up and down the scale
柳 小槌
long train running
発車ベルが、乾いた空気に響き渡る。
風に当たろうとしていたのだろうか、ホームで佇んでいた乗客たちがそそくさと列車に乗り込んで行くのが眼に映る。ある者はたばこを踏み潰し、ある者はサンドイッチの包み紙をゴミ箱に放り投げる。そうして、乗り遅れないように自分の車両へと走るのだ。
発車五分前の夜行列車の窓から見える景色といえばそんなものだ。まあ、実にくだらない、ありふれた光景だが、俺はそれを瞬きもせずにじっと見ていた。こんなものでも、最期の現世の一シーンとしては悪くないのではないか、と思ったからだ。
『命令』が来たのは三ヶ月ほど前だ。牛乳配達のビンにへばりついていた小さな紙片がそれだった。
簡単にいえば鉄砲玉だ。ターゲットと二人きりになったところで、あらかじめ用意しておいた毒薬を飲みくだして自殺。あとは不思議な力でターゲットが俺を毒殺したことにしてくれるらしい。手頃かつ安上がり、例のファミリーの常套手段だ。
俺は、例のファミリーに借金があった。それもかなりの。本来なら廃車と一緒にぺちゃんこにされてるはずだったのだが、『命令』が来たら鉄砲玉になる、という条件で延命と家族の生活を保証されたのだ。それから、永遠のような半年間が過ぎ、今に至る。
ドアが開く。現れたのは穏やかな顔つきの初老の紳士だった。少し太っているが、本人にそれを改善する意思が見える体つきをしていた。
「どうもすみません。手違いで私の部屋がなくなってしまいましてね。ここなら空いているというので来たのですが」帽子を取って俺に微笑みかける。「よろしいですかな」
「構いませんよ。どうぞ入ってください」
もちろん、全て筋書き通りだ。駅員の中にもファミリーの者がいて、そうなるように仕掛けていると聞いている。会釈して旅行かばんを運び入れる男の背後で、車掌の制服をきた男がこちらを睨み付けるのを視界の端で捉えた。おおかた、彼がその内通者なのだろう。
ドアが閉まる。細工は流々、あとは仕掛けを何とやらだ。楽しそうに荷物を整理する男をちらりと睨んだあと、深呼吸して心臓の音を小さくしようとした。無駄だったが。
ポケットの底のカプセルを取り出し、そっと口元に運ぶ。オレンジと白のツートーンが目に痛いくらいに鮮やかだった。しばらくその二色の死神と睨み合ったのち、意を決して口に運び……。
「おや、薬ですか。奇遇ですね、私も一粒やろうと思ってたんですよ」
心臓の止まる思いでどうにか薬をポケットに突っ込んだ。口内が乾ききって上手くものを言えない間に、彼はなおも続けた。
「私も睡眠薬を少し、ね。これがないと眠れないもので。あなたのはなんでしょう?胃ですか?風邪ですか?」
「私は、あの」ようやく回り始めた舌を総動員する。「心臓を」
「心臓の病でしたか!いやはやお気の毒に」
彼はそれだけいうと口をつぐみ、再び作業に戻った。
胸をなでおろし、ポケットを再びまさぐる。が、指は空を引っ掻くばかりだった。
薬が、ない。反対のポケットにもない。ひっくり返しても、ホコリしか出てこない。冷や汗が額を伝うのがわかる。毒薬はあれ一粒しかないのだ。声をかけられた時にどこかに落としでもしたのだろうか?
ふと足元を見ると、少し離れたところにオレンジ色の小片が見えた。なんだ、ここにあるじゃないか。俺はふーっとため息をつき、それを口に放り込んで椅子に深く持たれた。
なんだ。どうして、ずいぶん安らかな最期じゃあないか……。
しばらくして、俺は目を覚ました。
ベッドの上で天井を見つめてしばらくして、それが異常なことであることを認識して跳ね起きた。あたりを見回すが、そこは明らかに天国ではない。依然として、夜の闇をかき分けるように進む列車の中にいた。
何故だ。毒が効かなかったのか。そんなはずはない。軍隊でも使っているような代物が、借金に苦しむ男一人殺せないはずがない。では何があったというのだ?
呼吸が荒くなり、意味もなく汗が身体中に浮き出る。そんなふうに焦ってる自分がいるにもかかわらず、その一つ上に、もう一人の自分がいた。そいつは上の方から客室を見渡して、こういった。
「さっきの男はどうなったんだ?」
なるほど、確かに当然の疑問だ。痛む頭の中で、彼がスーツケースの中の寝間着を几帳面に取り出すシーンが再生される。彼は寝ているのだろうか?
