罪なき罪の仔

笠井 玖郎

 *

 私が彼女に殺されて、もう一時間が経とうとしている。

 身体を巡る血液の多くは体外へ流れ出し、指先はとうにその感覚も希薄。それでも、意識ばかりは清明に、私を死から遠ざけたがる。

 カーテンの隙間から見える光景は、一時間くらいでは何も変わらない。時計の秒針、そして降りしきる雨。その微かな音だけが、時間が止まっていないことを告げている。

 どうせなら、窓を開けてくれればよかったのに。雨で体温を奪われれば、こんなにダラダラと死に続けることはなかったのに。などと、見当違いの文句が浮かぶ。だが自嘲めいた笑みを浮かべることも、今の私には難しい。彼女の贈り物は本当に――残酷だ。

 何も変わらないこの部屋で、私はずっと死に続ける。それが彼女の呪いプレゼントなのだから。



 彼女に出会ったのは、実に三日前のことだった。

 その日は何をするでもなく、次の講義が始まるまでの時間をどう埋めようかと思案していた。



 ぶらぶらと街を歩くこと五分。平日の昼前とあって、街も駅前も静かなものだ。もう何時間かすれば、飲食店を中心に活気が戻ってくるのだろう。

「しかし、意外と微妙なんだよな、二時間って」

 誰にともなく呟いて、ため息をつく。学期が始まったばかりの頃は自由を謳歌していたが、数週間後には持て余し始め、今となってはいかに金を使わずにこの時間を消化できるかが課題となっている。二時間というのは何かをするには短く、暇を持て余すには長すぎるのだ。

「じゃあデートでもする?」

「そうだな、かわいい女の子とデートできた、ら」

 いいのにな、と続けようとして、全身が強張る。聞かれた。独り言を聞かれた上に返事までされた。さらに言えば、返事をした張本人はあどけない顔で微笑んでいる。

 控えめに言って、物凄く好みだった。

「でー、と」

「デート。私と、あなたで」

 願ってもない話だった。デートコースの検索をしだす自分と、今日の服カッコ悪くないよなと真面目に考えだす自分。一瞬にして脳内が喧しくなる。

 落ち着け、と浮足立つ脳内に一喝して、目の前の女の子に視線を移す。腰近くまである長い黒髪。大きくて黒目がちな瞳。化粧っ気はないが、素材の味を十分に生かしている。うん、かわいい。かわいいのだが、ひとつ問題が。

 高校生特有の幼さを持つ少女は、その見た目に反さず、高校の制服を身に纏っていた。それも我が母校の。そして、現在は平日、まもなく正午が来る。

「きみ、学校は?」

「今日は創立記念日で休校なの。だから行こ?」

 愛くるしい表情とはこういうものを指すのだろう。こう上目遣いに見られては弱い。だが私は知っている。あのお堅い進学校に、創立記念日を休みにするという発想がないことを。年長者としてはっきりと言わねばなるまい。早く学校に戻りな――

「それとも、私じゃダメ?」

「全然」

 無理だった。とてつもなく好みの女の子にそんな風に誘われて、断れる訳がなかった。

「じゃあ決まり。あそこの喫茶店、ケーキが美味しいの。一緒に食べよ」

 もはや頭にあるのは、手を引かれる幸福と、財布の中身のことだけだった。



 買い物三昧ですっからかんになるかと思われた財布の中身は、意外にも一時間経った今でも無事なのだった。それどころか、テーブル上が片付いた今も、喫茶店の中にいるのだった。

 喫茶店に入ろうと誘ってから、彼女は私のなんでもない話を聞きたがった。家はどこか、大学は楽しいか、兄弟はいるか。どれをとっても、ありふれた日常話だというのに、彼女は羨むようにその話を聞いていた。

「いいなぁ、楽しそう。私一人っ子だから、先生みたいなの羨ましい」

 そして何故か、彼女は私を先生と呼ぶようになっていた。何故先生と呼ぶのかと訊いても、返ってくるのは「なんとなく」という言葉だけ。

「ねぇ先生、好きな人とかいないの?」

「いるよ、目の前に」

 どうせ本気にされないだろうと、即答してみる。が。

「え……そ、そういうのいいから、ね?」

 うつむき加減で目を泳がせて、心なしか顔を赤くして。

 まるで、両想い、みたいな。

「いや、あの、よくない。よくないです。そんな反応されたら期待します」

 思わず敬語になりながら、しまった、と思う。

「ち、違う、いや違わない、んだけど、その……。嘘では、ない。ので、考えておいてもらえると、嬉しい、というか」

 頭が真っ白になる。失敗した。何せ、女の子に告白したことなど一度もない。正直に言ってしまえば冗談のようなノリだったのだ。それを、こんな風に受け止めてもらえると思ってなかったものだから。

