親父の遺産を受け取りに行ったら、悪魔に変身させられてしまったんだが。

鳥山仁

第1話1-1.駅での待ち合わせ

 真夏の太陽が舗装路を焼いた。


 昼食時にビルから出てきた勤め人達が、冷房を完備した複数の飲食店に吸い込まれていく。


 高架に設置されたJR大塚駅のホームから周辺の光景を見下ろした地頭方志光(じとうかたしこう)は、ゆっくりと息を吐き出した。


 やはり都会は違う。自宅のある埼玉県川越市笠幡周辺も、地方とはいえ比較的道路もきちんと整備されている方だと思うのだが、駅とビルが一体化していたり、電車が五分間隔で来る事など、恐らく数百年後でもあり得そうに無い。


 何より違うのが女性だ。特に女子高生のスカートが短いのが目を惹く。田舎にいる時は、まるで魅力的に見えない生き物が、都市部に近づくだけで可愛くなってくるのだから、服装や化粧というのがどれだけ効果的なのかが解る。同時に、都会ではそうした技術を用いない限り、他の女性との差別化を図ることが出来ないのも解る。


 もっとも、今はそんなことに思いを巡らせている場合では無い。


 これから、亡父の遺産相続という自分の人生を左右する一大イベントが待ち受けているのだ。


 物心つく前から育ててくれた母方の祖父母は「大学を卒業するまでの学費なら十分支払える」と言ってくれているが、問題はそこから先だ。


 コミュニケーション能力が低く、それが原因で高校でも孤立して、知り合いはネットを通じてしか作れなかったこの地頭方志光が、大学卒業を機に人格ががらりと変わるとは思えない。それ以前に大学でもボッチとして生きていくだけだろう。


 そんな砂を噛むような思いをするぐらいなら、大学にも行きたくないし、働きたくも無い。人付き合いで苦しめられるのは絶対に嫌だ。ネットや本で文章をダラダラ読んで死ぬまで気楽に過ごしたい。


 文章は良い。自分のことを空気のように無視したり、その反対に名前が志光だからと言って、シコウリティなどと言う下品極まりないあだ名を思いついたりしない。それをクラス中に広めたりもしない。廊下ですれ違いざまに「シコウリティ高いな」などという悪口を言ったりもしない。


 繰り返し行われたクラスメイトからの陰湿なからかいを思い出すだけで怒りが爆発しそうになる。しかし、弁護士と話し合いながら法的手続きを進めて遺産を手に入れれば、こんな嫌な想いともさよならだ。


 父親である地頭方一郎は、とうとう死ぬまで自分と顔を合わせてくれなかった。だが、恨んでいるかというと実はそうでもない。仕送りを欠かしたことがないからだ。しかも、祖父母の話によると、相当な額でかつ今でも支払いは継続されているらしい。


 ということは、一度も顔を見たことの無い父親は相当な資産家だったということになる。幸いなことに、自分は嫡出子で財産を譲り受ける権利が法的にあると言う説明も、父親側の弁護士である門真麻衣さんから明言されている。


 その財産をちびちび食い潰して、生きることが出来たら? 最高だ! 一度も見たことのないお父さん。ありがとうございます! これから僕はあなたの財産で幸せに生きていきます。


 にやつきかけた顔を、慌てて悲しそうな感じに修正した志光は、駅の時計を見上げて時間を確かめた。


 午後十二時二十五分。まだ約束の午後一時まで三十分以上もある。少年は肩に提げていたえんじ色のリュックサックを下ろし、中から一冊の本を取り出した。本の表紙には『たった1分で好感度があがる話し方』というタイトルが印刷されている。


 弁護士と電話で話をして、まともに会話が出来なかった翌日、本屋まで飛んで行って探してきた話し方の本だ。この本に載っていた「メラビアンの法則」によると、コミュニケーションにおいて相手が影響を受けるのは、55%が視覚からの情報、38%が聴覚からの情報で、話の内容は7%に過ぎないのだそうだ。


 弁護士は対価をもらって自分の相手をしてくれるのだから、邪険に扱われることは無いと思うのだが、何のかんの言って人間は感情の生き物だ。好印象に見えて損は無い。


 つまり、都内の女子高生がやっていることは正しい。そして、遺産をスムースに受け取りたいと思っている自分も「メラビアンの法則」を知って彼女達と同じような戦術を採ることにした。


 まず、わざわざ家から離れた流行りの美容室まで行き、髪型と眉毛を好青年っぽく整えて貰った。大事な初期投資だ。ちなみに、翌日に学校へ行ったらシコリティと呼ばれなかったので、それなりの効果はあったようだ。


