原作版 影狼の主

星野フレム

憂鬱の縁

 螺旋を描きながら回る振り子。それをただ、憂鬱な眼差しで見る青年。

「……」

 まだ、目が覚めていないような顔をして、その青年は振り子を見続ける。白銀の髪に黒い着物。背丈は、まあ、常人より高いほう。飽きる様子がないその青年は振り子を見続ける。そして、ふと、何かを思い出したかのように立ち上がる。

「――とーりゃんせ、とーりゃんせ」

 誰かの歌声が木霊した。

「今日は、退屈だな、妖怪さんよ」

「へぇ。キミヨリも退屈な時があるんだねぇー」

「ああ。退屈すぎてお前らの歌を聴いちまってる位だからな。面白いことも何もない」

 キミヨリと呼ばれた青年は、タバコを吸い始める。その後も続く歌声。彼は、少し変わった所に住んでいる。通称『黒の館』と呼ばれる場所。影の世界にのみ、その存在を許される館。しかし、彼だけは違った。影がない。彼には人の影がない。その影は、一匹の狼の様な影。少し変わった人物のキミヨリと呼ばれた青年は、黒い着物から、一通の手紙を取り出す。

「私の館は、今日も平和です。少々、お客が来ましたが。そちらはどうですか? ……ねぇ。つったく、何であいつの所には、こうも客が来るんだか。やっぱ、影の館なんて、普通誰も来ないよなぁ」

一息ため息を吐くと青年は館の奥へと歩みを進める。先程まで歌っていた妖怪と呼ばれた者達の声はどんどん遠ざかっていく。そして、聴こえなくなる。

 キミヨリは、ある一室へと足を運んでいた。黒の館の中心部。そこには、真っ黒な階段が、天井へと伸びていた。螺旋階段。彼は、その階段をゆっくりと上がってゆく。そのままずっと進んでいると、光が見える。この黒の館からの唯一の出口だった。そこは、現世へと繋ぐ階段だった。彼は、久々に現世に赴くことにしたのであった。自分の影を人間の影へと姿を変えると、もう階段の上部に着いていた。

「……久々の現世だねぇ。さてっと、この格好も古びてるからな。今風ってどんなやら」

 キミヨリは、瞼を閉じて詠唱する。その不思議な言葉で綴られた詠唱は言葉の渦となって、彼を包んだ。すると、彼の格好が、黒い着物姿から、革張りの洋服へと変わっていった。まあまあだな、と思いながら、キミヨリは暗い路地裏に開いた階段へ続く出口を閉じる。出口は、黒い影に侵食され、路地裏の一部と化する。

「これが今風ねぇ……。まあ、いっか」

 黒い革張りの服で、街へ続く道へと向かう。世界は秋一色に染まっていた。残暑も残る季節だが、夜になればそこそこ冷えた。キミヨリは、現世での友人の居る家へと足を運んでいた。街中に影が溢れている。しかし、どの影も一つとして同じ形をしてはいない。彼にはその様に見えるのだ。そして、これから向かう友人の家の住民は、それらとは一層異なる影を持っていた。

 路地裏から出て、街から徒歩十分。目的の場所に着いたキミヨリは、玄関のインターホンを鳴らす。普通のごく一般的な高い機械音が鳴ると、家の主は姿を表す。そして、彼を見て少し頬を染める。歳は、二十代前半の女性だった。彼を明らかに意識している。

「あーっと、あいつ居る?」

 キミヨリは面倒な顔をして、その女性に聞く。

「――あ! はい。正宗さんですね。呼んできます」

 ちょっと残念そうな顔をして、正宗という人物を呼びに行く女性。すると、家の奥から声が聴こえた。少し低めの男性の声だった。中に入れと言われたので、キミヨリは、ブーツを脱がないまま入る。

