Rip Stick 19

「昨日わたしが、『星川先生の所で働くの?』って訊いたとき、『そんなことじゃない』って川島君、答えたじゃない! また嘘ばっかり!」

「ごめん。あれは… あのとき、さつきちゃんとまた、揉めそうだったから…」

「だから嘘つくわけ? 誤魔化したってすぐバレるのに」

「さつきちゃんとは夏休みの前にも、東京に行く行かないで、さんざんケンカしただろ。そんなことで言いあうのは、ぼくはもう、イヤなんだよ」

「イヤなら嘘ついてもいいの? みっこのことも嘘ばっかり! なにも知らないわたしが、バカみたい!」

「そんな… やっぱり、今話すことじゃなかったな。ぼくだって迷ってるんだ。さつきちゃんを置いて、東京には行けないし…」

「いいわよ! 川島君は東京でもどこでも行けば。そしてなりたかったカメラマンになって、みっこを恋人にして写真でも撮ってればいいわよ。長崎でやってたみたいにっ!」

「さつきちゃん…」

「もういいっ。ふたりしてわたしのこと騙して。もう、いやっ!」


最後はもう、涙声だった。

もう、どうでもいい!

川島君が東京に行きたいのなら、行けばいいし、わたしと別れてみっことつきあいたいのなら、そうすればいい。


そりゃわたし、今でも川島君のことは好き。

だれよりも。


そう…

森田美湖よりも。


川島君とは、やっぱり別れたくない。

だれに渡すのも、イヤ。

たとえそれが、みっこでも。


だけどもう、耐えられない。

わたしの気持ちはこの人を求めてるけど、別の自分が、激しく彼を拒んでいる。

川島祐二といっしょにいることを、激しく嫌悪している。


みっこを呼ぶ声で話しかけられたくない。

みっこを見る目で見つめられたくない。

みっこを触れた唇で触れられたくない。

みっこを抱いた腕で抱かれたくない。


「クルマ、止めて。わたしここで降りる!」

「さつきちゃん」

「降ろして!」

「今、ここで降りるってことは、ぼくたちが別れるってことだよ」

「いいじゃない。川島君はわたしと別れたいんだから」

「ぼくはそんなこと、言ってない」

「いっしょよ。東京に行くんだったら」

「もうちょっと、落ち着いて話そう」

「イヤ! わたしもう、川島君のことなんか、どうでもいい」

「さつきちゃん」

「好きにすればいいわ。川島君も! みっこも!」

「…」

「もう、別れましょ!」

「…」

「川島君とつきあった1年なんて、無駄だった。意味がなかった。時間を戻して!」

「…」


その言葉に川島祐二はなにも言わず、どんなことがあってもこれまで見せたことがなかった、諦めたような、冷めた表情でわたしを見て、プイと視線をはずし、言い放った。

「そうだな。みっこはいいよ。美人だし、理性的だし、ヒステリーなんか起こさないし。さつきちゃんももうちょっと、みっこのこと、見習ったら?」

「早くクルマ止めてっ! 降りるっ!!」


較べないで!

それが本心なの?

やっぱり川島君は、わたしより森田美湖の方がいいんだ!


『みっこのこと、見習ったら?』


それが、最後のひと言だった。

川島君はそれっきりなにも言わず、スピードを落として、クルマを舗道に寄せた。


え?

本当にわたし、降ろされるの?

自分でそう言ったくせに、本当にそうなるのは、イヤ!

だけど『やっぱり降りない』なんて、今さら言えない。

もう、さいは振られたんだ。

口に出した言葉は、取り消せない。

こぼれた水は、元に戻らない。



川島君がクルマを止めるとすぐ、わたしは黙って『フェスティバ』のドアを開けた。

彼の方を見ずに、うしろ手でバタンとドアを閉め、そのまま歩いていく。


『行くな。さつきちゃん』


わたしの背中で、そう呼び止める彼の言葉を、期待しながら…


“ヴゥゥゥ…”


しかし背中からは、荒々しいクルマの発進音。

振り向けないまま、わたしは歩き続けた。

そんなわたしを『フェスティバ』は、タイヤを軋ませて追い越していき、走り去っていく。


…川島君はわたしをおどかすだけで、すぐにクルマを止めるつもりなんだ。


『フェスティバ』は赤に変わったばかりの交差点に無理やり突っ込み、ウインカーも出さずに角を曲がって、わたしの視界から消えた。


…川島君はブロックを一周して、またここに戻ってくるつもりなんだ。


しばらくの間、わたしは朝の街角にぼんやり突っ立って、大通りのまばらなクルマの流れを見ていた。

だけど、赤の『フェスティバ』は、いつまで待っても、姿を見せなかった。


「…わたしたち。もう、別れたのね」


ひとりごとを言って、空を見上げる。

朝の光がまぶしい。

睡眠不足で真っ赤になった、腫れぼったい目を細める。


「もう… いい」


涙は、出ない。

泣いてもおかしくない場面なのに、『さよならをした』というのが全然実感できなくて、涙が出なかった。


 うっすらと朝靄あさもやのけむる街を淡々と歩き、近くのバス停からバスに乗り、電車を乗り継いで、わたしは家に戻った。

心はカラッポ。

なんにもしたくない。


部屋に入るとそのままの格好で、ベッドに倒れ込む。

ほんとはいちばん親しい人に電話でもして、泣いてわめいて今あったことを話せば、少しはすっきりもするんだろうけど、こんなことみっこに電話して、話せるわけもない。

それに今頃、みっこの部屋には、川島君が戻ってきているかもしれない。


「そんなの、どうだっていい」

そうつぶやいて、わたしはベッドに顔を伏せた。

眠ってしまえば、なにも考えなくてすむ。

睡眠不足のせいもあって、わたしはすぐに、深い眠りについた。


つづく

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