 期待してしまう。

 告白など、してはいけなかったのに。

「……私も、先生が好きって言ったら、迷惑かな」

 今にも消え入りそうな声で、彼女がこちらを見る。怯えと期待を含んだ視線。迷惑な訳がないと、男のように、その華奢な身体を抱き寄せられたらどんなに良かったか。

 。それがおそらく、今の私の心境として最も適切な単語だろう。

 どちらともつかない性別たちばの自分に、何ができるというのだろう。



 迷惑ではないが、もう一度ゆっくり考えてほしい。そう言ってその日は別れた。

 告白した張本人に、神妙な面持ちで帰されたのだ。彼女からすれば訳がわからなかっただろう。

 連絡先は交換した。ただ、そのことを素直に喜べない。彼女の言葉を、受け入れきれない。

 Xジェンダー。男性でも女性でもない、第三の性を望む者。

 そして、バイセクシャル。男性と女性、いずれに対しても性的欲求を抱く者。

 私のような少数派マイノリティを、大多数マジョリティはそう呼ぶらしい。

「くだらない」

 そう大声で言ってやりたくもある。だが一方で、「自分とは違う性的指向をもつ人間」に対して恐怖や嫌悪を抱く者がいるのも、わからなくはない。自分とは違う、それだけのことで排斥したがる人間は少なくないのだ。自分とは違う人間として少数派をラベリングし、大多数は安心を得るのだろう。

 狭い社会の中では、些細なことさえ排斥の原因となる。だからこそ、私も最初は隠していた。

 窮屈な毎日。それに耐えられなくなったのは高校生の時だった。冗談交じりに漏らした本音は、私を一瞬にして楽にした。嫌悪感を露にされても「仕方ない」と開き直れるほどに。

 幸い理解ある友人に恵まれたため、大学での居心地は、決して悪いものではなかった。そのうちの何人かは、私と同様に少数派でもあった。

 だが、そんな友人関係を持っても、同性おんなのこと付き合おうとは思わなかった。

 理由は簡単だ。好きな女の子を、幸せにできると思えなかったから。

 自分では中性を望んでいようと、実際にはこの身体は女のものなのだ。外見ふくそうはどちらでもない人間を装えても、中身せいべつまでは偽れない。

 もし女の子と付き合ったとして、その先を、想像することが恐ろしい。

 周囲の目、親の目、子は遺せない、性的快感を与えられるかどうかも怪しい。

 こんなどちらともつかない人間といるより、男性と付き合った方がいいじゃないか、と。

 その方が幸せじゃないか、と。

 好きな女性ができるたび、心に蓋をした。決して開かないようにと、封印した。

 だというのに。


 ――私も、先生が好きって言ったら、迷惑かな。


 言わなければよかった。好きだなんて。いっそ、迷惑だと断ってしまえば良かったのだ。たとえエゴだと言われようと、彼女の幸せを望むのなら。

 そもそも彼女は私を、どちらだと思っていたのだろう。

 どちらでもない人間の、どちらをとったのだろうか。



 彼女から連絡がきたのは、翌日の夜だった。

「明日、またお話できませんか」

 要件は短いもので、たったそれだけだった。

 そうして、再び彼女と会った。

 私が殺される、一日前である。



 初めて会った日と同じように、喫茶店に入った。そして同じようにケーキとコーヒーを注文する。

 あの日の焼き増しのようにも思えるが、互いにその表情には影が差している。そんな表情をさせてしまっていることが、とても申し訳なかった。

「この前言われたこと、考えてきたんだけど」

「その前に、ひとつだけ訊きたいことがある」

 彼女が答えを言う前に、半ば強引に遮った。出鼻をくじかれたからか、わかりやすく不満そうな顔をする。申し訳なさはあるのだが、そんな表情もとてもかわいいのだった。

 なに、と口を少しとがらせ、頬杖をつく。視線は窓の外に向けられて、こちらを見てはいなかった。

「……きみには、私が何に見えるんだ」

 覚悟を込めた一言に、彼女は意外そうにこちらを見る。頬杖をといて、私の全身をよく見る。そして、困ったような不思議そうな顔で、

「え、人間じゃないの?」

 と言った。

 ……私の質問も悪かったが、その反応はさすがに予想してなかった。

「人間だよ。いやそうじゃなくて、きみには私が男か女か、どちらに見えているのか、と訊いてるんだ」

 ああ、そういうこと、と納得したような表情をしたかと思えば、再び不思議そうな顔をする。

「それ、重要なこと?」

 素朴な疑問符。しかしその疑問は、確かに私が持ち続けていたはずのものだった。

 重要なのは個の性別ではなく、好きかどうか。

 異性だから好きになる訳でも、同性だから好きにならない訳でもない。

 そう思っていたはずなのに、その実、性別にこだわっていたのは、他でもない自分自身だった。そんなことさえ、気付かなかった。

 思わず笑みがこぼれる。あれだけ覚悟していたというのに、一気に気が抜けたようだった。

「いや、重要じゃない。少なくとも、きみと私にとっては」

 笑いを殺しきれず、口元が緩む。今更、しかも年下の彼女に気付かされるとは。

「それなら、もういい? 私答えたいんだけど」

「ああ、遮って悪かった。どうぞ」

 遮られたことを思い出したのか、またむっとしたように口をとがらせる。そして、切り替えるように一度目を閉じて、姿勢を正した。

「結論から言うけど、やっぱり私は先生が好き。男とか女とか、そういうの、どっちでもいいから」

 付き合いませんか、とやはり自信なさげに、声は次第に小さくなっていく。視線は、あわない。怯えた小動物のように、私の言葉を待っている。

 彼女も、彼女なりに覚悟を決めているようだった。それならば、私もそれに応えねば。

「いくつか断っておきたいことがある。まず、私は女性経験がない。なので、あまり期待はしないように。さらに、きみを幸せにできる自信もない。ついでに身体の性別は女なので、おそらく周囲からの風当たりは厳しいものになる。もちろん、きみのご両親もそこに含まれるだろう」

