第79話 14-2 始まりの町

 「ここ,どこだろう?」

 ゆいは首を傾げた.

 今立っている場所は森を抜けた小高い丘の縁で,見下ろす目の前には豊かな平原と緩やかに蛇行する川が見える.

 川べりにはごちゃごちゃと小さく丸い物が見えた.町なのかもしれない.


 「こんな不思議なことがあるなんて……まだ夢を見ているのかしら」


 これでは,小説やアニメでよくある異世界転移っていうのみたいだ.

 とりあえず,足が痛い.

 靴下で地面の上に立っているのだ.

 ゲームの中でやっていたみたいに,手をかざしてみるとウインドウが立ち上がった.


 「うそ! ゲームみたい!」


 ‘ヒッポグリフのブーツ’があったので,出して履く.

 軟らかい皮の履き心地がよく,軽くて歩きやすい.

 足回りも整ったので,とりあえず歩いてみることにした.

 

 「どこに行こう……とりあえず,あの町に行ってみよう」


 大変わかりやすいことに,丘には小道と立札があった.

 右;ワントニャック地方 

 左;始まりの街


 「始まりの街――ホントに,RPGみたい.ログインして最初に行くところね」

 唯は歩き始めた.


   ***


 ほどなくして,唯は‘始まりの街’に到着した.

 中世風の城塞都市で,街の周りは川とそれを加工した運河で囲まれている.

 とんがり屋根の番所と門があり,これが街の正門というところだろう.

 石づくりの橋を渡り,街の中へと向かう.


 「うーん……なんだか本当に,ユーラネシアの’始まりの街’みたい……」


 中世ヨーロッパ風の街ならば,構造はだいたい想像がつく.

 ほぼ放射状に街路が広がり,中央に広場がある.そこに塔と市庁舎,そして教会があるはずだ.

 ヨーロッパはテロが多くて物騒なところになってしまったが,子供の頃はユーロスターで旅行したし,当時は彼氏だった夫の出張旅行について行って再訪したこともある.

 何となく懐かしい気もした.

 ……不思議な夢だな……


 街の中に入ると,中世風の服を着た人間,そして猫人や兎人などの獣人が歩いていた.

 みんな唯のことをこっそり見てヒソヒソと話をしている.


 「この格好だと,さすがに周囲から浮くのかしら」

 唯は自分の格好を見た.

 家の中の格好で飛び出してきたので,普通に現代風の服である.

 スウェットにマキシ丈のスカート,それにエプロン.羽織っているのは部屋着にしている熊耳のついたパーカーである.これは少し恥ずかしいかもしれない.

 少し先の角に宝石店があった.異世界の筈だがmagic stone とかjewelryとか書いてある.やや読みにくい字体ではあるが.良く見るともう一つの不思議な文字は逆さまになったカタカナだった.

 唯が気になったのはその店のショーウインドウだ.姿を映すのに十分大きく,宝飾品の鏡が飾ってある.

 自分の顔を映してみた.


 「えっ?」


 これは,シノノメの顔だ.

 いや,実のところシノノメの顔は実際の自分とほとんど変わらない.

 クウォーターなので,髪の色も少し茶色いし,目の色も薄い.

 だが,顔のつくりがやや幼い.

 これでは十代の後半だ.恥ずかしながら,年齢だけは五歳ほどサバを読んでいるのである.


 「若返った?」


 頬をつねったり,ひっぱたりしていると,宝石店の戸が開いた.

 初老の男――ホブ・ゴブリンが唯を見る.


 「おおっ! これは! もしかして,東の主婦様!?」

 「あ……はい,ええ……」


 男は興奮しながら握手を求めて来た.

 夢とは思えない,温かい手の感触.

 そして,今,確かに’東の主婦’と自分のことを呼んだ.

 そんな馬鹿な.

 ……まさか,ログアウトしていないの?

 確かにゲーム・オーバーの文字を見たはずなのに.

 じゃあ,さっき家に帰ったのも夢?

 唯はすっかり混乱していた.


 「あなたのおかげで,この世界は救われました.我々一般人を代表してお礼を申し上げます.今日は何か御入り用で? それとも何か貴重な魔石を売ってくださるので?」

 男は宝石店の店主だった.ずいぶん興奮している.唯の動揺など露知らず,早口でまくし立てている.

