誤訳ミステリー

翻訳というとまず英語→日本語をイメージされる方が多いと思います。そこでまずは私が謎を解いた誤訳ミステリーをご紹介します。私は好きだった漫画の影響からシャーロック・ホームズというとんでもなく面白い翻訳小説を知りました。


中学生になるとレイモンド・チャンドラーという作家の小説をよく読みました。もちろん翻訳されたものです。当時は原文を目にする機会がありませんでしたから、翻訳されたものをせいとして読むしかありません。


しかし当時の翻訳小説には不思議な箇所がたくさんありました。例えばチャンドラー作品では『上唇が長い』という謎の形容が散見されました。上唇だけが長ければ常に口を開いた『間抜け顔』のはずです。


これが魅力的な女性や抜け目のない男性に使われるのです。今なら“upper lip”で画像検索すれば一発で謎が解けます。これは『上唇』であると同時に『鼻の下』も指す言葉なのです。“long upper lip”は『鼻の下が長い』という意味でした。


英和辞書だけだと調べにくいこうした語によって誤訳の沼にはまってしまうことはしばしばありました。中でも最も不思議だったのが『プレイバック』という作品の以下の箇所でした。


「靴を履くのに梯子が必要になるぐらいあんたを小さく切り刻める友だちがいるのよ」


一流弁護士の秘書が主人公に向かって、ギャングの友だちがいるんだと言わんばかりの恫喝どうかつを始めるのです。そういうことがないとは限りませんが、これに対しての主人公の返事がまた不思議でした。


「そうなるのには相当努力したんだろう。だがどれだけ努力しても頭にはかなわない」


原作は日本では著作権切れですが、翻訳文も著作物なので記憶に頼ります。確かこのように返事していました。まるで会話が噛み合っていない。そう考えるのが普通でしょう。なぜ人を切り刻むのに努力が必要だと決めつけたのでしょう? 


人を切り刻むなどというのはむしろ素質かと思いますが、仮に切り裂きジャックが努力家だとして、頭にはかなわないとはどういう意味でしょう? いくら頭が良くても努力した人殺しには太刀打ち出来ない気がします。


話の前後関係を考えると謎はさらに深まります。主人公はこの少し前に秘書に軽口を叩き、秘書はそれを不快に感じています。しかしインターホンでは冷静にボスに取り次いでいます。ギャング友だちを紹介するほど怒り狂ってはいません。



極めつけはこの会話の後、二人はまるで一気に打ち解けたように笑い出すのです。いったい二人は『原語では』どのような会話をし、どうして心を開いたのでしょうか。謎解きは次章で。

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