「うらぁっ! てめぇ、人様の家に土足で入るな!」

――ドッ、ドッ、ドッ――

 正宗と思われる顔が、一気に距離を詰めてキミヨリの顔の十センチ近くまで寄る。

「……いや、まあ。抑えてくれ。直ぐに脱ぐからさ」

「この銀髪野郎め。外国にでも行ってたのか? 四年も姿現さないなんてよぉ。なあ? 和葉(かずは)」

 和葉と呼ばれた先程の女性は、慌てた表情でその場を取り繕う。高山(たかやま)正宗(まさむね)。この家の主であり、和葉の兄である。そして、キミヨリは、いつもの言葉を耳にする。

「で? 公頼(きみより)。お前、いつ上の名前教えてくれるんだ? つぅか、お前には無いのか? 苗字って奴がよう。そもそも、一日帰ってこないと思ったら、それっきりで連絡よこさねぇとかよぉ。携帯は?」

「あー、上の名前ね。佐藤でいいよ、佐藤で。ケイタイ? 何だそれ?」

 彼の現世での名前。今は、佐藤公頼。前は、飯妻(いいづま)公頼。刻々と年間単位で変わる彼の苗字。元々、公頼には、キミヨリという名以外は、何も無い。それを何年も誤魔化してきていた。それに理由は無い。しかし、和葉が公頼を好いているのを気にした兄、正宗が。いつでも周りに紹介できるようにと、いつも聞いているのであった。しかし、公頼はいつも面倒くさそうにはぐらかす。それが日常となっている今は、もう正宗も観念していたのだった。それでもいつもの日課のように聞いている。

「……お前なぁ。前は、確か米田(よねだ)とか言ってたよなぁ? ころころ変わりやがって!」

「まあ、そう言うなよ。友人の好(よしみ)として気を使ってくれてるのは解るんだが。言えないものは言えないんだしさぁ。大体、今日でここ来るの、もう十五年目だけど、お前ら変わってないのと同じだよ。俺も何らかわらねぇって訳で、今日のご飯宜しくー」

「何を食べますか! 何でも作ります!」

 正宗と公頼の会話の中を。すり抜けるようにして和葉の声が聴こえる。公頼は、ナイス。と、ジェスチャーすると、食べたい物の名を口にする。

「特盛豚丼一丁頼むわぁ」

「はい!」

 高山家の台所へ小走りに走ってゆく和葉。それを観ていた公頼が言う。

「なあ、正宗。何で、あの子俺が来るとあんなに喜ぶんだ? 俺の何処がいいんだか知らないけどさぁ。ぶっちゃけ、ああも尽くされるとこっちも困るんだよなぁ」

 正宗は、何を言い出すかと思えばという顔をして、公頼に言う。

「お前もいい加減往生しろってことだよ」

「はぁ……」

 深いため息を一つついたその時、公頼の影が一瞬揺らぐ。何かが近付いてきている。気配はどんどん大きくなり、高山家の玄関前に、その気配を置いていた。その何かに気が付いた正宗は、和葉を台所から離れさせる。この高山家の玄関前の主。それは高山家の天敵とも言える、影狩りの者達の気配だった。

 高山家の二人の兄妹は、一度。公頼に命を救われた事があった。しかし、その時に逃した影狩りの者が何故かいつも公頼が現世に来たときだけ高山家の玄関前に忽然と現れるのであった。公頼は、それをいつも追い払っていた。

 公頼が玄関を勢い良く開けると、鋭い殺気が向けられる。

「影狩りは大概にしろや。こちとら飯の前で機嫌良かったのによぅ」

「……」

「お前らは喋れないからなぁ。まあいい。特盛豚丼の為に、散れ!」

 玄関をかかとで蹴って閉めると。公頼は、影狩りの人影に一瞬で間を縮めて、詠唱する。

「この世の理、守らば。我、怒りと共に其の方を消さん! 破滅せよ!」

 早口での詠唱が終わった瞬間公頼の右腕が黒い炎のような影をまとう。

「いい加減終わりだ! もう腹減ってんだよ!」

 影狩りの人影は公頼の放つ素早い突きを避けられずそのまま攻撃をまともに食らう。

「ちっ!」

 しかし、手ごたえが確かにあったと思われた影狩りの者は、攻撃が当たったと思った瞬間。公頼の背後に回っていた。公頼が気付く反応速度と同じ速さで、影狩りの人影は、高山家の玄関前に突撃する。――しかし

