第73話14―1.右ストレートの習得

 大塚のゲートを監視していた拠点を潰され、チェンバレンを殺害されてから、WPUの魔界日本に対する敵対行動はなりを潜めた。魔界日本側もそれ以上の追撃をする事は無かった。主戦派である門真麻衣や見附麗奈が、好戦的な態度を控えたからだ。


 白人至上主義の団体以上に彼女達が警戒していたのがアニェス・ソレルだった。地頭方一郎が遺言状で〝虚栄国〟として独立させるほど、その実力を認めていた悪魔は、直接的な戦闘力こそ低いものの、その情報収集能力は圧倒的だった。麻衣が酒に乱れたとは言え、隙を突いて地頭方志光をさらい、やることをしっかりやったことが、ソレル脅威論の証拠となった。


 そこで、麻衣や麗奈は志光のトレーニング計画を優先した。これなら、常に彼を監視することができる。そして、彼女達が戦闘を訴えない以上、他の幹部達が勇ましい発言をするわけが無かった。


 もっとも、志光が新棟梁に就任することが決まった会議で同時に承認された戦争への準備は、美作純の監督下で着々と進められた。


 現代の軍隊ほどでは無いが、魔界での戦争でも武器の備蓄は重要だ。事前に十分な量の弾薬や予備の兵器が無ければ、戦闘を継続することは難しい。


 魔界日本の主力武器は、大型対戦車ライフル、対戦車手榴弾、使い捨ての対戦車榴弾砲、そして迫撃砲だった。戦車砲のように高度な冶金術が必要な武器は、技術的にも金額的にも所持は困難というのが純の見解だったし、そもそも魔界に戦車は存在しなかったので、麻衣達も要求をしていなかった。


 純の武器生産計画を支えていたのは、魔界日本の会計全般を取り仕切る記田と、現実世界から物資を輸入して金銭を獲得する仕事に従事している大蔵英吉の二人だった。


 一方、魔界における他集団との外交を担当する過書町茜も動き出していた。外交で重要なのは、敵国を孤立させてこちらの味方を増やすことだが、その道筋は既にソレルがつけていた。すなわち〝男尊女卑国〟と〝キャンプな奴ら〟のスパイに、地頭方志光の存在を知らせていた。


 この二つの国は価値観が全く異なるものの、棟梁が男性であることを重視するという共通点があった。そこで、茜はこの二国との折衝を重点的に行い始めた。従って、彼女の立場はどちらかというとソレル寄りだった。


 以上の国内におけるパワーバランスの下で、幹部連が志光に要求していたのは、肉体改造によって見栄えの良い肉体を手に入れることと、就任式当日に挑戦してくるであろう、元プロレスラーのタイソンを撃退する程度の格闘技術を身につけることだった。


 この二つは麻衣が立てたボクシングを習得するプログラムに沿って達成される予定だったが、簡単にはいかなかった。志光が最初に犯したのは「腕の力を使ってパンチを打つ」という初心者にありがちなミスだった。


 麻衣が彼に課したのは「一日に左右とも千発のパンチを打つ」という目標だったが、手の力を使ってしまうと一〇〇発も打たないうちに疲労で腕が上がらなくなった。そこで、少年は初めて「腕の力をできるだけ使わずにパンチを打つ」という、赤毛の女性のアドバイスの重要性を理解した。要するに、腕力に頼っていては長時間にわたる練習が不可能だったのだ。


 彼が最初に習った右ストレートは、背骨を中心に上半身を左方向に捻る際に発生した運動エネルギーを、右の拳を利用して相手に伝えることで破壊力を担保していた。従って、できるだけ腕力を使わないようにするためには、拳を目標に当てる直前まで、腕を回転する胴体に密着させておく必要があった。そうせずに、腕を胴体から放して肘を開いてから伸ばすと、腕力を使う分だけ疲労度も高くなってしまうのだ。


 この上半身を十分に捻るためには右の太股を内側に回す、すなわち内旋を素早く行う必要がある。感覚としては、ひゅっと右脚が内側に回るのに引っ張られるようなタイミングで、上半身が回るのが望ましい。ところが、この本来なら異なる二つの動作を連動させるのが難しい。ひたすら反復練習をして身につける以外の方法が無い。


 酒癖の悪さとは裏腹に麻衣は優秀なトレーナーで、志光を叱らずひたすら同じ動作を繰り返させた。少年も事前に「運動の自動化」という説明を受けていたために、何も考えずに身体が回るまで、練習を続けることに抵抗がなかった。


 その成果は、五週間後に結実した。ある日、いつものように右ストレートを打っていると、何も考えずとも右脚の内旋と上半身の回転と腕を正面に伸ばす動作が連鎖したのだ。


「できるようになったねえ」


 少年のパンチを見た麻衣は目を細めた。彼女が言うとおり、それから彼は何も考えずに右ストレートを打てるようになった。しかし、これが新たな問題を生み出す原因となった。


 正しい方法で右ストレートを打てるようになった結果、そのパワーに小指と右手首がついて行けなくなってしまったのだ。サンドバッグを叩いても、ミット打ちをしても痛いので練習ができない。


 志光から相談された麻衣は、幾つかの改善を試みた。ボクシングは握った拳で相手を叩く競技で、具体的には親指を除く基節骨を打撃面として用いる。しかし、拳を作った状態で、基節骨が手首に対して水平になっている人間は希だ。実際に拳を親指側から見ると解りやすいが、大半の人間は手の甲側に向いている。


 そこで、打撃をする際に手首の関節をやや内側に曲げる、すなわち掌屈させることによって基節骨と手首を水平にすれば、対象に拳が命中した時に生じる衝撃によって手首が傷みにくい。


 この癖をつけるのと平行して、志光は手首を強化するための筋力トレーニングを麻衣から命じられた。ダンベルリストカールである。


 その方法は、ダンベルを逆手に持って椅子に座り、太ももの上に腕を乗せて反対側の手で固定した状態で、手首だけを内側に曲げるという簡単なものだ。回数は一〇回を一セットとして三セット、合計で三〇回を指定された。


 最初は五キロ弱のダンベルを持ち上げるのも苦痛だった。しかし、同じトレーニングを六〇日ほど続けていると、一〇キロの負荷がかかっても平気になった。

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