第5話その5.
一時間目の英語が終わると、登校途中で買ったコンビニのパンを持って屋上へと続く扉の前にやって来た。二時間目の数学のついでに、三時間目の生物もサボることにしたのだ。
どちらの担当教師も、生徒が一人居なかったくらいでは何も言わないような人柄だ。教師としてそれは大丈夫なのかと思うけれど、今の僕としては好都合なので、ありがたく利用させてもらうことにする。
「もう来てる」
ネジを外そうとドライバーを取り出したものの、すでにネジは外されていた。自分のサボりは棚に上げて、呆れた溜息を一つその場に捨てる。
布野が屋上に来るようになってから、窓の近くには、木で出来た小さな踏み台が置かれるようになった。僕よりも背が小さい布野では、ネジ穴に手が届かないらしい。
布野が来たばかりの頃は、「屋上が憩いの場所だったのに」と少し落胆したのだが、布野が居ることに数日で慣れてしまった。
この踊場には他にもいろんなガラクタが置いてあるので、踏み台ひとつ増えたところでばれてしまうようなことはない。というのが布野の考えだ。
たしかに、使っていない机や椅子が多数おいてあったり、壊れた箒やバケツが置いてあるので、ガラクタが一つ増えたところで気付かれたりはしないだろう。けれど、一応机の山の奥へと隠しておく。不安は少ないにこしたことはない。
窓をくぐり抜けて梯子を登ると、やはりそこには布野がいて、だらしなく寝転がって漫画を読んでいた。
「スカートの中見えるぞ」
「中に短パンはいてるし、洵矢しかいないからいいの」
「そんなのでいいのかよ、現役女子高生」
ため息とともにそんな言葉を吐くと、布野は勢い良く起き上がった。
「女子高生だって漫画読むし、だらだらだってするの」
「はいはい、わかったよ」
おもしろくない漫画を読んだ時のような顔をしながら投げてきた布野の文句を、あしらうように手で払いのける。
ここ数日布野のことでわかったのは、漫画を読んでいる時の表情も普段の表情もコロコロ回るということ。
同学年で、ひとつ上の階のクラスだから、普段あまり顔を合わせないということだけだった。別に、いろいろ知りたいとも思わないけれど。
ここへ来た時は、大抵の場合漫画を読んでいる。それは、少年漫画だったり、少女漫画だったりと様々だ。
月刊漫画誌だったこともある。たしかあれは、男性向けだったような。僕自身、あまり漫画を読む習慣が無いのでよく覚えていない。
布野が来てからというもの、給水塔の下はずいぶんと賑やかになった。主に布野の漫画本で。
表紙がカラフルでおもしろい。今度、架空の人物や生き物も描いてみようかという刺激を貰ったりもする。
空の欠片に関しては、一人の時か、僕の前意外では食べないそうだ。「一度見られたしいいや」くらいの感覚なのだろう。僕自身、この不思議な現象には慣れてしまった。
特別言いふらすどころか、言いふらすような相手も周囲にいないので、広まるようなこともないだろうと思う。
教室に何人か話すような奴はいるけれど、僕がサボって何処で何しているかとか、放課後何をしているかとか。そういうことを詮索してこない丁度いい距離の知り合いばかりだ。
布野の隣に腰を下ろすと、いつも通りにスケッチブックを取り出して絵を描く。今日は柵のところにカラスが止まっているから、それも入れよう。
鉛筆を軽く握って、指を動かし続けた。今日の雲の形から、空気の湿度までも紙に写していく。
自分のかきたいものを描いている間は、幸せを感じられる。
目で色と形をとらえて、肌で温度と風を捉えて、鼻で匂いを確かめる。紙に入れる以外の物事は、僕の中から抜き落とす。
多くのことを捨て拾う度に、鉛筆はどんどん速く走った。
描く景色は、僕の世界そのものだ。僕自身が見て、聴いて、触れたものがすべて。たいして広くはない。そのことにいくらか憤りを感じることもある。でも、多くを諦めてきたのも僕だ。
多く友達を作らずに、数少ない知り合いとも深く親しみを持たない。「母子家庭でかわいそう」という目で見られたくなかった。いや、その目が怖いのだ。
彼らの目は、確かに「かわいそう」と言っている。けれど、更にその奥には「かわいそうだと思っている自分は優しい」という色が見えるのだ。誰かの自慰行為的行動のネタにされるのはごめんだ。
両親の離婚にも、母さんの行動にも、なにも口出しはしなかった。
自分が行動したところで大した変化はない。子供の小さな声なんて、大人の大きな身体には響かない。小さな身体が発する低い位置からの音は、大きな身体の高い位置にある耳まで届きはしない。
だからせめて、被害は最小限にしよう。面倒なことは、極力小さくしよう。避けられることは避ける。そうしてきた。満足は出来なくとも、耐えられない程の痛みも無い。
現状打開よりも、現状維持を選んだ。
戦うことから逃げて生きている自覚はある。けれど、一度籠った殻はなかなか打ち破ることはできないし、それを変えたいとも特別思わないし、思えない。
結局今でも、自ら限定した、変化のない視野で生きるしかなかった。
「今日も同じの描いてる」
余計な思考に横入りされて手が止まっていると、布野が覗いてきて言った。先ほどまで読んでいた漫画の、次の巻を手に持っている。
「今は、これでいいんだよ」
努めて、普段通りに返す。
「いつまで、これでいいの」
それは、自分に何度も繰り返してきた質問だった。そして、その答えが出てきたことは一度もない。
「同じ絵じゃないよ。今日はカラスがいるし」
曖昧に返事する以外、自分の中に選択肢はなかった。布野の顔を見るのが怖い。どんな顔で僕を見ているのだろう。呆れだろうか。憐みだろうか。嘲笑だろうか。
「曇りの日だってあるし。雨の日はさすがに描けないけどさ、その日によって雲の形は確実に違う」
止めていた鉛筆を無理やり動かしながら、僕は稚拙な言い訳を並べた。布野の表情や、目の奥に映る色から目を逸らして。
「確かにそうだね」
納得したのか怪しいけれど、布野は大きく二度ほどうなずくと、また漫画の世界へと戻っていった。
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