第4話その4.

 朝起きて、学校へ行く準備をする。といっても、教科書類は机の中へ入れたままだ。


 そもそもまともに授業を聞いていない。通学に使っているリュックは、いつもかまぼこ板くらいぺちゃんこ。準備なんて、制服に着替えて寝癖を直すだけ。


 キッチンへ行き朝食用の食パンを焼こうとしていると、二階から騒がしい足音とともに母さんが降りてきた。

「あら、洵矢起きていたの」

「うん、おはよう」


 小さな会社の事務員として働いている母さん。今日は、普段よりも少し化粧が濃い気がする。人工臭いにおいもきつめだ。それに、休日に出かけるような服装をしている。会社についたら、スーツに着替えるのだろうけれど。


「今月分の食費、テレビの前に置いておいたからそれでよろしくね」

「うん、さっき確認したよ」

 目線は、僕じゃなくて携帯の画面。


「それから、お母さん今日も帰ってこないから晩ご飯いらないわ」

「わかった。加治さんのところだね」

「違うわよ。会社での付き合い」

「そう、了解」

 目も合わせない母さんの方を、僕も見ないで話す。


「ちょっと、なに? その素っ気ない態度」

 しまった。寝起きで虫の居所が悪かったのか、母さんの声音が少し濁る。

 この時、やっと目が合った。キッと睨むきつい目。


「母さんだってね、頻繁に遊んでいるわけじゃないのよ。仕事だって忙しいし、大人には付き合いってものがあるの」

「うん、わかってる」

 母さんはわざとらしく視線を切ると、自身の所定の位置であるテレビの前の椅子に腰掛ける。当たり前のように僕がコーヒーを煎れるのを待っていた。

 僕も特別なにを言うわけでもなく、母さんの前にコーヒーを置く。


「わかってないわよ。あんたは学生だから好き勝手やっているかもしれないけどね、母さんはあんたを一人で育てているの。だからあんたにも協力してもらいたいのよ。わかるでしょ」

「うん、わかってるよ」


 濁流のように一息で全部言い切ると、やっとカップに口をつける。

 母さんは何も食べないで、そのままタバコに火をつけた。これも、毎朝の習慣だ。紫煙が天井へと、蛇のような動きで上っていく。その蛇を追い出そうと換気扇を回した。


「あんたも、よくやってくれているわよ。でもね、母さんだってしんどいのよ。いつまでも若くないんだし。全部理解してくれなくても、少しくらいわかってくれてもいいじゃない」

「うん、そうだね。僕の理解がたりなかったよ。ごめん」


 ここまでを、全部無表情で乗り切る。

 どうせ、母さんはこちらを見ていない。声にだけ、感情の色をのっけておく。


 彼氏の加治さんと小競り合いでもしたのだろう。さっきから携帯を操作する母さんの指が休まない。八つ当たりにいちいち傷ついていたらきりがない。


 やっと満足したのか、テレビをつけて朝のニュースを見始めた。

 新人女子アナウンサーが、テレビ局ビルの屋上で今日の天気について話している。今日は一日、雨は降らないみたいだ。


「それじゃあ、あとはよろしくね」

 そう言って立ち上がった母さんを、玄関前まで見送る。「いってきます」も何も言わずに、母さんは玄関から出て行った。僕も「いってらっしゃい」なんて言わない。打っても響かないから。


 会社の付き合いというのは、間違いなく嘘だろう。

 ただの付き合いならいつも通りの格好だろうし、わざわざ靴箱からヒールの高い靴を出したりはしない。

 あの靴、加治さんに買ってもらったって、この前酔っ払って帰ってきた母さんが自慢してきたやつだ。

僕が中学生の時に父さんと離婚してからすぐ、知らない男性を紹介された。それが加治さん。


両親の離婚の原因は「経済的価値観の違い」と説明されたけれど、僕は違うと思っている。

 おそらく、母さんの浮気だろう。浮気が見つかる前に、それらしい理由をつけて離婚したに違いない。プライドが高くて外ずらを気にする母さんがしそうなことだ。


 指摘したところで、否定されるだろう。確実な証拠もないし、言い合いになった時不利なのは間違いなく僕だ。僕は子供で、被養育者で。母さんは大人で、m養育者だから。


 一度指摘しようものなら、関係のないことまで引っ張ってきて、ヒステリックに怒鳴られるのは目に見えている。流れの速過ぎるスーパーボール掬いのように、同じところをぐるぐると。


 離婚したのはもう三年も前だし、離婚原因に関しては今更なにも言わないと決めていた。問題は、その後だ。

「もうすぐ高校生だし、自分の管理くらいしてみましょうか。お母さんの仕事も忙しくなるしね」

 父さんが出て行って半年後、中学三年生になったばかりの頃母さんに言われた言葉だ。


 その言葉と一緒に食費を渡され、僕が夕飯を作るようになった。

 母さんは徐々に家事をしなくなり、気がつけば、僕がすべての家事をこなすのが当たり前になっていた。


 母さんにそのことを話しても「一人であなたを養うのは大変なの。協力してね」の一点張り。早々に、僕は話し合いを諦めた。

 その頃からだろうか、僕と母さんの間から会話らしい会話が姿を見せなくなったのは。かくれんぼをしているだけなら、いいのだけれど。


 リビングに戻ると、口紅の付いたカップがあり、中にはまだ少しコーヒーが残っていた。いつもそうだ。全部飲み切らないで、底に残すのだ。

 けれど、量を減らすと怒る。そういうところには、目ざとく気づく。


 僕は、いつものように、中身を捨ててカップを手早く洗った。


 食パンをトースターに入れたままだったことを思い出す。タイマー機能のおかげで自動的に止まって入るけれど、トースターから少し焦げた臭いがしていた。


「ああ、焼きすぎちゃったな」

 少し黒くなってしまった食パンを噛りながら、携帯に保存してある時間割表を確認した。


「ニ時間目は数学か。中間テストの点数よかったし、さぼろう」

 自分用のコーヒーを入れると、僕はテレビのチャンネルを変えた。可愛らしい数匹の小型犬が走り回っている映像が映っている。


 いつもよりきつい母さんの香水の匂いは、いつまでもそこにこびりついていた。

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