「お生憎様。玄関からもどっからも入れねぇようにしといたから、往生しろや!」

 公頼の右手から、放たれた蠢(うごめ)く影が、影狩りの者の左腕に迫ると鋭い切れ目が入る。影狩りの者は、声にならない悲鳴を上げる。元より動作だけだった。そして、次々と切れ目の入っていく影狩りの人影は、完全にその姿を無くした。すると、影狩りの者から、何かが飛んでいった。紙切れのように見えるそれは、影狩りの人影の本体。陰陽道で言う所の式神だった。飛んでゆくその式神目掛けて、黒い矢のようなものが、その紙を貫き、紙は黒い影に侵食され、燃え散るよう消えた。

「……つったく。まあ、もうこねぇだろうが、同業者じゃ無さそうだな」

 公頼の影は、戦いの間。狼の影の状態だったが、直ぐに人の形に戻る。

 二人の兄妹が狙われるのは、理由がある。この世でも稀な、異種の影。つまり、公頼と同じく。人の形をとっていない影だからだった。正宗は大鷲(おおわし)、和葉は子猫の影を持っている。勿論通常の人間では、それがそういう風には見えないので、普通に暮らしてきているが、この兄妹は歳を一定の年齢まで行くと取らなくなっていた。周りからは不気味がられていたが、その二人の事情を嗅ぎ付けた者により、ずっと影を狙われる羽目になっていた。

 『影狩り』。人間の影を狩ることを習わしとした、厄介な術者達のことであり、その中には陰陽道を応用した術を使う者もいた。そういう者達の狙いは、特殊な影を集め、その影を自分の影に取り込むことで、大きな力を得ようとする事だった。そんな連中に高山兄妹が狙われるようになったのは、丁度十五年前。公頼が現世にたまたま居たその日公頼が妙な気配を感じて向かったその先で、影狩りの者達に襲われようとしていた兄妹を助け、彼らの住む一軒家に結界を張っていったのであった。

 影は、大きな力を秘めている。通常の人間の影にも逸材と呼ばれるほどの影が存在する。人間が何気なく影を合わせながら生きているのは、実は色々な因果を含めている。影を合わせるということは、つまり共有すること。触れるということは、その者の記憶を知らずに吸収してしまうこと。それによって、知らない知識をいつの間にか覚えていたりする。

「もういいぞぉ」

 公頼は、玄関を開け、家の奥にいる二人に声を掛ける。二人の影は怯えていたのか。未だ震えていたが、公頼の声と姿を見て二人の心が安心すると、震えが収まっていた。今までの分は、全て倒したと言うと、二人は安堵の息を漏らす。

「…・・・もう来ないんだよな?」

 正宗は、公頼に確認する。得体のしれない者達に狙われ続けられたせいか、その言葉には、まだ安堵はなかった。再び、あのような者達に遭遇しないかと思うと、まだ恐怖がある。そんな正宗に公頼は、もう心配しなくていいように術者の事について教える。

「あいつらは、式神だ。術者本人の影を少し利用して作る訳だが、リスクがある。まあ、自分の影を消耗するんだから、自分の寿命も消耗しちまう。そんな事を何回も続けるほど、向こうさんも馬鹿じゃないだろう。そろそろ学習してると思うぜ? 安心しろ」

 それに、影を奪うという事は、その奪った持ち主を殺す事にもなる。式神を使えば確かに通常は足がつかないが、もしこれが警察も関われることだったら、大事になっているだろう。