「経験がないってことは、私がはじめてってことでしょ? むしろそっちの方がいいよ。それに多分、先生といられれば、私は幸せだし」

 私は気にしない。彼女も気にしない。ならば問題は、

「ご両親は?」

 目を逸らす。それが答えだった。

 そうか、とだけ言って、もう冷めてしまったコーヒーに口をつける。

 舌に広がる苦味が、やけに不味く感じられた。



 あの日、羨むように私の話を聞いていた彼女。

 その真意に、もっと早く気付くべきだったのだ。

 放任的な我が家と異なり、彼女の家は厳格だった。女は女らしく家庭を支え、男は男らしく社会を動かす。それが暗黙の了解だった。決められた進路、決められた人生。それに嫌気がさして彼女は逃げ出した。その結果が、あの出会いだったのだ。

 滔々とうとうと語る彼女の瞳は、水底のように暗く。

 認めてもらえる訳がないと、雄弁に物語っていた。


 言える、訳がなかった。

 それでも、父か母、どちらかの理解なら得られるかもしれない。僅かであれ、可能性があるのならと、彼女はその夜、両親に打ち明けることを決めた。

 夜、送られてきたメールには、

「明日、先生の家に行きたいです」

 とだけ書かれていた。



 そして翌日、すなわち今日。雨の中、彼女は傘も差さずにこの部屋を訪れた。その手にナイフを握りしめて。

「先生、ごめんなさい」

 濡れた髪が頬に張り付いている。それは雨によってか、それとも。

 だらりと落ちた両腕。右手に握られた凶器は、誰にも向けられてはいなかった。冷え切った彼女の手を引いて、部屋の中へと導く。

「ほんとは、ずっと前から先生のこと知ってたの。制服姿の先生を街で見かけて、一目惚れして……同じ学校に入ればまた会えるかもって」

 しかしそれは叶わなかった。彼女が入学する前に、私は卒業してしまっていた。

「だから、この前会えた時、すごく嬉しかった。前よりもずっと……好きに、なっちゃった」

 重く、水気を含んだ声。滴り落ちる雨粒が、床に小さな染みをつくる。

「一緒にいられないなら、せめて、先生に終わらせてほしくて」

 泣き腫らした目で、口で、精一杯の笑みをつくる。その頬は赤く腫れ、口の端が切れていた。

 彼女は戦っていたのだ。一晩中、たった一人で。今まで諾々と従ってきた相手に逆らう恐怖は、一体どれほどのものだったのだろう。それでも立ち向かって、追い詰められて、その華奢な心はきっと――折れてしまった。

 私が時間を浪費している間にも、彼女は。

「一人で、逝かせられるか」

 差し出されたナイフ。その震える手を引いて、彼女を抱きしめる。

 暖かな感傷。冷たい感触。切っ先は迷わず私の中へと導かれていく。衝動的な行動はしかし、確かに私の意志だった。

「どうして」

 もともと生への執着が薄かったのだ。こんなに想われて逝くのなら、最高の幕引きだ。そう言おうとして、やめた。この感情は、そんな上辺ばかりの言葉で伝えたくはなかった。その代わりとばかりに、抱きしめる腕に力を籠める。

「……はは、なんだか性交みたいだな、これ」

 入れられる側か、などとぼんやり考える。抱く力を強めるほどに、それは奥へと至っていく。

「じゃあ、次は先生が入れて」

 抜かれ、渡されるナイフ。紅く光る鋼色は、とても男性的で。なるほど中性ではなく両性か、などと心中で笑う。

 ぷつり、と皮膚を裂いて血を流す。あ、という微かな声。

 なんと甘美な瞬間か。

「ね、先生。私より先に逝っちゃだめだよ?」

 甘い声、潤んだ瞳。彼女も同じことを考えているのだろうか。

「難しいことを言うなぁ」

「先に死んだら、先生じゃなくて先死になっちゃう」

「それはどういう」

 ことだ、と言おうとして、唇を奪われる。


「私の死を見送って、

 それが、彼女の最期の笑顔だった。


 腕の中には、もう動かない彼女がいる。

 言霊というのも、存外侮れないものだ。

 先を生きろ、などと言われたら、すぐに追いかけられないじゃないか。

 窓を打つ雨の音を聞きながら、もう力の入らない腕で彼女を抱き寄せる。



 眠り姫に口づけを。

 目を覚ます者が、おらずとも。

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罪なき罪の仔 笠井 玖郎 @tshi_e

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