ポンピング・メイデン

規村規子

第1話 起

 昨晩は豪雨だったが、僕にはあまり関係のないことだ。

 コンビニの自動ドアが開いた瞬間、湿った向かい風にガソリンの匂いが混じる。

 いつもの河川敷かせんしき斜面しゃめんに乱暴に腰を下ろし、先ほど購入したコーヒー牛乳パックの注ぎ口を開ける。上空を通過していく耳ざわりな飛行機の音に、眉をひそめた。


 些細ささいな事に苛立つようになったのは、いつからだっけ。

 最後に必死で解答欄を埋めたのは、いつだったっけ。

 大学受験なんてまだ先の事にしか思えない高二の夏。学校、行きたくないからサボった。どうせ周りに合わせて筆記用具の音を立てるフリしかしない。そんなの、真剣に取り組んでいる奴らに申し訳ないだろう(なんてね)。

 あぁ、そういえば今週中に先生と母さんが話し合いするんだっけ。


「そしたら僕、どうなるんだろうなぁ」


 誰に言うともなくつぶやいた。今この風景を、ひとりぼっちで見ている。

 すると今日一日の終わりを告げるかのように、斜陽しゃようで色づいた歩道を学生たちが埋め始めた。僕は立ち上がって芝生を駆けがると、制服のポケットに手を突っ込み、何事もなかったかのようにまぎれて歩く。


 家に帰りついた頃には、辺りは随分と暗くなっていた。人の気配のする居間を足早に横切ろうとすると、待ち構えていたかのように母親が顔を見せた。


「おかえり、じゅん


 僕は避けるように顔をそむけ、自室に繋がる階段を駆けがり部屋へ逃げ込んだ。真っ暗な部屋には重たい空気が居座っていた。引かれたままのカーテン、かれたままの布団、今朝残していったままの空間。いつも明かりがついているのは両側の住人。

 特にする事もないので、布団の上へ横たわる。身体をずるずると上へすべらせ、枕に頭を落とすと手足をちぢめた。僕を無言で受け入れてくれる唯一の場所だ。今日もこのまま目を閉じて、優しくて都合の良い泥の中に自ら沈み込んでいくのだ。夢の世界はいつでも自由に満ちていた。毎日似たような結末を望んだ世界。毎日、毎日――――――







「いいかげん起きろ! 野良純のらじゅん!」

「ってぁ!?」


 突然脳天を叩き割られたような衝撃が走り、目が覚めた。身体を起こした直後に、突き抜けるような痛みが襲う。自分が今どこにいるのか一瞬分からなくなったが、制服を着たまま寝具しんぐもかけずに眠ってしまった事を思い出した。


「ようやくお目覚めのようね」


 誰かいる。薄暗い部屋の中、心臓が静かに早鐘はやがねを打ち鳴らし始めた。枕元に置いたはずのスマートフォンを手探りで見つけ、声のした方へおそるおそる液晶画面を向けた。


「……っ!」


 画面の白い光に照らし出されたものを見て、はっと息を呑んだ。丸みを帯びた大きな顔と、猛獣のようなギラリとした目つき。そのあまりの迫力に圧倒され、持っていたスマートフォンを一瞬落としそうになる。声ひとつ身じろぎひとつできないでいると、それは部屋の壁まで移動し背中をもたせ掛けた。毒々しいピンク色の、まるで戦隊物のようなコスチュームを身にまとっている。気のせいか、今にもはち切れんばかりにふくれ上がっているような。


「だらしない口。よだれを垂らすほど、イイ夢だったみたいね」


 口のはしから線を引いているのは気づいていたが、ぬぐう余裕などなかった。これから起こりうる最悪の事態を覚悟していると、ふとその声の高さに気づく。


「おんな、のこ?」


 今度は狙いをさだめて照らしてみる。小柄ながらもふくよかな、いや、だいぶどっしりとした少女の姿が明らかになった。


「おいこら! 誰がデブよこらぁ!」


 少女は殴りつけるように怒鳴ると、スカートの下から覗かせていた丸太のような足を踏み鳴らす。


「そもそも! アタシは! アンタのせいで!」

「ちょ、ちょっと落ち着いて。床が抜けちゃうよ」

「だから誰がデブよ!」


 こちらをにらえたまま、どすんと一層大きな音を立てた。天井からぱらりと木屑きくずが落ちる。外見もあいまって威圧感はかなりのものだったが、相手が年端としはも行かない子供だと分かると少し安堵あんどした。いや、油断は禁物だが。