「そうか、そうだな」

「さぁて、特盛豚丼だな、特盛豚丼!」

公頼の言葉に、正宗と和葉は普段の自分をを取り戻したようだった。

その後。公頼は和葉の料理した、特盛豚丼を食べる。和葉は輝く瞳で、公頼を見つめる。

「こらこら和葉。そんなに見つめられたら公頼が食べにくいだろう」

 いつもの言葉が聞きたいのだろう。そう思って、正宗の言葉の後に公頼が続く。

「ああ、美味いよ。前連れて行ってもらった牛丼屋よりも美味いよ。一級品だ、ありがとうな」

 さっきまでの影狩り者達の事をすっかりと忘れて、和葉は頬を染める。そして、そそくさと正宗の背後からじーっと見つめる。正宗は、妹のどうしようもないほどの行動ぶりに、少し呆れる。確かに四年越しで会えた王子様みたいなものだから、公頼が輝いて見えるのだろう。そして、自分の料理を褒めてもらえたのも嬉しいし、食べてくれるというだけでも。和葉にとっては嬉しい事。しかし、奥手なのか。いつも正宗の背中に隠れる癖が付いていた。料理は得意な美人で、髪も長めの女の子だが、彼女の年齢は二十歳で止まっている。同じく正宗も二十歳で止まっている。特殊な影の持ち主達は、能力があるなしの有無を問わず、年齢が一定に来ると止まってしまう。それが原因で、高山家兄妹は、親とは遠に死別している。兄妹の両親は至って普通の人間だった。両親が亡くなったのは、正宗が十六歳の頃だった。そして、和葉はまだ十歳の頃。世間的には事故死とされているが、実際は影狩りの者による、事故を装った殺害だった。その事を二人とも覚えている。特に幼かった和葉には、今でもトラウマの出来事だった。家族四人で車に乗って旅行に行っていた時、急に車の前面が真っ暗になり、そのまま大型トラックに衝突。兄妹はなんとか助かったものの、両親は即死だった。正宗は、その事を遠い過去の出来事だと割り切っているが、決して表に出さない怒りがあった。自分達の両親を死に追いやった者が、自分達の影を狙っていたのだと公頼に聞かされた時。正宗は怒り狂い家中にある物に八つ当たりした。和葉は泣きじゃくるばかりだった。そして、現在。兄妹は、公頼という、同類であり、唯一影を操る存在と知り合ってから、幾分マシな生活を送れていた。それがまた、いきなりの襲撃。公頼が現世に現れるのを狙ったように現れた。おかしな話だと、正宗は公頼に一度聞いたことがあった。その頃返ってきた答えは、公頼自身の影の存在の力が強いから共鳴するように現れたのだろう。ということだった。正宗の背中に隠れた和葉が、公頼に話しかける。

「あの――もしも、またあの化け物が現れたら、退治してくれますか? 私、公頼さんの好きな料理なら沢山作れるようになりました。だから、一生守ってくれませんか?」

 公頼は、特盛豚丼を食べながら、その言葉を聞いてむせかえる。

「……ま、まあ。一生守るっていうか、もう現れねぇよ。式神五体に自分の影の力を使ったんだから、相手もそう寿命が長くないと思うからな。大丈夫さ。無茶はしてこないだろう」

