第93話18-4.カウンターパンチの極意

 志光はひたすら後退してタイソンのストレートを空振りさせた。体育館は広い。ボクシングやレスリングのリングと違って幾らでも逃げ場がある。


 レフリーを務めるウィリアムが笑ったのは当然だ。逃げる空間が広ければ、スピードがある方が有利だ。そして、重量級のタイソンと軽量級の志光では、どちらが素早く動けるかなど考えるまでも無い。身長の高い方が歩幅は大きいかも知れないが、それはあくまでも直進した場合であって、細かい方向転換を入れられた段階でついていくのが難しくなる。


 もちろん、志光は真っ直ぐ後ろに下がらなかった。左右に角度をつけてバックステップを繰り返し、相手の突進を事前に阻んでいる。


 その状態で三〇秒ほど様子を見た少年は、タイソンが右ストレートを打ってくる瞬間を狙って左サイドにステップインしながら、やや斜め前に左ストレートを出した。少年の肩口を元レスラーの腕が通るのとほぼ同時に、彼の拳が対戦相手の右目に直撃する。カウンターだ。


 急所を殴られた元レスラーは、ガクッと膝を折ったものの、すぐに体勢を立て直すと大きく後退した。三〇キロ以上の体重差があるとは言え、カウンターならまだダメージを与えられる。


 志光の一撃を見た観客席からどよめきが起きた。タイソンは驚いた表情から一転して憤り、全身から青い光を立ち上らせた。どうやら、そろそろ邪素を消費した戦いになるらしい。


 志光は息を吸ってから吐くのを止めて腹部に力を入れた。少年の全身も青いオーラを帯びる。


 タイソンは身体を激しく振りながら近づいてきた。続いて捻った身体を元に戻す勢いでフックを打ってくる。ストレートに比べると、はるかに自然な動きだ。こちらの方が得意なのは明らかだ。


 志光はまたしても後退することで元レスラーの攻撃を空振りさせた。少年は再び敵をじっと観察し、拳が通過する位置を確認すると、大きく前へ飛び込みつつ膝を深く曲げ、屈むことでフックをかわしつつ、腹部に左ストレートを放つ。


 だが、これはタイソンの罠だった。少年の拳は当たったが威力は低く、逆に右ガードの上から左フックで叩かれてしまう。


 辛うじて頭部は守ったものの、横方向から押される力を逸らすことはできず、姿勢を崩した志光は、よろけながら右に飛んだ。


 前腕部が痺れている。元に戻るまで逃げるのが無難だ。


 両手を下げた少年は、タイソンとの距離を大きくとった。観客席からブーイングが飛ぶが気にする余裕は無い。


 元レスラーは再び頭を振りながら距離を詰めてくる。対抗策はカウンターだ。


 ボクシングで一番当たるのは、相手がパンチを打ってきた瞬間だ。たとえば、左ストレートを打ってきたら左のガードが開くし、右ストレートを打ってきたら右のガードが開く。攻防一体が理想と言われていても、現実には攻撃をした瞬間がノーガードになるのは避けられない。


 そこにパンチをねじ込むためには、左ガードが開いたら相手の左側、つまりこちらの右側にサイドステップして右ストレート、右ガードが開いたら相手の右側、つまりこちらの左側にサイドステップして左ストレートを打つのがセオリーとなる。


 サイドに移動するのは、相手の視界の端からパンチを打つことで認識させづらくする狙いがあるからだ。たとえば、相手が右ストレートを打ってきた時に、こちらも右ストレートを打ち返すと、相手の視界の中央からこちらの腕が伸びることになるので、仮にカウンターが成功したとしてもダウンを奪うまでには至らないケースが多い。パンチが飛んでくることに気付いた相手が、歯を食いしばって耐えてしまうのだ。


 しかし、視界の端から飛んでくるパンチを認識するのは難しく、筋肉を収縮させるだけの時間的余裕が作りづらい。志光は練習通り左フックに右ストレートを合わせることを決めタイソンの接近を待った。