 服装も最初はスーツにしようと思ったのだが、祖母から「着慣れていない服を着ると、かえって不自然よ」と忠告されたので止め、いつも着ている学生服にした。


 残りは聴覚からの情報、話し方で補う。相手に伝えるための声色は、音質が均質でまっすぐ通るようなものが理想で、そのような声で話すためには、姿勢や呼吸法が重要だと話し方の本には書いてあった。


 確かに、これまでの自分の話し方はおかしかった。ピッチが一定せず急に甲高くなったり、逆にボソボソと聞き取れなくなってしまったり、同じ発声を繰り返したりと、上手くコントロールが出来ているとは言い難かった。


 志光は話し方の本をペラペラ捲り、発声のための正しい姿勢と呼吸法を確認すると、駅のホームの真ん中で地面に対してまっすぐ立って、腹式呼吸を開始した。


 まず、腹部をゆっくり凹ませながら肺の中が空っぽになるまで息を吐く。次に凹ませた腹を元に戻しながら息を吸う。


 これを何回か繰り返してリラックスしてきたら、今度は息を吸い終わったら吐き出さず、アクビのように口を開いて「あー……」っと発声する。


 数分おきに停車する山手線の客車から降りてきた客達が、怪訝そうな面持ちで志光を眺めるが、本人は全く気にする素振りも見せない。まるで、そこに自分以外の人間が存在しないかのように、ひたすら発声練習を繰り返す。


 やがて、えんじ色のリュックから電子音が鳴り響いた。口を閉じた志光はリュックを開き、中からスマートフォンを取り出してアラームを止める。


 いよいよ本番だ。


 白い半袖のシャツに、黒いズボンを履いた少年は、リュックサックに本をしまうと駅の階段を降りた。大塚駅の改札は一カ所なので、待ち合わせ場所を間違う心配は無い。


 門真(かどま)と名乗った女性弁護士は、代理の女性を駅に寄越すとメールで伝えてきた。また、その女性の顔写真も添付されていた。


 スマートフォンを指で操作した志光は、これから落ち合う女性の顔を液晶画面で確認しつつ、改札口をくぐる。


 埼玉では一度も見たことが無いほどの美人だ。目鼻立ちからして、恐らく外国人だろう。


 きちんと日本語が通じるのだろうか? 会話が上手くいかないかもしれないと思っただけで、緊張のあまり手のひらから汗がにじみ出してくる。


 弱気になっては駄目だ。この日のために、話し方の本を何度も読んで練習してきたではないか。今だって練習したばかりだ。


 それが付け焼き刃なのは分かっている。しかし、何もやらないよりはずっとマシなのは間違いない。


 大塚駅の改札口は高架駅の真下、駅を挟んで南北の商店街を繋ぐ自由通路と接続されていた。写真でしか見たことの無い代理人は、その通路の壁側に立っていた。


 彼女の背丈は平均的な女性よりもずっと高かった。最低でも百八十センチは超えていそうだ。ヒールのあるグラディエーターサンダルを履いているので、余計に高く見える。


 真っ赤なAラインのワンピースはニット製で、夏であるにもかかわらず長袖のシンプルで上品な感じだったが、女性の背丈に合っていないのか裾が短く見えた。自由通路を往来する男性達の多くも、彼女の長い脚に視線を飛ばしている。


 胸も大きい。メロンが二つぶら下がっているようだ。


 頭頂部で二つに分けたブロンドの髪は、肩よりやや伸びている。目は大きめのサングラスに隠れているせいで、よくわからない。


 志光はぎこちない足取りで女性に近づいた。彼女は少年の姿に気づいたようで、片手を上げてくれる。


 数十センチの距離で見上げる女性の美貌は圧倒的だった。


「あ……あ…………」


 覚えたはずの腹式呼吸法も発声法も完全に忘れてしまった志光の舌が、学校でクラスメイトと話をしようとしている時のように、空回りを開始する。


「あ、あの、あの、ああ……」


 言わなければいけないことは分かっている。しかし、口の筋肉がまともに動かない。顔が意志とは無関係にクシャクシャになる。

 このままでは、また馬鹿扱いされる。少なくとも、まともな人間だとは思われないだろう。


 嫌だ、嫌だ、嫌だ!


 でも、どうにもならない。あんなに練習してきたのに!


 志光が口ごもり泣きそうになっていると、背の高い白人女性がサングラスをとった。彼女の瞳は宝石のように真っ青で、それ自体が輝いているような錯覚を起こしそうだった。


 少年がその美しさに釘付けになっている間に、女性は少し思案するような素振りを見せてから人差し指を伸ばし、彼の唇に触れた。すると、口や首を構成している筋肉の緊張が一気にほどけ、急に舌が回り出す。


「あ、あの、初めまして。地頭方志光です」

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