第11話3-1.悪魔化

 クレアと麻衣が言っていた〝ゲート〟は、仮眠室の奥にあるシャワールームとトイレにつながる廊下を抜け、突き当たりにある武器庫の更に奥の部屋そのものを指す単語だった。大きさは百平方メートルぐらいだろうか? 一辺が10メートル前後の正方形で、天井もそこそこ高い。


 入り口と反対側の壁は巨大な鏡になっている。鏡面フィルムという破損しにくいフィルム状の鏡を壁一面に張ったそうで、そこだけ見るとまるでバレエかダンス教室といった趣だ。


 室内は応接室以上に家具が無く、部屋の隅にキャスター付きの大きな板が何枚かと、折りたたみ式の椅子がいくつか置かれているだけだ。クレアは椅子の一つを志光に勧めてくれた。麻衣は先ほどの台車を部屋まで引っ張ってきている。


 悪魔に成り立ての少年は、物珍しそうに室内を観察した。部屋の位置から、ここが最も重要な場所なのは想像がつく。しかし、ここまで味気ないというか装飾が削ぎ落とされていると肩すかしを食らったような気持ちにさせられる。〝魔界〟への入り口で重要拠点と言われていたので、もっと魔方陣のようなものがあちこちに描かれているのではないかと想像していたのだ。


 また、そうした装飾をしたり、呪文を詠唱しないのかと麻衣に尋ねたところ、しごくもっともな答えが返ってきた。


「その呪文は誰が聞いて、誰がその通りに実行するのかな? アタシ達自身が悪魔なんだよ」


 確かにその通りだ。人間が悪魔に何かを頼む時に、魔方陣を描いたり呪文を唱えるのには一定の合理性がある。少なくとも、呪文を聞いてくれる相手を想定している。


 しかし、自分自身が悪魔の場合はどうすべきか? 呪文を唱えても聞いてくれるはずの悪魔は自分自身だ。つまり、使役する相手がいない。


「志光君。これから我々は〝魔界〟に移動するつもりよ」


 志光を椅子に座らせたクレアは、今後の予定について説明をし始めた。


「ただし、解決しなければいけないことが幾つかあるの。まず、この拠点をどうするか? 魔界で領土を所持している悪魔にとって、ゲートによって現実世界との行き来を自由に出来るというのは高いステータスになるわ」

「ということは、僕もこの場所を守る必要があるということですよね?」

「ええ。可能な限り守った方が良いというのが私の考え方よ。ただし、貴方が魔界に行くのであれば、先代の下で副棟梁を務めていた、麻衣と一緒にいることが重要になるわ」

「つまり、父の補佐が僕という存在を認めているというのが大事だということですか?」

「その通りよ。でも、麻衣が貴方と行動を共にすれば……」

「この場所を守るために別の悪魔を連れてこなくてはならない、ということですよね」

「それだけでなく戦いで壊してしまった通路と鉄扉の修理も必要だし、そうなると魔界から何人か連れてくる算段を立てないといけなくなるわ。これが解決しなければならない問題の一つよ」

「他に何があるんですか?」

「キミ自身のことさ。悪魔になりたてのキミだよ」


 ハンドルを掴んで台車を軽く前後させながら、麻衣が話に加わってきた。


「悪魔になったキミに、色々と教えておかなければならないことがある」

「色々というのは一体……?」


 ハンドルから手を離した麻衣は、返事の代わりに小さな物体を志光に放り投げた。少年の手に収まったのは500円玉硬貨だった。


「これは……500円玉ですよね?」

「親指と人差し指、それに中指で縦に挟むんだ」

「ああ……空手家がやるようなコイン曲げみたいにですか?」

「その通り。それをキミがやるんだよ」

「無理ですよ。こんな分厚い硬貨、曲がるわけが無いでしょ」

「できるさ。息を吸ったら吐くのを止めて、腹部に力を入れるんだ」


 志光は顔を曇らせつつ、赤毛の女性の命令に従った。ゆっくりと息を吸い、吐くのを止めて腹部を凹ませる。


 すると、ほとんど力をかけていないのに、指で挟んだ500円玉がぐにゃりと二つ折りになった。少年は目を丸くして曲がった硬貨を手のひらに乗せる。


「……できました。嘘みたいだ」

「500円玉に仕掛けはしていないよ」

「ということは、悪魔化した僕の力が強くなったと言うことですか?」

「そうだよ。だいたい推定で人間だった頃の十倍近くになると考えられている」

「そんなに……」

「強化されるのは力だけでは無いわ。スピードも上がるの。全速力で走れば、スポーツカーと並走できるわよ。ただし、普通の靴では保たないけど」


 クレアはその場でお姫様抱っこをのポーズをして見せた。カニ男から逃げた時のことを思い出した志光は苦笑いをする。


「それは、さっき経験させてもらいました。その他に何か違いがあるんですか?」

「肉体的な最大の変化はタフネスさね。拳銃や自動小銃で撃たれても、まず致命傷にはならないわ。最低でも口径が20ミリないと貫通しないのよ」

「すみません。武器のことは詳しくないので……」

「簡単に説明すると、人間には持ち運びが難しい大きさの銃に使う弾丸ね」

「なるほど……他には何か知っておくべき事はあるんですか?」

「老化が遅れるわ。個々の悪魔によって違いはあるけれど、第二次性徴期を超えると人間の十分の一ぐらいの速度でしか成長も老化もしなくなるの」

「……ちょっと待って下さい。それじゃ、僕はどうなるんですか? 僕の父は悪魔だったんですよね? それなのに、今まで年齢相応に成長してきたと思うんですが」

「志光君のお母様が普通の人間だったからよ」

「すみません。意味がよく分かりません」

「つまり、貴方はお母様のお腹の中にいた時に邪素を吸収していないのよ」

「ああ!」


 得心した志光が手を叩くと、クレアもつられて笑顔になる。


「悪魔と人間が性行為をした場合、どちらが悪魔だったかによって、生まれる子供の状態がそもそも違うのよ。貴方と真逆のケース、父親が人間で母親が悪魔の場合は胎児に影響がある場合もあるわ」

「悪魔化する素質があれば、生まれてきた子供は最初から悪魔だということですか?」

「そうよ。ただし、その場合も第二次性徴期までは普通の人間と同じように成長するわ。でも、その理由はよく分かっていないの」

「なるほど……」

「ただし、今まで話をしてきた悪魔としての特性には条件があるの」

「条件?」

「邪素を定期的に吸収することだよ」


 クレアの話を引き継いだ麻衣が応接室で見せてくれた黒い水筒を、もう一度段ボールから取り出した。彼女は水筒のフタを回し、中に入った邪素を一口だけ嚥下する。

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