第12話 お母さまと焦げたキッシュ
「分かったわ。ガイナス、それからあなた達も下がっていいわよ」
お母さまは、可憐な薔薇色の唇からため息を漏らすと、ガイナスたちに告げ下がらせようとするも、
「ですが、奥様」
「私がいいと言ってるの。言葉が聞こえなかったのかしら?」
「……承知いたしました。何かお手が必要となりましたら」
「大丈夫よ」
ガイナスは食い下がろうと頑張ったが、元はお父さまの所の執事だったからか、元皇女であったお母さまには頭が上がらないようだ。
言葉を遮られる形でガイナスとメイド達が使用人塔に消えていく様子を眺めていたお母さまは、完全に人がいなくなったのを合図にして小さな吐息をひとつ落とした。
それは先ほどとは違う傲慢でもなく、どちらかといえば落胆と呼称すべき悲しげに満ちた吐息。
それは苦悩といった言葉がとてもぴったりくる表情だった。
「……ン……さ、ま……」
俯き零れた声は小さいものだった。しかし、静寂に包まれたエントランスでは、その囁くような呟きさえも私の耳に届くには十分の音だった。
(……もしかしてお母さまは……)
ふと湧いた感情について思案していると、お母さまの足は寝室のある方ではなく、使用人棟へと向けて歩みだす。
(え? このまま寝室に籠るんじゃなかったの?)
明かりのほとんど落とされた廊下の闇に溶けていく母の背を追いかけるように、私もそっと後をついていくことにしたのだった。
どんどん奥へと迷いなく歩く母を、つかず離れず追いかけるのは骨が折れる。
日中のように明るければ人を追う行為はそこまで苦心せずとも可能だが、歩くのに困らない程度の風前の灯程度の明かりでは、真っ暗と大して変わらないせいで、母の姿を見失わないか焦る。
だからといって、元気よく走れば当然足音が出てしまうし。
ほとんどつま先立ちで早足で追跡するという、人が見たら鼻で笑われそうな体勢となっていた。
(こんな姿にいさまに見られたら……おおぅ、こわっ!)
にこやかに微笑みながら怒気が般若の面の形となって仁王立ちしてる兄を想像してしまい、ぶるりと自分を抱き締めながらも、追いかける足を止めなかった自分を誉めて欲しい。
迷いなく歩くお母さまの姿を見失わないよう、慌てず騒がず、だけど早足で追いかけてたんだけど、なぜか突然立ち止まってしまったために、急ブレーキをかけた体は勢いに倒れそうになる。咄嗟に壁に手をついたおかげで事なきを得たけどね。
立ち止まったおかげで周囲の様子が暗がりの中でもなんとか把握できる。
(あれ? ここって……厨房?)
以前ちまき騒動でお世話になった場所なんだけど、実は何度かお邪魔している内に厨房の人たちと話すようになっていた。その流れで大っぴらには言えない――というか、お兄さまに言ったら瀕死覚悟だから必死に隠してるんだけど、既に片手で足りないほどお菓子作りをしたこともある。
厨房の人たちには、手軽にできるクッキーなどが好評だ。
私にとっては馴染み深いその場所の扉に母は耳を当て、中の様子を窺う素振りをしてそっと木製のシンプルな扉を開く。まだ中に誰もいないからか、中から光ではなく更に深い黒が彼女を静かに受け入れた。
私は扉の隙間から中を覗くと、真っ暗だった室内にふと柔らかな光が満ち、それが魔石によるものだと脳が処理をし終える頃には、厨房の様子がはっきりと分かるようになっていた。調理台の前に決意の表情で立つ母と、その台に並ぶのはいつの間に持ってきたのか、小麦粉や卵、牛乳らしき白いものが入った瓶とほうれん草なのかな? 緑の葉野菜が整然と置かれていたのだ。
(えーと。一体何するつもりなんだろう?)
どうにも声をかけそびるタイミングを外してしまい、私は扉の隙間から母が何をするのかを観察し続けた。
(ああっ、ちょっと待って! 卵の殻がボウルの中に入ってるのに、どうして掻き混ぜたりするの!?)
握りつぶすように割られた卵が、小さな殻を纏いつつパチャンとボウルの落とされていくのを、私は脳内悲鳴をあげる事しかできない。
だって実際声にしたら見つかっちゃうじゃん!
