第74話14―2.左ストレートの練習

 強化されたのは手首だけではない。パンチは腕の力をできるだけ使わずに打つのが理想だが、腕力そのものはあった方が良い。どのみち、最後には腕を伸ばしたり曲げたりするのに筋肉を使うからだ。


 そこで志光が課せられたのは、胸部を構成する大胸筋と肩を構成する三角筋の前部を鍛える目的で両手の幅を肩幅より広げて行う腕立て伏せ、肩幅程度の椅子の底面を背中側に回した両手で掴み、脚を伸ばした姿勢で肘を曲げて身体を深く沈め、その状態から肘を伸ばして上腕三頭筋を鍛えるディップス、ダンベルを片手に椅子の上に反対側の足を曲げて乗せ、直角に曲げた腕を上方に伸ばして上腕三頭筋を鍛えるキックバック、両手を肩幅の1.5倍ほどに広げた状態で棒を掴んで全身を引き上げることによって、広背筋、大円筋、上腕三頭筋を鍛える懸垂の四種類だった。要は手を伸ばして打つパンチ、ストレートで必ず使う肩の筋肉と上腕三頭筋の量を増やしたかったのだ。


 この他に、本職のボクサーが滅多にしないにもかかわらず、麻衣が重視したのが脚の筋肉増強だった。体重制を採用しているボクシングでは、脚の筋肉が増えることのデメリットが大きい、つまり脚が重くなった分だけ上の階級で戦わなければならないので、脚部の筋肉トレーニングを重点的にする事は無いのだが、ボクサーになる予定の無い志光なら、むしろ筋肉量増加は戦闘力の向上に繋がると判断されたのだ。


 まず、踵を上げるために必要な、ふくらはぎを構成している腓腹筋やヒラメ筋を増大させる目的で、ダンベルを持ったまま片足立ちで踵を上げる片足カーフレイズがトレーニングに取り入れられた。次に、太股の前側を構成する大腿四頭筋を鍛えるために片足スクワットもメニューに加わった。大腿四頭筋は膝を伸ばす主導筋なので、片足で踏み出す動作が多い競技には必須の筋肉というのがその理由だった。


 こうした肉体改造と並行して、ボクシングのトレーニングも継続された。右ストレートの動作をまだ完全に覚えていない段階で、左ストレートの練習も始まったのだ。


 ただし、この左ストレートには打ち方が幾つもある。志光が最初に習ったのは、右ストレートを打つための左ストレートだった。


 その方法は簡単で、目の位置に構えた拳を、高さを変えないまままっすぐ突き出すだけ。ただし、ストレートと同じように、インパクトの直前に手首をやや内側に曲げる。この時に、軽く肩を内側に回す。そうすることで、身体がより右側に捻れるため、右ストレートを打つ時に左側に上半身を回転させることで生じる力が強くなる。


 また、左ストレートを強く打つ必要性も無かった。ボクシングは具体的な対戦相手を想定していない限り、自分と同じ背丈で、自分と同じ構えの仮想敵を前提に練習を組み立てる。麻衣が志光に教えた左手の構えは、拳を目の高さに置くことだった。


 従って、高さを変えないままパンチをまっすぐ出せば相手の目を叩くことになる。そして、ほんのちょっとしたことでダメージを受けてしまう目を叩くのに必要以上の力はいらない。ただし、パンチを打ち終えたら、すぐ元の位置に戻さなければならない。


 練習が始まる前まで、志光は麻衣の説明がどのような意味を持つのか理解できなかった。しかし、彼女がミットを構えると、その重要性を文字通り痛いほど実感せざるを得なかった。何故なら、少年がわずかでも左腕を伸ばしっぱなしにしたり、左手のガードを下げようものなら、赤毛の女性がミットで容赦なく彼の顔を殴りつけてきたからだ。


 彼女の攻撃を避けるためには、肩より高い位置に拳を置いておかねばならない。そうしないと、肩の上側を通って拳が当たってしまう。拳を目の高さに置いておけば、ストレートを拳で防げる。下から来るアッパーも肘でブロックできる。


 動体視力の良い選手なら、手でガードをせずに相手の攻撃を躱すことができるのかもしれないが、初心者の志光には不可能だったし、そもそも麻衣との実力が違いすぎる。彼女から殴られたくなかったら、常に手を肩より高く上げて防御の構えをとるしかない。


 二、三週間すると、志光はパンチを打った瞬間以外は、常に左手を垂直に立てているようになった。そこで麻衣は少年に左ストレートと右ストレートを立て続けに放つコンビネーション、いわゆるワンツーを指導し始めた。


 単発で放つ左ストレートは目の高さに拳があるため、相手の目を狙うことを想定している。一方の単発で放つ右ストレートは顎の高さに拳があるため、相手の鼻、口、顎を狙うことを想定している。


 しかし、ワンツーを打つ場合は基本的に同じ場所を狙わなければならない。動いている顔にめがけて、それもたった数センチの違いをコントロールしようというボクシングの技術的意図に志光が呆れていると、麻衣は笑いながら断言した。


「繰り返し練習すれば出来るよ」


 というわけで、志光はいつものように右ストレートを打った時に拳が届く空間に、左ストレートを合わせる方法で練習を開始した。その破壊力は、左ストレート単体はもちろんのこと、右ストレート単体も凌駕していた。


 ワンツーが様になってくると、次に志光が教えられたのが右ストレートを打ってから左ストレートを打つコンビネーションだった。この場合、右ストレートを打つことで上半身が左側に捻れたところで、左ストレートを打って上半身を再び右側に捻り戻すつため、左ストレートの破壊力が増す。


 この二つのコンビネーションがある程度ものになってきたところで、麻衣はステップインをしての左ストレートを教えだした。ステップインとは、ボクシングにおける前進方法の一つである。


 オーソドックススタイルの場合、ボクシングの構えでは左脚が前に、右脚が後ろにある。通常の歩法における前進は、左右の脚を交互に前へと振り出すことで行われるが、ボクシングでは前に出した足は前のまま、後ろの出した足は後ろのままで行う。両足が揃ったところで殴られると、簡単に引っ繰り返ってしまうからだ。


 ステップインをするには、まず踵を浮かせた右脚の親指のつけ根で地面を蹴る。すると、身体は片足でジャンプするのと同じ原理で前進するが、その際に上へ飛ばす地面すれすれに動く。そして、最後に左脚の爪先で着地する。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る