第5話「雨音逝人」

 雨が、絶え間なく鎌倉の町を、包むようにして降っていた。そんなある日、俺と同居人のSは、一階の庭先にある縁側で、ボーっと雨を眺めていた。


二十一にもなろうという男二人が、縁側で茶をすすりながら、しとしとと降る雨音に耳を澄ませ、糸の様に細い雨粒を見て、目を細めている。


他人から見れば、昼間っから若い男が何をやっているんだと、悪態をつかれるのかもしれないが。生憎と今日は、Sは大学が休みで、俺は古書店が定休日。別にサボっているわけではないのだ。


ただ、たまには、こんな日があってもいいと思う。


何か目的があるのもいいが、何も考えず、ただこうやって、思考を緩ませ、怠惰に身を任せるのも、悪くない。


「そういえばあれがあったな」


Sはそう言って立ち上がると、廊下を歩き台所へと向かった。


俺はSを見送りながら、再び庭先に視線を戻す。


──ピョン


ふと、縁側の下で何かが跳ねた。


視線を落とすと、またもや、


──ピョン


再び跳ねた何かは、今度は俺が腰掛ける縁側に上ってきた。


珍しい、雨蛙だ。


ころんとした喉元をコロコロさせながら


「ゲコ」


と、小さく一鳴き。


「雨蛙か、可愛いね」


いつの間に戻ったのか、Sが平皿を手にしてこっちを見ている。


「それは?」


俺が聞くと、Sは平皿を縁側に置いてそのまま自分も腰掛けた。


「この前Mさんがくれたやつだよ。茶請けにぴったりだなって思ってね」


Mさんは近隣に住む、農家を営んでいるおばさんだ。そういえばこの前、家で取れた野菜を漬けてみたのと言って、大根やキュウリの漬物を頂いたのを、俺は思い出した。


「ああなるほど、確かにこれは合いそうだ」


薄く変色した沢庵を一枚手に取ると、俺はそれをポリポリとかじりながら茶を啜った。


「うん、さすがMさん、良い味付けだね」


Sの声に、俺も賛同するように頷く。


「ゲコッ」


雨蛙が喉を鳴らした。


「君もそう思うかい?」


Sが雨蛙を覗き込みながら言う。


「いや、食べた事ないだろ」


思わず俺が言った時だった。


Sが縁側の下に視線を落として、何やら凝視している。


気になり俺も目をやると、そこには、


「蛇だ!」


思わず俺は声を上げた。


が、Sは動じもせず、


「見れば分かるさ。大丈夫、毒はないやつだよ」


Sはそう言うが、さすがに体長一メートル近くはありそうな蛇が、縁側の木柱を伝い上ってくる様子を、平然としながら見守る事はできない。


俺は直ぐに蛇との距離を取った。


「おいおい、そんなにビビらなくても、雨蛙君を見てごらんよ?」


「え?」


言われて雨蛙を見る、すると


「ぴ、ぴくりともしないね」


「だろ?蛇に睨まれた蛙、と言いたいとこだが、どうも蛇も蛙も、お互い眼中にないって感じだ」


そう言ってSはケラケラと笑って見せた。


確かに。Sの言うとおり、蛇は蛙には目もくれず、縁側に上ってきて、そのままとぐろ巻いたかと思うと、じっと庭先を見つめている。


対して蛙は、蛇に気付いていないかのように、相変わらず喉を鳴らして、


「ゲコッ」


と、まるでSに返事でも返しているかのようだった。


「こんな事ってあるんだな」


不思議に思いながら、俺は縁側に座りなおす。


「蛇も蛙も、雨宿りがしたかったんだろうさ」


Sはそう言って湯飲みを口に運ぶ。湯気がふわりと舞い上がり、雨粒の中に紛れ、消えていく。


俺とS、そして2匹?は、再び静まり返る縁側で、しとしとと降る雨空を眺める。


なんともおかしな光景だろうな、そう思った時だった。


背筋が急にひんやりとしだした。


肌がじわじわと粟立つような感じだ。


隣にいるSに目をやる。明らかに顔色がおかしい、何かに勘付いた様な顔をしている。


何だ?


注意深く辺りを見渡そうとした時だった。


Sの隣側に、何か違和感を感じた。


もう一度よく見る。


「あっ……」


思わず小さな声が漏れ出た。


分かった、違和感の正体が。雨だ、Sの隣だけ雨が降っていない。いや、正確には、部分的に雨が降っていない。


しかもその雨が降っていない箇所は、良く見ると、まるでそこにもう一人、人が座っているかのように形どっている。


透明人間、とでも言えばいいのだろうか?よく分からない何か、その何かが、Sの隣に息を潜め、いつの間にか座っているのだ。


直ぐにSの名を呼ぼうとした。が、Sはそんな俺の行動を察知するかのように、人差し指を口元に当て、ジェスチャーを返してきた。


それを見て、俺は浮かした腰を元に戻し、縁側に腰掛けなおす。


それでも目は離せない。


Sの肩越しにその何かに目をやる。


それは微かに動いていた。


体を小さく前後させ、ゆらゆらと体を動かしているようにも見える。


それを見て、俺はハッとした。


ふと、昔この家で見た光景が頭を過ぎる。


小学生だった俺、まだ現役だった頃の祖父さん、そして隣に住んでいた、祖父さんの友人でもあったKさん。


祖父さんとKさんは、よく今の俺とSのように、二人して縁側に腰掛けて、外を眺めていた。


小さい頃の俺は、そんな静けさが苦手で、直ぐに外に遊びに出かけてしまうのだが。


そう、あの時のkさんが、まさに今の様に、体を前後させ、ゆらゆらと小さく体を揺らせながら、縁側に腰掛けていたのだ。


「K……さん?」


思わず俺が声を掛けた時だった。


「止んだよ……」


Sがぽつりと言った。


言われるまま俺は空に視線を移した。


あれだけ降っていた雨粒が、今はどこにも見当たらない。


それどころか、鎌倉の町を覆っていた曇天の空には、雲の切れ間から光が差し込もうとしていた。


「あ、Kさん?」


直ぐに視線をSに戻した。が、Sの隣にはもう、誰もいなかった。


雨が降っていないから見えないではなく、確かにそこには、何の気配も感じられない。


「おや、彼らもいないようだね」


Sの言葉に、俺は思い出し辺りを見回した。


蛙と蛇もいない、いつの間に……。


「さてと、雨も上がったし、洗濯でもしようかな」


Sはそう言って大きく背伸びをする。俺はそんなSを見ながら、


「な、なあ、さっきのあれ、何だったと思う?」


と聞いてみた。


するとSはにこやかに笑って見せてこう言った。


「蛙も蛇も雨宿りするんだ……幽霊だって、雨宿りしたっていいだろ」


言われてから、俺の頭の中に、生前のkさんの柔和な笑みが浮かんだ。


「そう……だな」


Sに続き、俺も立ち上がると、その場から離れようとした。その時、ふと視界に映るものがあった。


庭を挟んだ向かい側の道路、そこを、紫陽花柄の傘が横切る。


傘を差した人物は、雨が止んだ事に気がついたのか、上空を見上げ、差していた傘を閉じた。


傘から出てきたのは、地元の女子高の制服を着た少女の姿。


その姿に、俺は見覚えがあった。


あれはそう、近くにある山の麓で行われた、幻のお祭り。真夜さんが招待してくれたあのお祭りに、真夜さんと同じ、リンドウの着物を着て、隣にいたあの少女。


「人間……だったのか?」


唖然とする俺の声に気がついたのか、少女はゆっくりと、こちら振り返った。

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