃ次の質問だ。実際に、そんなシチュエーションが起こりうると思うかい?」

「一〇〇%無いとは言い切れないでしょうけど、そんな間抜けは最初のワンツーに当たっているような気がしますね」

「ちなみにキミだったら、このワンツースリーというコンビネーションにどう対応する?」

「バックステップして最初のワンツーを躱したら、相手が左フックを打つ瞬間にステップインして、相手のフックが届かない距離から右ストレートを打ちます」

「どうして?」

「左フックを打っていると言うことは、相手の左側、僕から見て頭部の右側のガードががら空きになっているからです」

「完璧な回答だね! つまり、このワンツースリーというコンビネーションは、そのままでは実戦に使えないんだ」

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