第十色 ②
「珊瑚」
ふいに男の声で名を呼ばれた。彼女がそちらに顔を向けた時、一瞬呼吸が止まった。
目の前に立つ大男は、感情のない視線をこちらに向けている。
「
「
一気に血の気が引いていく。珊瑚は思わず顔を伏せた。
紫紺がここにいる理由が分からない。自分が
顔を伏せたまま混乱する頭で考えていると、
「珊瑚ちゃん、そろそろ休憩にしましょう?」
作業場から出て来た
自分に食ってかかる
「貴様は梔子と一緒にいた……」
空の顔にも恐怖の色が浮かぶ。
鳶を呼ぼうかと、背後の作業場に目をやった時、珊瑚が彼女を
「この
そう言って、紫紺を睨んだ後、珊瑚は振り返ると、
「空、鳶さんを呼んで来て!」
空は一瞬迷った素振りを見せてから、顔を伏せた。固く目を閉じる。
少しの間を置いてから、意を決したように顔を上げた。
まっすぐ紫紺の元へ歩いて行く。
紫紺はそんな空に、軽蔑を込めた刺すような視線を送り続けている。
「お会いするのは二度目ですね。私は空と言います。この作業場の主人の、鳶の娘です」
上ずった声で話しているのが自分でも分かる。思うように口が回らない。
きっと、表情も強張っているんだろう。そう感じるのは、紫紺の刺すような視線のせいだろうか。
「
「あなたが、人間を嫌っていることは知っています。ですが、あの日、何度も梔子と私に珊瑚ちゃんのことを聞いたのは、本当は心配していたからではないんですか?」
「俺がこのガキを心配するだと?」
眉間にシワを寄せて、更にねめつける紫紺に空は続けた。
「珊瑚ちゃんのお父さんが亡くなった後、彼女と彼女のお母さんの面倒を見ていたのは、あなただと聞きました」
紫紺は目を見開いた。
そんなことを、何故このニンゲンが知っているのか?
そう言いたげだ。
「あなたが本当に人間を嫌っているなら、
「それは、
「嘘よ!」
突然、紫紺の言葉を遮って、珊瑚が口を開いた。
「お父さんは突然亡くなったって、お母さんから聞いたわ。あんたが、あたしとお母さんを外に出さなかったのだって」
「ニンゲンを嫌う者たちから二人を守るためだろう?」
声の主は
「露草……。 何故、ここにいる?」
紫紺が呆然とした様子で口にすると、彼がそのまま続けた。
「あの頃はニンゲンを差別する者たちが結構いたんだ。嫌がらせをする者もいた」
独り言のようにそう呟く彼の姿は、何かを哀れんでいるようにも見えた。
「あの頃……」
珊瑚の脳裏にある記憶が蘇った。
一日に何度も窓から外の様子を確認する紫紺の姿。
母親は体調を崩して、何日も起き上がることが出来なかった。幼かった自分は、そんな母親を元気付けようと、外に咲いている花を取りに行こうとした。
そうしたら、紫紺に見つかって叱られたのだ。自分を叱った後、彼は外に出て、こちらの様子を伺っていた者たちにしきりに声を荒げていた。
彼らは必ずと言っていいほど嘲笑とも取れる笑みを浮かべていた。
奇異の視線をこちらに向けて。
珊瑚は再び紫紺に顔を向ける。
歯を食いしばり、項垂れる彼の表情は苦悩に満ちている。
「紫紺、空について黙っていてすまなかった。だが、そうしないとお前は……」
納得しないだろう、と言おうとしたが、それより早く彼が口を開いた。
「確かに、納得は出来ん。だが、俺の元に戻ったところで何かが変わる訳ではない。それなら」
紫紺は顔を上げると、
「おい、女!」
厳しい口調で空を呼んでから、更に続けた。
「珊瑚の身体が丈夫でないことも、能力を使いこなせないことも知っているんだろう?」
「は、はい! 知っています」
紫紺が言った通り、彼女のことは七両や露草から聞いていた。それを口に出そうかとも思ったけれど、空はその言葉を飲み込んだ。
今、それを話す必要はない。
「こいつは面倒ばかりかけるぞ? それでも、引き取る覚悟はあるか?」
覚悟と聞いて、空は思わず珊瑚を見た。こちらを見ている彼女の顔には不安が広がっている。
空は彼女の両肩に自分の手をそっと置いてから、紫紺に顔を向けた。さきほどまでの恐怖は不思議と感じない。
「はい。覚悟は出来ています」
顔には出さなかったが、自分でも驚くほど力強い声が出たことに内心驚きを隠せなかった。
「ですが」
空は一旦言葉を切ると、
「珊瑚ちゃんを一番よく知っているのはあなたです。もし、この子に何かあったら、その時は協力していただけますか?」
「その時は、迷わず俺のところに来い。対処する」
そう言うと、空たちに背を向けた。歩き出そうとする紫紺に、
「待って。小さい頃、あたしを外に出さなかったのって……」
珊瑚が言いかけた時、それを遮るように紫紺が口を開いた。
「女、珊瑚の
「はい」
「それから、珊瑚。お前を外に出さなかったのは、いなくなられたら迷惑だからだ。それだけだ。いいか、くれぐれも鳶たちに迷惑をかけるような真似だけはするなよ?」
紫紺はそう言うと、元来た道を戻って行った。
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