 つっても、今日倒した奴は格上だったけどな。と思いながら、食べ終わった公頼は、用心の為に。二人に護身用の術符を渡した。それを持っていれば、もう今後狙われることはまず無いと言うと、公頼は、和葉に礼を言う。そして、高山家を後にした。そういえばケイタイとかいう奴があるのを正宗に言われていたが、生憎身分証明も何もない公頼にとっては、持てない代物だった。一人で、まあいっか。と、納得しておいて、そのまま街外れまで歩いていた。戦いの中。公頼は、影狩りの者の居場所をあの人影の核から読み取っていた。最後に、力の強い式神であったモノを燃やした時。大体の術者の位置を特定していた。彼にとっては、影は操る為にもあり、情報を知る為の存在でもある。故に特定は簡単に出来た。それが彼の当たり前の能力であった。狼の影を持つ彼は、名の知れた時には、裏世間から影(かげ)狼(ろう)の主(あるじ)と言われていた。勿論、彼自身の影も狙われた事が何回もあった。しかし、全て撃退してきた為に、彼を狙う者達は、段々彼を恐れていった。その為、直接会うことを避けていた。しかし、今回は公頼が現世に来た時を狙って現れている。それに不信感を持つ公頼は、どうしても調べたくなった。それだけ上等な作り方をした式神だったから。だから彼は、その影狩りの主の元へと向かっていた。道は意外にも一本道だった。高山家から、三十分程歩いた所に、古い神社がそびえ立っていた。明らかに古めかしい、その外装を神社の階段下から見上げ、何の結界も張られていない、その境内へと辿り着く。そして、古い障子を勢いよく蹴り飛ばす。その境内の中に居たのは、一人の人間の女性だった。元より、妖怪などは現世には存在しないが、灯りのあるその境内の中。女性の影が揺らめくと、それは、蜘蛛の形をしていた。公頼は、女性がこちらに敵意を向けている事を察知したが、軽く挨拶を始める。自分は、影狩りの者から警戒されている、公頼という者だと。それを聞いた女性は、一瞬たじろぐ。そして、命乞いを始めた。

「……ほんの出来心よ! 解るでしょ? 貴方も捕食する側の影の持ち主でしょ?」

 公頼は、そんな事はどうでもいいと言い放つ。そして、彼女に向ってこう言う。

「捕食だか何だか知らねぇけどさ。相手は人間だって解ってるよな? アンタも形は人間だ。今までそんな理由で食ってきたのか? 命のある存在を」

 公頼の厳しい目線に耐えられなくなった彼女は、とうとう泣き崩れる。それから散々理由を聞いた。自分のこの影が忌まわしくて仕方なかった。しかし、気が付けば、他人の影を捕食していた事。そんな長々しい言い訳に付き合ってやっている公頼は、欠伸をする。くだらない。そんな理由で、人が人の持つ影を捕食するなんて、本能染みた話などに興味は無かった。寧ろ、興味があったのは、彼女を囲む結界陣だった。迂闊に入ろうとすれば、自分の影を食われるも同然。彼女の影は蜘蛛。それ故に、網を張っているのと同じ。だから、そこに近付けばまんまと彼女の意のままになる。それらを全て考えた上で。公頼は、また言葉を放つ。

「あのさぁ、もういい加減に芝居するの辞めろよ。もう大体解ってんだよな。その結界陣に触れたらさぁ。俺でも捕まえられるようにしてるんでしょ? まあ、そんなもん。この文様の形で解るけどな。どう考えても、これから捕食しますよって感じなんだよな。違うか? 余力あるんだろ?」

 女性は、さっきまで流していた涙を止め、忌々しく公頼の影を見る。結界を解けば、真っ先に食われるのは自分のほうだ。そう思っていたから。しかし、確かに公頼に言われた通り。余力はまだある。気付かれまいと思い、罠を張っていたが、直ぐに見破られていたのは、計算外だった。女性は、顔を怪しい笑い顔にして、公頼に強気の声で言い放つ。

「はんっ! 威勢のいい男だねぇ。そうだよ、お前を絡め捕るくらいの余力はあるさ。でもねぇ? 入れないんだろう? この結界にさ。アッハッハッハッハッハッ! 流石の影狼の主でも手が出せない。実に滑稽だよ! そうさ、芝居だよ。お前を誘き寄せる為のな!」

 そう女性が言い放った瞬間。女性の蜘蛛の影が大きく変容する。結界陣に描かれていた文字さえも全てその影で飲み込み。公頼に襲い掛かる。――しかし。公頼の影が、一瞬動いたと思うと、その影から、狼の影が具現化する。公頼は、低い声で言い放つ。

