猫なんだから、放っておいて

てめえ

第1話 絶望の向こう側にあること

 下を見ると、目がくらむ。

 元々、俺は高いところが苦手だから、そこから飛び降りることを何度も逡巡していた。


 柵を乗り越えようと試みる度に、足が震えた。

 何度も、

「死ぬ以外に、何とかする方法があるはず」

と、思いも巡らした。


 しかし、何度同じことを考えても、結論は同じだった。


 死……。

 それしか、俺に残された選択はない。





 俺は、それほど怠惰でもなければ、根性無しでもない。

 だから、一流とは呼べないまでも、二流の上くらいの大学には入ったし、地元のそこそこ大きい企業にも就職出来た。


 だが、俺は何処に行ってもいじめられた。

 小中高と、不良グループのパシリだったし、大学では、理不尽な無視をされた。


 パシリのときは、毎日、上履きに画鋲が入っていた。

 机の中には使用済みの臭った雑巾が入れられ、一日でも学校を休むと、席には花瓶が置かれた。

 教科書も、何度なくなって、新たに買ったか知れない。

 もちろん、不良達の暴力などは、数え切れないほど受けた。


 誰が……、と言うこともなく、クラスの全員が、何となく俺を排除していた。

 排除することは常態化し、抗っても無駄だと分かった俺は、下を向いて耐えた。

「いつか、こんな処からおさらばしてやる……」

と、呟きながら。


 大学に入ると、地元を離れたせいか、一時はいじめられなくなった。

 人生で初めて、親友と呼べる存在も出来たし……。


 しかし、それもつかの間だった。

 今度は新しい種類のいじめがやってきたのだ。

 それが、無視だった。


 教授や講師にも、ゼミの中にも、話し相手はいなかった。

 サークルにも入ったが、何故か俺はつまはじきだった。

 俺が何か言ったわけでもないのに……。

 そして、その内、親友だと思った男も、俺から離れて行った。

 俺は、学内で誰とも話すことがなくなった。


 学生時代のいじめは、どれも理由が分からない。

 直接いじめた奴は、むかつく……、うぜえ……、と言っていたけれど……。


 社会人になると、理由のハッキリしたいじめが俺を襲った。

 いわゆる、パワハラってやつだ。


 直属の上司であった課長は、俺に様々な不正を強要した。

 伝票の誤魔化しから、セクハラの手伝いまで……。


 しかし、いずれも断った。

 俺は他人に後ろ指を指されることは、今まで、一度もしたことがないから。

 どんなにいじめられても、俺は卑怯な人間にはなりたくなかった。


 結果……。

 俺は、入社一年にして、地方の営業所に飛ばされた。

 営業所には、パートのおばちゃん以外には俺一人……。

 間違いなく、島流しだった。


 それでも、俺は耐えた。

 パートのおばちゃんとは気が合ったし、不正に手を染めるよりマシだから。

 俺にとっては、金や出世より、安らぎの方が大事だし。

 だから、このまま一生営業所で人生を終えても良いと思っていた。


 営業所に移動になり、数ヶ月経った頃、俺はお見合いをした。

 両親に強く勧められたからだ。


 相手の女性は、早苗と言って、美人ではないが、真面目で清楚であった。

 早苗が笑うと、俺の胸はキュンと音を立て、好きなことを実感した。

 結婚なんて考えたこともなかったが、早苗との出逢いは、俺に希望を与えた。


 その希望も、先ほど潰えた。

 早苗に、別れを告げられたからだ。


 別れの理由は、俺がバスの中で痴漢をしたとして、警察に連れて行かれたからだ。


 俺は、二十日間拘留されたが、頑として無罪を訴えた。

 当然だろう……。

 俺はやっていないのだから……。

 大体、スマホを弄っていた俺が、痴漢なんかするはずがない。


 しかし、拘留されたことが原因で、会社はクビになった。

 両親にも、疑いの目で看られた。

 そして、今日、早苗も俺に別れを告げた。





 辺りは真っ暗だ。

 当然か……、もう、真夜中もいいところなのだから。


 街の明かりもわずかしか点いていず、通りには車もまばらだ。

 マンションの屋上には、そのわずかな光さえもとどかず、俺は闇に包まれている。


「義彦さん……。私、あなたはそう言うことだけはしない人だと思っていたわ」

つい数時間前に、早苗から言われたセリフが、耳にこびり付いて離れない。


 取り調べをした警察官が言うように、俺はすんなりやったと言って、会社にも、早苗にも知られなければ良かったのだろうか?


 不意に涙が出た。

 悔しいからか……。

 それとも、虚しいからか……。

 目の前の柵が、涙で歪んで見える。


 だが、泣いてみたって何も変わらない。

 俺は、唯一の希望さえも、失ってしまったのだから……。


 掌で涙を拭う。

 もう、いいだろう……。

 これ以上逡巡しても、同じ事の繰り返しだ。


 今度こそ柵を越えて……。

 そう思ったとき、俺は異変に気付いた。

 さ、柵が歪んでいる。

 涙のせいではなく、俺の目前にある柵だけが、円形状に一メートルほど、飴細工のようにグニャグニャになっている。


 俺は、呆然と歪みきった柵を見つめていた。

 どうも、徐々に歪みが大きくなっているようだ。


 歪みは、みるみるうちに俺の視界を占領した。

 柵だけでなく、柵の後ろに見えるビルも歪んでいる。


「ピシッ……」

金属が折れるような音が、響きわたる。

 音がした瞬間、歪みの中に、一条の光の筋が出来る。

 光の筋は縦に拡がり、拡がった部分から鮮やかな銀色の光がもれた。


「な、何だ?」

突如起った現象に、俺は目を見張る。


 銀色の光は、輝きを増し、徐々に俺の方にせり出してくる。

 あ、もう、手を伸ばせば届きそうだ。

 得体の知れないものなのに、俺は銀色の光に触れてみたい衝動に駆られた。


 そっと、手を出す……。

 銀色の光は、俺の手を迎え入れるかのように、近づいてくる。


「うっ?!」

銀色の光に触れた瞬間、俺は触れた部分から、身体ごと光に吸い込まれた。

 目の前が銀色に染まる……。


 そして、俺は意識を失った。

 最後に、銀色に染まった視界の端に、闇の中に手を差し出した格好で立ちすくむ俺を見たような気がするが……。

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