第92話18-3.元レスラーとの対戦

 志光は大股でアリーナの出入り口をくぐった。すぐさまスポットライトが少年に当たる。

 音楽に合わせた拍手が鳴り響く中で、彼は事前稽古で立った場所で足を止めた。音楽が鳴り止むと、麻衣がワイヤレスマイクを渡してくれる。


 少年は二名の護衛が離れるのを待ってから、暗記していた就任式の挨拶を淀みなく口にした。


「この度、棟梁という大役をおおせつかりました地頭方志光でございます。半年前までは普通の人間でしたが、諸般の事情で悪魔化し、父である地頭方一郎の後を継ぐことになりました。それだけに大変不安でございましたが、幹部の方々とお話をしているうちに、魔界日本をもり立てるという気持ちを強くし、棟梁という職務に精進しようと奮起しているところでございます。今後の方針ですが、当分は父の計画を踏襲しながら、まずは他国に占領された領土の回復を第一に考えていくつもりです。この重責を担っていくには力量不足でございますが、先輩諸氏はじめ皆様のご助力を仰ぎ、職務に邁進してゆく覚悟でございます。以上、ご協力のほどお願い申し上げ、新任の挨拶とさせていただきます」


 短めのスピーチを終えた志光は、ワイヤレスマイクを麻衣に戻すと両手を挙げて四方に顔を向けた。上方から拍手が降り注いでくる。


 悪魔になって一番良かったのは、緊張しても言葉が詰まらなくなったことだ。お陰で普通に話せるし、劣等感にも悩まされなくなった。今の挨拶だって、昔だったら絶対に途中で声が出なくなっていたはずだ。


 少年は笑みを浮かべたまま内心で安堵した。ところが、拍手が止まないうちに場内が暗転すると、レーザー光が乱舞する。


「試合の準備をするんだ。いよいよだよ。邪素は飲んでるね?」


 暗闇の中で幹部連にジェスチュアで退場を促した麻衣が、続いて少年に囁いた。


「大丈夫です」

「よし。練習はきっちりやってきたんだ。後は自分を信じれば良い」

「頑張ります」


 トレーナーと言葉を交わした少年がジャケット、ベスト、蝶ネクタイを外したところでボクサートランクスにボクシングシューズ、黒革の手袋を持ったアニェス・ソレルがすっ飛んでくる。


「ベイビー、これを!」

「ありがとう。でも、ここでは自分で着替えるよ」


 褐色の肌がベルトに手を掛けると、志光は丁寧に断った。残念そうな顔をする女性の前で下着一枚になった少年は、トランクスとシューズを履いてから、グローブを装着する。


 少年がアリーナで着替えを終えるとレーザー光が消え、会場の一角にピンスポットが当たった。そこには青いパンツにレスリングシューズ、そして志光と同じような黒革の手袋を填めたタイソンの姿があった。


 元プロレスラーは、いつの間にか出てきた純からマイクを受け取ると、大声でがなり立てる。


「よう、志光! 親父の遺言で新棟梁に就任したそうだが、一体お前にどれだけの力があるのか、ここにいるみんなにはさっぱり分からねえ。本当はただの親の七光りじゃねえのか? 俺が化けの皮を引っぺがしてやる。約束通り、挑戦を受けろ!!」


 タイソンの煽りを聞いた観客席が沸騰した。二本目のピンスポットに照らされつつ、麻衣からマイクを受け取った志光が返答する。


「約束は守る。来い!」


 志光の手招きに応じて、元プロレスラーが前に進み出てきた。そこに何故か来賓席から飛び降りてきたウィリアム・ゴールドマンが乱入する。彼はタイソンからマイクを奪うと、英語で叫びだした。茜が慌てて場に加わり、邪素を消費して同時通訳を行う。


「面白いじゃないか! 俺も混ぜてくれよ! 審判でいい。俺なら公平なジャッジが出来るぜ!」


 志光は麻衣と目を合わせた。彼女は頷いて強姦魔に許可を出す。


「それじゃ、レフリーをお願いするよ。ルールは時間無制限、武器の使用は禁止、決着はKOかギブアップのみ」

「レフリーストップはどうする? さすがに殺し合いまでするつもりはないんだろう?」


 ウィリアムは黒革の半袖を脱ぎながら、ルールの確認を要求した。志光とタイソンと麻衣はお互いに顔を合わせ、元総合格闘家の申し出を受け入れる。


「レフリーストップはありで」

「リングは? ひょっとして、この体育館全面か?」

「そうだね」


 赤毛の女性が肯定すると、半裸になったウィリアムが笑い声を上げる。


「まあ、その二人の体重差じゃ、そうでもしないと釣り合わねえよな」

「よく分かってるね」

「そりゃ当然だろう。この手の試合は俺の十八番だぜ。そうだ。負けた方が俺の夜伽をするって特別ルールはどうだい? 大いに盛り上がると思うんだが」

「お断りします」

「断固拒否する」


 二人の男性からにべもなく断られた強姦魔に、純が白いシャツとを持ってきた。手早く審判の服を身につけた男は、心の底から嬉しそうな面持ちで試合の開始を宣言する。


「よし、それじゃ試合を始めるぞ。二人とも準備は良いか?」

「はい」

「いつでもいいぜ」

「武器は持っていないな? 見つけたら俺がボコボコにしてやるぞ」

「持っていません」

「正々堂々と戦うつもりでここに来た」

「OK! ゴングを鳴らせ!」


 ウィリアムが飛び退ると、スピーカーからゴングの音が鳴った。照明がスポットライトから床面全体を照らすものに変わる。


 志光は数メートル下がってから肩幅に開いた足を右側だけ半歩下げ、上半身を右側に捻り、左手の拳を目の位置に、右手の拳を頬の位置に上げてファイティングポーズをとった。一方のタイソンは顎の下で二つの拳を合わせ、腕をハの字にする。彼はその姿勢のまま小刻みに頭を振りつつ、少年に少しずつ接近してきた。志光はやや膝を曲げた姿勢で、相手の出方を待つ。


 一触即発の距離になると、タイソンの左肩が盛り上がった。少年は即座に前足に全体重をかけて後ろ足を浮かせると、姿勢を崩さずに大きくバックステップする。


 元レスラーの太い腕が真っ直ぐ伸びて、先ほどまで志光の頭部があった空間を貫いた。左ストレートだ。恐らく破壊力は抜群だろう。しかし、少しも怖くない。


 打撃の専門家ではないタイソンは脇を開いて打ってくるので、パンチを放つほんの数瞬前に肩が上がる。つまり、両肩を視界に収めている限り、事前に攻撃を察知できる。


 怖いのは肩が上がらない状態で打ってくる麻衣のパンチだ。ノーモーションなので、ゆっくり打たれても躱すことができない。だが、事前にストレート対策をしておいたのは正解だった。タイソンだって馬鹿では無い。その方が意表を突けるし、それにリーチ差を活かせると踏んだのだろう。

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