「狼の声を聴け」

 女性は、何が起こっているのか、理解不能だった。公頼の影が具現化した途端。狼の吠える声が聴こえたと同時に、建物の敷地から飛び出る程の大きな漆黒を炎の様な揺らぎを纏う狼の姿が現れる。それを見た女性は、狼と目を合わせてしまう。すると、狼は女性の蜘蛛の影を食ってしまった。暴れる蜘蛛の影を貪る狼。程なくして、女性の蜘蛛の影は狼の胃袋へと収まってしまった。女性は震える。影が無くなった自分がどうなるかを知っていたから。女性は、今度こそ本当の命乞いをする。しかし、先程居たはずの公頼も狼も居なくなっていた。……これから自分は死ぬのだ。考えるだけでも恐ろしかった。影が無くなってから次第に女性の体が、まるで粒子分解の様に無くなっていった。……数分後。完全に女性は、現世から消えていた。その頃、公頼は自分の館へと通じる裏路地を歩いていた。くだらない。本当にくだらない。人間は、自分の欲求を満たす為には、他者も平気で殺せるのだと思うと、彼の影はざわつく。先程の狼の影が、公頼に擦り寄るように、また具現化していた。気にするな。とでも言いたいのだろう。公頼は、行きに開いた館への空間を開け、階段を降りていく。一歩一歩、ゆっくりと進んでいく。公頼が現世で着ていた服は、再び黒の着物姿へと戻っていった。それに気が付く公頼。ああ、結構気に入ってたんだけどな。と言うと、彼は、影の世界のキミヨリへと、思考を切り替えていた。面倒なのは、これからだからだった。まず、現世で自分の影を失った者達は、キミヨリの館に現れるようになっていた。仕組みは誰が考えたのかは、キミヨリ自身も余り覚えていない。ただ、覚えていることは、この館を継いだことだけだった。今のキミヨリにとって、その過去の記憶はさほど関係ない。今は、とにかく。現世落ちしたあの蜘蛛の影を持っていた女性が困惑しているであろう、自分の館へと足を進めるだけ。途中、悲鳴が聴こえた。聞き覚えのある声。どうやら、初めて来た場所を、死後の世界と勘違いしているらしい。キミヨリは、やれやれと首を横に振ると。少し駆け足で階段を降りて行った。――その頃。噂で聞いていた黒の館で。先程、現世で戦いを挑んで負けた女性が、館の中を走り回っていた。現世の人間が普通に観れば、ただ悲鳴を上げて走っているだけの頭のおかしな者として捉えるだろう。しかし、女性が観ているそれは、黒く蠢く主を失った、あの蜘蛛の影だった。蜘蛛の影が最初、女性に接触する前。彼女は、自分が死んだのだと思い込み、深く落ち込んで涙を流すばかりだった。次第に、キミヨリが聴いていた歌が聴こえてくる。そして、その歌が急に止んだかと思うと、何かの生き物が近寄ってくる音がした。段々近くなるその音は、やがて。彼女の前へと姿を現す。見た瞬間自分の影だと気付いた女性は安心していたが、それが恐怖の顔に変わるのは、数秒も経っていなかった。蜘蛛の影が、彼女に糸を吹きかける。瞬間、ある書物で読んだ事を思い出す。一度自分自身の影を失えば、その身は冥府の館へと移動し、その身に宿していた力も全て無くし。自分の影に食われて、取って代わられてしまう。瞬時の判断が正しかった彼女は、素早くその場から逃れる。しかし、蜘蛛の影は、彼女を追いかける。そして、この自分の居る館には、灯りはあっても、何処が出口なのかすら解らない程、だだっ広い場所だった。逃げ回る女性の体力が、そろそろ尽きかけた頃。キミヨリが階段から降りてきていた。その姿を発見した彼女は、助けて貰おうと残りの力を振り絞って走った。しかし、途中で体制を崩し、地面に伏してしまう。そこに蜘蛛の影が隙を狙た糸を放つ。しかしその糸は、彼女に届くことも無く、その場で燃え散る様に消えてしまう。蜘蛛は、静止した。動かなくなった蜘蛛の複数の目には、キミヨリの姿が映し出されていた。一度自分を食った相手。蜘蛛は、静かに後ずさろうとしたが、動けない。いつの間にか、影で出来た黒い牢獄に閉じ込められていた。蜘蛛は焦って全ての足を手繰(たぐ)らせるが、出ることができない。身を当てて黒い牢獄がら出ようとすれば、どんどん狭くなっていく。さらにキミヨリが詠唱を始める。女性は、助かったと思ったが、直ぐにその場から立ち去ろうとしていた。そんな彼女に詠唱が終わり、キミヨリが言った。