その後も段取りの悪さに何度も中へと飛び込みたい衝動を抑えつつ、しばらく眺めていると、どうやら完成したようで、母は揚々とオーブンへと近づき窓を開いたのだけど……。
(やっぱりね……)
窓の隙間から流れてきたのは香ばしい匂いではなく、白い煙と焦げた臭気。がっかりした母の表情を読むに、焼きすぎで焦げてしまったのだろう。
そりゃそうだ、と思わず頷く。
しょんぼりした母の手の中にあったのは、下は生焼けで上はきつね色をとっくに通り過ぎ黒い色が表面を覆っているキッシュらしきもの。
普通はパイ生地をカラ焼きしてからキッシュの生地を流して再度焼きに入るんだけど、母の工程は室温で柔らかくなったパイ生地を適当に敷いて、すぐにキッシュの生地を流し込んだのだ。
しかも、生地も分量を量ってないせいでミルク色の強いものの中に、切って豆乳してから時間が経って水分が出てきたほうれん草の緑の汁が混じって正直美味しそうには見えない。
この時点で母を諭せば良かったのだろうけど、これまでまともに話したことのない母娘が、やんわりと私が注意をしたとしても意固地になるような気がしたんだよね。
で、案の定ただでさえ火の通りが悪くなるパイ生地が、室温でバターが溶けてカラ焼きをしてない為ボコボコに膨らんだ生地。当然押し上げられたキッシュの液は溢れ、天板に炭としてこびり付いてる。当然分けて焼いてないから下は生焼けで、上は短時間で火が通るために焦げてしまっていた。
正直、アレは私でも食べたいとは思えないなぁ。
明らかに失敗作と言える暗黒物体を、当然母は処分すべくゴミ入れに投入しかけたところで、私は咄嗟に厨房へと飛び込んでいた。
「お母さま、待ってください!」
「……あなた……アデイラ……なの?」
突然の闖入者にお母さまは瞠目し、うわ言みたいに私の名を告げる。
「はい。お母さま、アデイラでございます。実は、先ほどからお母さまの様子を覗き見させていただいておりました」
「……っ」
「失礼を承知でお尋ねしたいのですが、何故お母さまのような高貴な方が下々の者達が働く厨房に一人で参られたのでしょうか?」
元庶民の私が言うことじゃないけど、生粋の王族であり純粋培養で育ってきた母が、このような場所に居る事すら異端と言ってもいいくらいなのだ。
だから率直に質問を口にしたんだけど、お母さまはビクリと全身を震わせてから、全くといって言葉を発しようともしない。
あれかな。ビックリしたのと、子供に自分の事情を話すなんてってプライドと、貴族が民の働く場所に居るなんて矜持が許さないとか葛藤があるんだろうな。
私は母にゆっくり近づくと、硬直したまま持っていたキッシュの成れの果てを取り上げ調理台に乗せると、傍にあったナイフで焦げた部分をこそげ取る。
「溢れた部分が多かったからかかなり焦げてるように見えますが、その部分を取り除いてオーブンを低温に設定して再度焼けば、多少は食べれる物になるかと」
近くで見て気づいたんだけど、焦げの大元はパイ生地が隆起して溢れた卵液が焦げてしまったものだ。丁寧に除いていけば、量は減ってしまったものの、固まりかけのキッシュが姿を現した。
「多分、オーブンの温度設定が高かったせいもあるようですね。後は天板の位置も変えて焼けば、そこまで失敗しないと思いますよ」
ナイフを調理台に置き、今度はオーブンの設定をする為に振り返る。先ほど焼いていたためかまだ中は熱く、余熱としても十分に役割を果たしてくれそうだ。
「それから、こういった物を焼く時は、ある程度オーブンの中を熱くする必要があると思います。余熱なしで焼いたりすると、温度が安定しないため、どうしても失敗しやすくなるんですよね」
そう言って嵩の減ったキッシュに残ったベーコンとチーズを乗せ、再度オーブンに入れる。魔石の量を調整して、うん、これでOK。
通常の温度より低めにして、パイ生地に火が通るようにしたので、焼きあがるまでに多少時間がかかるだろう。その間に片付けをしようと、卵の殻やほうれん草の軸などの生ゴミをまとめて一箇所に捨てる。
以前、厨房長が教えてくれたんだけど、生ゴミを肥料にするんだって。それを使用人達が使用している花壇や、小さな畑に利用するんだって。
私がこの話を聞いた時、元の世界で私が入院していた病院でも、そのようなシステムがあるって担当の看護師さんが言ってたのを思い出す。えーと、リサイクルだっけ? リユースだったけな?
基本、私が創った世界がベースだからか、こういった中世時代に現代のものが取り込まれてたとしても、もうあんまり驚かないぞ。
「……手馴れてるのね……」
ぽつりともたらされた呟きに、ハッと我に返る。
それまで呆然と立ち尽くしていた母は、綺麗に片付けられた調理台をぼんやりと眺め、次に私を見ていた。
「あ、あの……」
「ガイナスが言った通りね。ここ数ヶ月、まるで人が変わったかのように、貴女が色々やってるそうね」
「……」
うおおおおおおおおおい!! ガイナス何告げ口しとんじゃあああああ!!
バンバンと調理台を叩きたい気持ちを必死で抑え、わななく口を開く。
「私は後悔したくないと決めたのです。それが以前の自分と違う原因なら、そう受け取っていただいても構いません」
前触れもなく、ここが自分が書いた小説の世界だと気づいてしまった。
そして、訪れるであろう最悪の結末を回避しなければ、私の命があっけなく消されてしまう事も。
前の世界ではベッドに縛られた体も、この世界では胸も苦しむ事なく元気に駆け回る事ができる。そんな普通が嬉しくて色々やっちゃってるけどさ、だからといって失敗したとかはないんだ。
もし、今の状況がバッドエンド回避に繋がらないとしても、我慢して大人しく時が来るのを待ってるなんて嫌なんだもん。
「ドゥーガン家の令嬢ではなく、一人のアデイラとして、ああすれば良かったなんて後悔だけは、絶対したくはないので」
「後悔……」
何か思い当たる節でもあるのだろうか。お母さまは私が言った一言をオウム返しで呟く。
「ねえ……アデイラ。今更と思うかもしれないけど、私の話を聞いてくれるかしら?」
母はどこか迷子の幼子のように、綺麗な顔を泣きそうに歪めながら、私にそう告げたのだった。
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