二段ベッドの梯子をのぼり、恐る恐る顔を出すと、彼の体が目に入った。
口からは泡のようなものが出ており、目は大きく見開かれていた。その両手はちょうど胃腸のあたりをしっかりとおさえ、そこから動こうとしなかった。
そして何より、その心臓は、止まっていた。動いていないのだ。彼の体は、どこからどう見ても、活動を停止しているように見えた。
「ああ」
一瞬にして状況を理解した。俺が口に出すより先に、上の方の俺がこういった。
「間違えちったんだな。俺も、あいつも」
下段ベッドに腰をおろし、頭を抱える。
今までありとあらゆることに失敗してきたが、最後の最後も失敗だった。満足に死ぬこともできないのだ。俺に何をしろと言うのか。
ふと、腕時計に目を移す。4:56、と無機質なデジタル文字盤が点滅する。何だろう。何かを忘れているような……。
「あっ」
大慌てで立ち上がり、上段ベッドに頭をしこたまぶつける。『巡回』だ。忘れていた。5時を少し過ぎた頃ににファミリーの者が、おそらく先ほどの内通者が、殺害現場の第一発見者となるべく部屋へ訪れる、と『命令』にあったのをすっかり忘れていた。
自殺もできないのだ。こうなったらあの男に殺してもらおうか、とも思ったが、ファミリーの保護のもと暮らしている両親の顔が脳裏を横切った。カバンの中に彼ら宛ての遺書もある。人を一人殺しておいて、彼らを見捨てるのはどうにも納得が行かなかった。
自問自答している間にも、秒針は正確に動いている。俺は再びゆっくりと立ち上がり、そして、再び頭をぶつけた。
着慣れない駅員の制服が窮屈で、暑くて腹が立つ。ボタンを何個か外して風を仰ぎ込んだが、ちっとも涼しくならない。まあ、これを着るのもあと少しの辛抱だ。最後の仕事が終わったら、次の駅までゆっくり寝ればいい。
「確かここだったな」
目的地に到着した。部屋番号29。あとはこのドアを勢いよく開け、あの貧相な男が死んでいるのを見届ければいい。もしターゲットが起きているなら、叫び声をあげて他の駅員…本物の駅員…を呼びに走ることになっている。何の問題もない、シンプルな仕事だ。
「失礼します」
反応はない。そのまま部屋に入る。
まず視界に飛び込んできたのは、泡を吹き無様にベッドに転がる『鉄砲玉』だった。奴は無事死んだようだ。一応脈を測っておくか、と手を伸ばしかけるが、やたら汗ばんでいる汚らしい肌に触れたくなくて断念した。
上段ベッドを覗くと、ターゲットが安らかな顔で眠っているのが見えた。まるで絵に描いたような、『寝ている人のポーズ』だった。
「本当にあんな風に寝るんだなあ……」
そうひとりごちて、俺は梯子を飛び降りた。
これで今日の仕事は終わりだ。一つあくびをして、念のため閉めておいたドアの解錠し、廊下に出る。
内通者の足音が、ゆっくりと遠ざかるのを確認して、俺は止めていた息を吹き返した。
「ぶはっ。はーっ。はー……」
怖かった。偶然にも上手くいってしまった。体の震えが止まらない。
口元についているハンドソープを拭う。ターゲットの男のカバンの奥に入っていたものだ。まさかこんなもので誤魔化せるとは思わなかった。
袖を捲り上げると、腕に汗がまるで滝のように滴っていた。昔から緊張すると汗をかくのだ。こればっかりはどうしようもない。
「……さて、と」
これからどうすればいいのだろうか?さすがに朝になって食料車が開けば気づかれるだろう。そもそも、俺も永遠に口に泡をつけてひっくり返っている訳にはいかないのだ。何かしら対策を打たねばならない。
白熱電球とは違う色の光が部屋に差し込んだ。窓の方を見ると、空が白み始めている。もう時間はないのだ。
俺は、ため息をついた。
仕事は、終わりではなかった。
いや、本来は終わっているはずだったのだ。まさかこんなことは有り得ない、と鷹をくくっていたら、その有り得ないことが起きてしまったのだ。電話越しにがなり立てる同僚をさえぎって言い捨てる。
「だって、こんなの信じられるか。金持ちの、太っちょの起業家が、朝自分の部屋に死体があるのを見つけてよ……」
29号室の扉を勢いよく開ける。外の風と砂埃が、勢いよく流れ込んでくる。
「……窓ブチ破って、外に飛び出すなんてよ。しかも死体ごと、だ」
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