「逃げるんじゃねぇよ。手前でしてきた事のほうが、よっぽど黒いじゃねぇか。なあ? 解るだろ。アンタは、自分が死んだと思ってるだろうが。……生憎だが、ここはそういう所じゃねぇよ。寧ろ、もっと苦しむかもしれない場所だよ……。良かったなぁ? これで、罪滅ぼしができるだろうよ」

 女性は、キミヨリの言った言葉を理解する前に、目の前の状況に戸惑(とまど)っていた。蜘蛛が、黒い牢獄の中でもがいていたと思っていたら、キミヨリの手の中。小さな粒となっていた。こんな能力者の影を狙っていたかと思うと、後悔の渦で頭が回らなくなっていた。そんな彼女にキミヨリは言う。

「影の館へようこそ。大した美人だなぁ。今まで若さを維持するために。何人食った? 十か? 二十か? いや、もっとだな。アンタの影は、本当に味をしめている。こりゃ、アンタ自身が狙われても必然だな。まあ、今じゃもうこの通りだけどな」

 公頼は、小さな黒掛かった透明な球の中。動く蜘蛛を彼女に見せる。

「ひっ!」

 彼女は条件反射の様にその場から逃げ出そうとするが、体が動かない。キミヨリは黒い笑みを浮かべる。そして、こう言った。もう一度チャンスをやる、と。何を言われているのか解らないという表情を浮かべる彼女にキミヨリは近付く。逃げようとするが、体が動かない。キミヨリは、黒い球を彼女の目元に持っていく。そして、額(ひたい)に球を持っていく。その球は彼女の頭の中に吸い込まれた。その吸い込まれる間。彼女は、自分が今まで狩ってきた者達の絶命の残像を観ていた。苦しいと言いながら死んでいく。それに対し、そこに映る彼女は、次々と、体が消滅する前の被害者達の心臓を。よく切れそうな包丁で刺していた。現世に戻ってきて、自分のやっている事をバラされるのを防ぐ為だった。その結果。キミヨリの元へと影の主達は来ず、そのまま消えてしまったのだった。生きている者達は、消えればそれで終わってしまう。そして、生きる事への執着が強かった者達は、この影の館で妖怪という存在になって生きていた。彼女の殺した人々は、全て怨念と困惑の中で死んでいった。その光景を目の当たりにした彼女は、自分がどれだけ醜悪な悪女であったかを思う。そして、狂ったように顔を引きつらせて笑っていた。もはや、意識を保っているので精一杯。そんな彼女を見ながら。キミヨリは哀れな者の末路を教えていた。

「妖怪と呼ばれる者達の多くは、アンタみたいな奴に殺されて、この館の外で生きてる。まあ、本当。最近多いなって思ったんだよなぁ。妖怪の数。それからさぁ。アンタには、これからこの館の外に出て貰うことになるんだわ。んでまぁ、現世で言われてる怨霊とかいう状態になっちまった奴らに好き勝手される訳だ。どんな欲望持ってる奴らが居るか知らねぇけど、美人だからなぁ。まあ、精々大人のオモチャにでもされるのが落ちかと思うんだ。ここの連中は無差別だからさぁ」

