第23話 王都にて 7
カタリと小さな音を立てて、セルフィオーナ王女は茶を飲み干したコップをソーサーの上に戻した。王女に向かい合って座っている女王はまだ窓の外を眺めていた。
「陛下」
王女に呼びかけられてフィオレンティーナ女王は視線を王女の方に向けた。
「ああ、ごめんなさい、セルフィオーナ。この景色も見納めかと思うとつい、見惚れていたわ」
窓の外にはランドベリ港が見えていた。大小さまざまな船が停泊している。ランドベリ、ひいてはランディアナ王国の繁栄を支える礎となる景色だった。
「どうしても明日お移りなるのですか?」
「ええ、そのつもりよ。もうほとんどの荷物も運びだしたし」
女王はすっきりしてかえって豪華さが目立つようになった部屋を見回して答えた。絨毯もカーテンも、壁紙、天井、備え付けの物入れ、どれも最高級品だった。“奥”の、女王の私的な居室だった部屋で、女王が退去した後はセルフィオーナ王女が使うことになっていた。
「そんなにお急ぎにならなくても、よろしいのではございませんか?まだ母上が女王陛下なのですから」
「すぐにセルフィオーナ、あなたが女王になるのよ。セルフィオーナ・オーギュスタ・ランド、いい響きだわ。セルフィオーナ・チェザリーナ・ランドよりも」
オーギュスタは女王が名乗るミドルネームだった。王ならばオーギュストになる。チェザリーナは王の後継者を示すミドルネームでこれも王子ならチェザールになる。譲位することになってから、フィオレンティーナ女王の声は、憑き物が落ちたように棘がなくなり、ずいぶんと穏やかになっていた。
「あなたなら私よりもずっとうまくやれるわ。セルフィオーナ」
負け惜しみではなかった。心からそう思っていることがわかる声音だった。
「お母さま」
「セシエ公ともうまくやれるでしょう。あなたなら」
王女は頷いた。
「そう願っておりますわ。なんと言っても王国で一番力を持っている方ですもの」
「私はどうしても駄目だったわ。嫌うというのは理屈ではないのね。カリキウスまで巻き込んでしまって」
「カリキウスはどうして・・」
「カリキウスは、初めはセシエ公を評価していたの。混乱した王国をもう一度まとめることができる人材として。でも私のセシエ公嫌いに感化されて。・・いったんそうなってしまうと、私とカリキウスのセシエ公に対する嫌悪感が絡み合って、それが強くなる方へ強くなる方へとこじれていくの。あのままでは私は持たなかったでしょう。カリキウスには気の毒だけれど、彼が暴発して失敗して、私の前からいなくなって、私の譲位が決まって、そうなるとずいぶん心と体が軽くなったの」
フィオレンティーナ女王は目を伏せて小さく何度も首を振った。カリキウスの名前を呼ぶときだけその声音に悲しみの色が混ざった。
「お母さま・・・」
女王が王女の手を取った。少し微笑みながら、
「期待しているわよ。責任のない立場から気楽に見ているわ」
家庭などというものを作ったことのない二人だった。しかしこの時だけは、家族としての気持ちがある程度通じていたのかもしれない。
フィオレンティーナ女王がジェルミナ神殿に移ったのはその次の日だった。まだ退位する前だったが、事情を知っている人間は誰も不思議に思わなかった。
タギとランは並んで歩いていた。王国の穀倉、グルザール平原をレリアンの方面に向かう道だった。春まきの小麦の収穫が終わった畑と家畜を放牧するための草地が地平線まで広がっている。ところどころ家が固まって集落を作っている。集落の北側には大抵雑木林があって、冬の北風に備えている。アルヴォンから吹き降ろす風がこの辺りまで届くのだ。
王都を出て三日目だった。ウルバヌスの馬車を用意するという申し出を断って、徒歩でレリアンに帰ることにした。グルザール平原が冬を迎えるにはまだ間がある。急ぐ旅ではなかったが、二人の足ならあと十日前後でレリアンに着くだろう。同じ方向に向かう旅人も、すれ違う旅人も多い。徒歩、騎乗、馬車、それぞれの懐具合とそのほかの事情に応じて様々な移動手段をとって、多くの人々が行き来している。この辺りもセシエ公の支配下に入って治安は格段に改善している。以前なら貴重品を運ぶ商人たちは集団を組んで護衛をつけていた。普通の旅行者もできるだけ固まって動き、単独行は避けるようにしていた。今はタギとランのように自分の好きなペースで勝手に移動している。さすがにタギの方が道の真ん中側を歩いてランをかばうようにはしていたが。
タギが立ち止まって、大きく伸びをして、周囲を見回した。
「豊かな土地だね」
「今年も豊作だってマルシアさんが言っていたわ」
「このアラクノイ騒ぎが一段落ついたら・・」
そこまで言ってタギはまた歩き始めた。ランが横について歩きながら少し首をかしげて
「一段落ついたら?」
来春セシエ公はシス・ペイロスに兵を出す。王国を騒がせたアラクノイの蠢動に終止符を打つためだ。少なくともバルダッシュから逃げ出したアラクノイはすべて討伐するつもりだった。タギも同じ目的で協力する。だがそれで終わるだろうか?あのアラクノイ達はどこからどうやって来たのだろう?いつからシス・ペイロスに居たのだろう?いま居る奴らを全部片づけても、次が来ないとは限らない。それでも一応の決着はつくだろう。追い詰めて追い詰めて、殲滅するのだ。セシエ公の手勢やマギオの民と協力できて、レーザー銃が使えれば、勝手の分からない黒森の中であろうとそれが可能だろう。
「一段落ついたら、この平原のどこかに小さな土地を手に入れて、百姓でもやろうか」
「お百姓さんになるの?」
「それもいいかなって」
同じ世界から来た人間を探して歩き回るつもりはもう無くなった。セルフィオーナ王女の他にもいるかもしれないが、タギの中ではそんな人間よりランの方がはるかに大事だった。ランと一緒に定住して家を持つ、そう考えると胸の中が暖かくなる。
「でもアルヴォン飛脚はどうするの?」
「たぶんできなくなると思う。レリアーノ伯爵はセシエ公に降るつもりのようでサナンヴィー商会に圧力をかけ始めている。いずれにせよセシエ公が王国を統一してしまえば飛脚の需要そのものが無くなるしね。だから次の仕事を考えなければいけない」
これまでだったらこんなことは考えなかった。アルヴォン飛脚を始める前は、適当に雑用をこなしてその日の食い物と寝る場所を確保できればそれでよかった。アルヴォン飛脚をしているときでもほとんど毎日寝る場所が変わったし、冬の間は夏の稼ぎで食いつないでいた。心境としてその日暮らしだった。ランと一緒に歩き始めるまでは。でもこれからは落ち着いて暮らしたい、とそこまで考えて人並みのことを望むようになった自分に苦笑した。
「タギと一緒に居られるなら、お百姓さんでもなんでもいいわ」
ランが手をつないできながらそう言った。ちょっと気が早すぎるかな、と考えながらタギはランの手を握り返した。
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