「あのさ、僕のせいってどういうこと?」


 全く身に覚えがないのだ。僕には兄弟もいないし、小中学生くらいの女の子と知り合う機会もない。


「ま、知らなくて当然だから教えてあげる」


 少女はその場で片足をじくにくるんと回ると、戦隊物さながらの決めポーズを取った。


きらめくエナジーは明日への希望! 活力の乙女、ポンピング・メイデン!」


 いかにも相手の反論を許さぬといった響きでぴしっと言い切り、「決まった……」と鼻をふくらませながら、得意気な表情を見せた。開いた口がふさがらないとは、きっと今の僕みたいな状態のことだろう。


「アンタたち人間の夢を食べて生きる、そうね、神ってとこかしら」

「夢を……バクみたいなものってこと?」

「はんっ、あんなデブと一緒にしないでくれる」


 きみがそれを言うのか、と言葉にすると身もふたもなくなりそうなので飲み込んだ。

 何の前触れもなく突然やって来たこの少女は、自称、夢を食べる神様だそうだ。何がなんだかさっぱり分からない僕を気にする様子もなく、少女は続ける。


「アタシたちは気に入った人間の夢を食べて活力を得て、その人間にも活力を与える存在なの。だからアンタとはウィンウィンの関係ってやつよ」


 なるほど。要するに僕は、神様に気に入られたのか。これまでの緊張がゆるみ、肩の力が抜け落ちたように吐息が漏れた。どうやら最悪の事態は一歩遠退とおのいてくれたらしい。

 しかし少女は、先ほどとは打って変わってけわしい表情を見せた。


「……本来ならね」


 そうぽつりと呟くと、少女の目はみるみるうちに涙を溜め込み始めた。


「アンタが! カロリーの高い夢ばっかり見るせいで! アタシはこんなに太っちゃったのよ!」


 今度は地団駄じだんだを踏むように、両足を激しく踏み散らした。木屑きくずがぱらぱらと舞い降りてきて、僕は慌てて歩み寄った。


「か、カロリーの高い夢って?」

「簡単に言うと、鮮明な夢ってこと。夢の世界へ逃げ込みたいって強く願えば願うほど、鮮明になるの」


 その言葉に僕はドキッとした。思い当たるふしがある。僕が見たいもの、聞きたいものだけを用意した都合の良い世界。僕は毎日望んでいた。


「アンタ、現実に満腹してないでしょ」


 それを言うなら満足では、と言葉にするとやっぱり身もふたもなくなりそうなので飲み込んだ。


「と、に、か、く」


 少女は指先でくるくると円を描き始める。ぐにゃりと周囲の空間がゆがんだ気がして、僕は焦点しょうてんを合わせるように瞬きを繰り返した。


「アタシのダイエットも兼ねて、ちょっと荒療治あらりょうじさせてもらうわよ」

「兼ねるっていうか、ほぼ目的で……ひっ!?」


 突然円盤状えんばんじょうの黒い穴が現れたと同時に、僕の足は目の前に持ち上がると、穴に向かって強く引っ張られた。吸い込まれまいと咄嗟とっさに机の脚にしがみついたが、少女の巨大なお尻が顔面にのしかかってきた。そのままぐいぐいと押し込められ、腕は千切れんばかりに伸びきった。


「ちょっと早く行きなさいよ。って誰がデブよ!」

「重い、痛いぃ」

「許さない抱いて!」

「い、意味わかんないこと言わな……うわぁぁ!」


 お尻の分厚い圧迫に耐え切れず、両手がすべり落ちる。同時に僕の身体とかろうじて上げた悲鳴は、まるで掃除機に吸い込まれたほこりのように、あっという間に闇に呑まれた。




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