 パンチが届く距離になると、タイソンが左フックのモーションに入った。少年はバックステップをするふりをして、頭だけを後ろに下げる。いわゆるスウェーだ。


 元レスラーの上半身が回り、大きな拳が鼻先を通過するのとほぼ同時に、志光は上体を元に戻し、上半身を回転させて右ストレートを放つ。


 がら空きになったタイソンの顔面に、少年の拳がめり込んだ。先ほどの左ストレートとは破壊力が違う。元レスラーは大きくよろめいた。今だ。


 志光はその状態から、更にワンツーを叩き込んだ。左ストレートは防御されたものの、右ストレートは同じ場所に当たる。すると、ついにタイソンが床に膝を着いた。


 観客席が怒号に包まれた。しかし少年が追撃をする前に、元レスラーは素早く立ち上がって首を振る。


「やっぱり殴り合いじゃ駄目だな。お前の方が上手だ」


 タイソンは、そう呟くと腕の位置を腰のあたりに下げた。


「気をつけろ! タイソンが本気になったぞ!」


 麻衣が大声で少年に注意を促した。志光は小さく頷いて角度をつけて後ろに下がる。


 ボクシングの構えに近いのだが、上半身を捻らないのと手の位置が違う。背中を丸めて脚を大きく開くアマチュアレスリングの構えとも違う。


 タイソンはその姿勢で前進してくると、ひょいと手を伸ばして少年の腕を掴もうとした。志光は慌てて後ろに下がりながら、相手の手を払う。


 すると、元レスラーは更に接近して、今度は少年の肩あたりに手を伸ばしてくる。志光はすぐさま右ストレートでタイソンの肩を叩いて後進する。


 間違いない。この男は自分の手首か首を掴みに来ているのだ。打撃を回避する気が無いのは、ストレートを打った時に手が伸びきりさえしなければ、ダウンすることは無いと考えているからだろう。いわゆる、肉を切らせて骨を断つ戦法に切り替えてきたのだ。


 志光は細かい連打でタイソンの接近を許さないように試みるが、ついに元レスラーは少年の左腕の上腕部を握ってしまう。


「……ッ!」


 余りの握力の強さに、志光はたじろいだ。その隙にタイソンは彼の上半身の左側に頭をつけ、左腕を彼の股間に差し入れる。そこから、元レスラーが腰を落としつつ上半身を右側に捻ると、頭が滑って志光の脇の下に入った。


「???」


 少年が何をされているのか理解できない間に彼の身体は持ち上がり、低空から落ちて頭を床に叩きつけられる。


 痛いどころの騒ぎでは無い。頭部と首に痺れが走る。こんなもの、もう一度でも喰らったらお終いだ。早く逃げなければ!


「ファイヤーマンズキャリーか!」


 ジャッジをしていたウイリアムスが感嘆した。タイソンはその間に投げ飛ばした志光の身体に覆い被さろうとする。


 少年は押さえ込まれている間に、指先の感触に意識を向けた。右手は脇の下に腕を潜り込まされているので使えない。左手のみで、何とかしなければならない。


「シッ!」


 志光は歯の間から息を漏らしながら、青く輝く左手を押さえ込みに来た元レスラの身体に押しつけた。すると、彼の身体は自動車に衝突されたかのように加速がつき、体育館の床を転がった。


 観客のボルテージが一段と上がった。志光は床から立ち上がったがふらつきは隠せない。タイソンも立ったが、先ほどスペシャルを使って触れた脇腹を負傷したようで、右肘で庇うような姿勢になっている。


 そろそろ限界だろう。志光は覚悟を決めるとファイティングポーズをとり、ステップインを繰り返しながらタイソンに接近する。元レスラーも、再び両腕を腰のあたりに置いたポーズで少年に詰め寄ってくる。


 お互いの手が届く距離になると、タイソンが先ほどと同じように右腕を伸ばしてきた。


「シッ!」


 少年はその手を狙って左手の拳を振り下ろす。青く輝く手が太い腕に触れると、肩を支点にして一八〇度回転する。


 右腕が背中側に回った元レスラーの顔面はがら空きだった。志光はその場で上半身を右に回して右ストレートをタイソンの鼻面に当てると、続けてダブルの要領でもう一度右ストレートを放つ。


 最後のストレートはスペシャルのおまけつきだった。強烈な加速を与えられた元レスラーは、その場で一回転すると背中から体育館の床板に叩きつけられる。余りに速い攻撃だったので、頭部を守るために首を引く仕草もしていない。


 ウィリアムは即座に二人の間に割って入ると、元レスラーが失神しているのを確認して志光の手を上げた。今まで一番大きな歓声が場内にこだまする。


「勝者、地頭方志光!」


 麻衣のアナウンスも上ずっていた。志光は倒れているタイソンを見下ろし、ようやく自分が勝ったという実感を得ることができた。


 しかし、少年が余韻に浸る間もなく、麗奈が血相を変えて彼の元に走ってきた。


「テロです! 空から竜型の魔物が落ちてきます!」


 彼女はそう叫ぶと、ウィリアムから志光を引き剥がし、彼を抱えて控え室に通じる出入り口に向かってダッシュした。


 しかし、その直後に体育館の上部が光に包まれた。凄まじい爆風と共に、アリーナの上部席の一部が崩壊する。


 少女に抱えられながら、志光は建築物の残骸と悪魔たちが吹き飛ばされる惨状をその目に焼き付けた。だが、同時に放った少年の絶叫は轟音にかき消された。

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