 女性は、妖怪と聞いて身を縮みあげた。キミヨリの言っている事は、冗談だ。しかし、彼女にとっては、自分の今まで殺してきた者達からの報復を受けてしまうのが、今。どれだけ大変な事なのかを思っていた。大人のオモチャにされる位ならまだマシだ。それよりも自分を殺そうとしてくる奴らのほうが圧倒的に多いだろうと、彼女は、正常では無いながらも判断していた。

「……殺される!」

 そう言って、キミヨリに命乞いをしようとした瞬間。彼女の観ていた景色が変わる。その景色には、自分が殺してきた者達の顔をした、キミヨリの言っていた妖怪と化した者達が、蠢くように周りを囲んでいた。女性は、影の力に頼ろうとするが、その力は、既にあの時封じられていた。妖怪達は、彼女に気付くと、我先にと彼女へ群がる。

「上等な奴じゃねぇか。……あれ? お前、何処かで会わなかったか?」

 彼女は、首を横に振ったが、妖怪達は、生きていた頃を思い出した。自分達は、この女に殺されたのだと、口々に言いだす元人間達。そして、恨みを晴らさんと彼女へ手を掛けようとするが、すり抜けた。妖怪達は口々に言った。自分達は、もう生きている者達に触れられないと。恐怖で声も出なかった彼女が笑う。妖怪達の大半が彼女へ哀れみの目線を送る。

「……ハッハッハッハッハッハッ! ハッハッハッハッハッハッ! アーハッハッハッハッハッハ!」

 すると、彼女の居た空間が揺らぎ、現世に戻っていた。しかし、戻った彼女は、この後。何も無かった様に、自分の元居た境内から出て行き、全ての記憶を失ってしまっている事に気付くが、その頃には、人としての生を終えていた。キミヨリが封じたのは、彼女の今までの記憶を司る影。その影が常人の様にしか機能しなくなるという事は、彼女にとっては、自分がどうして生きているのかさえも解らなくなるというという事だった。罪の意識に溺れて自殺されても気分が悪い。ただ、それだけの理由で、キミヨリは、彼女の記憶を封じていただけだった。家族の事さえ覚えていない彼女を。大半の者達が哀れんでいた。こうして、年月は経ち。再びキミヨリは退屈な日々を送っていた。すると、ある日。一匹の小さな蜘蛛がキミヨリの足元を通り過ぎて行った。ああ、死んだのか。キミヨリはそれだけ思うと、暫し眠りにつく。夢の中で、何かに悲しむ者が居た。多分あれは……。キミヨリは、そこまで考えると思考と停止して、本格的に眠った。今度は、夢を見なかった。起きた頃には、現世で数十年の月日が流れていた。また、現世へ行ってみるか。そう思ったキミヨリは、再び高山兄妹の家へと向かうのだった。そして、いつも通りの言葉を正宗に浴びせられる。

「お前な! 二十年も何所行ってたんだ!」

「ああ、悪い悪い。寝てたんだよ」

 片耳を塞ぎながら、姿勢を低くして正宗の怒声を聴く公頼。

「寝てた? お前の眠りは、何年掛かるんだ? 冬眠に近いじゃねぇか!」

「解ったから、んなに声あげるなよ。色々あるんだよ、色々」

「またそれか! ああ、話にならん。和葉、この馬鹿にさっさと何食べたいか聞いとけ」

 いつも通りだ。和葉はそう思った。こんな日常が毎日続く。それでも、結構楽しいのかな。そんな事を思いながら、兄をなだめ。和葉は料理を作るのだった。こんな日が毎日続けば、さぞこの家も賑やかだろう。普段。正宗と和葉は、兄妹だが余り言葉を交わさない。話をする事は嫌いじゃない。それでも、何故か自分達だけでは、話し辛い。だから、公頼がこの高山家に来てくれるのは、嬉しい事でもあり、兄妹が何かを話す切っ掛けでもあった。公頼は、そんな事を解りつつ二人に接している。それが、この兄妹に少しでも人間らしい生活をさせる事なのだから。


 終

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