奏
葵月詞菜
第1話 序奏
一.
高校の入学式の朝だった。
それは生前祖父が使っていたバイオリンだった。
矢㮈は仏壇の前に正座し、線香をあげて挨拶をする。そして、祖父が亡くなって以来ずっと触らないでいたそのバイオリンケースにそっと手を伸ばした。
ケースを手元に置いて、蓋を開ける。中のバイオリンは手入れされているので、あの頃のままずっと綺麗だ。
矢㮈はごくっと唾を呑み込んで、ゆっくりとバイオリン本体に手を近づけた。
しかし、後数センチという所で手を止めた。
――。
頭の中で、弦が弾ける音がする。
「触っても大丈夫。昨日俺がちゃんと手入れしたばかりだから、そう簡単には切れないよ」
聞き慣れた声が後ろからして振り返ると、開けた襖に背を軽くもたせ掛けるように弟が立っていた。
矢㮈はすぐにふいとバイオリンに視線を戻し、ケースの蓋を閉めた。
「あれ、弾かないの?」
「やっぱり弾けないわ」
苦笑と共に言って、元通りの位置にケースを置き、矢㮈は立ち上がった。
「おじいちゃんにはちゃんと挨拶したよ」
言いながら、開いた襖を――弟の目の前を通り越す。
その背に、また声がかかった。
「オーケストラ部あるんだろ。絶対見学してこいよ」
「気が向いたらね」
矢㮈は弟に軽く返事をし、リビングへ向かった。
二.
「お兄ちゃん、本当に行っちゃうんだね」
家を出た時に見送りをしてくれた、無理に笑う妹の姿がまだ頭に残っている。
対応してくれた管理人は大雑把に説明して、也梛の部屋の番号を伝えた。後は相部屋の同居人に訊け、ということらしい。
――それにしても初対面になる同居人を紹介してもくれないとは。也梛は思わず苦笑し、教えられた部屋を目指した。
寮の玄関を真っ直ぐに突き当たりまで行き、右に曲がった一番奥がその部屋だった。一階の一番奥は、正直一番面倒臭い場所だったが、その部屋には小さな庭らしきものが付いているらしい。きっと非常口の代わりだろう。
スーツケース一つと、お気に入りの細長い長方形のケースを持って、その部屋の前に立った。扉の横には、病室みたいに入居者のネームプレートが付いている。今日からルームメイトになる者の名字を見て、也梛はふっと頬を緩めた。
(俺は運が良いな)
その変わった名字を、也梛は知っていた。
そもそもそれこそが、この学校にわざわざ入学してきた目的だった。
(さて、あいつは驚くかな)
也梛は軽く、扉をノックした。少し間が空いて、中から「どうぞー」という声がする。
なるほど、来訪者を出迎えることはしないらしい。
也梛は一つため息を吐くと、大きく扉を開いた。
部屋の真ん中に置かれた丸テーブルの上に何か雑誌を広げて、それを見ていた一人の少年が顔を上げた。
也梛は懐かしい気持ちで、彼によっと手を上げた。
「久しぶり? 忘れたとは言わせねーぞ」
三.
高校一年の終わり頃だったと思う。
「まだまだ君の人生はこれからだから。出逢いはきっとあるはずだけどね」
その時は曖昧に微笑み返しただけだったが、すぐにそれを実感することになった。
彼らが現れて、彼は消えてしまったけれど、その出逢いは諷杝にとって大きかった。
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