 ホブ・ゴブリンは普通のゴブリンよりも知能が高く,宝石や鉱物の採掘や取扱いに長けた種族だ.性格に癖はあるが基本的に温厚で,こうやって宝石店や銀行に勤めていることが多い.

 「ささ,どうぞ,どうぞ! おい,お前! 東の主婦様がいらして下さったぞ!」

 半ば強引に唯――シノノメは店の中に引っ張り込まれた.

 宝石店の中は,現実世界のそれとは少し違って理科の標本室――それも,鉱物ばかりを集めた部屋の様だった.天井まで届く棚がずらりと並び,ウナギの寝床のように奥に長細い.

 特殊な鉱物や宝飾品の売買に来ていた客たちがどよめく.


 「ああっ! 主婦さんだ!」

 「まさか,シノノメさんに会えるなんて!」

 「すごい! 僕,あなたの活躍を見てゲームを始めたんです!」

 「この世界を守ってくれて,ありがとう!」


 「はは……は,いえ,どういたしまして……」

 唯は苦笑した.


 「さあさ,お茶など召し上がってください」

 宝石店の奥には猫脚の小さな机と椅子が三脚並んでいた.

 「ここは,宝石の加工をお待ちになるお客様や,商談をする場所なのです」


 促され,唯は腰かけた.

 太ったホブ・ゴブリンの女性が,にこにこ笑いながらティーポットとカップを運んで来た.

 アップルシナモンティーの良い臭いが立ち昇る.


 「うちのお店に主婦様が来て下さるなんて,何て名誉な事でしょう! 東方の小国連合には,うちの親戚が多いんです.ノルトランド軍を倒して,開放して下さって本当にありがとうございます!」

 「いや……それは,あの,私一人でしたことではないので……」

 「これはなんと謙虚な! まさに,噂通りのお方だ.我々のような,何の力も持たない土着民(NPC)にも,女神の様に優しく接して下さる!」


 拝まんばかりの勢いで,ホブ・ゴブリンの夫婦は頭を下げた.

 唯はどうしていいか分からなくなり,とりあえず頭を下げ返した.


 「あらあなた! 私達,名前も名乗っていませんよ!」

 「おお! これは失礼いたしました.私の名前はザイザル.こちらは妻のエステルです.ゆっくりくつろいで,お茶を召し上がってください」

 「ありがとうございます」


 唯はティーカップを持ち上げ,赤茶色の液体を口に含んだ.

 少しありがたかった.

 これで落ち着いて気持ちの整理ができる.


 ……いつのまにかゲームの中に戻って来たのかしら?

 ……それとも,ログアウトしたつもりでログアウトできていない? 

 ……サマエルが何か操作したとか?

 ……あるいは,何らかのシステムエラー?

 

 そう考えると,家に帰っていたときの様子も説明がつかないわけではない.

 唯はお茶を飲みながら,ホブ・ゴブリンの夫婦を見た.

 にこやかに自分の方を見ている.

 とても仲がよさそうで,微笑ましい.


 私も……

 生活の記憶はある.

 結婚する前の記憶も,結婚した後の記憶も.

 喧嘩した日の気持ちも,仲直りした日の喜びも.

 所々欠けている部分はあるにしても……

 だが……


 一番大事な記憶が,欠けている.


 ……私の失った記憶……

 ‘彼’の記憶がない……

 ある意味,この不思議な状況にあって,それだけがあまりに残酷なほど真実だった.

 心が痛む.胸が苦しい.

 ハーブティーの香りが目に染みた.


 「どうかなさいましたか?」

 エステルが少し心配そうに尋ねた.

 「あ,いいえ……」

 「今,何かとても悲しそうな顔をしてらっしゃいましたよ」

 「そう……ですか……いえ,大丈夫です」

 唯は笑って見せた.この気の良い二人に心配をかけたくなかった.

 「ふむ……それで,主婦様は何をお探しですか?」

 「え……?」

 ザイザルの言葉に,一瞬シノノメは言葉を詰まらせた.

 自分の考えていたことが分かったのかと思ったのだ.


 ……彼の記憶.

 そう言いたいところだが,それはどこに行けば見つかるというのか.

 とりあえず……帰り道を探さなければならない.

 ログアウトした時に帰るのは,あのヤオダバールトが来る家なのか,それとも……

 夫の顔――と思っていたものが,一瞬にしてヤオダバールトに変わっていた瞬間の恐怖を唯は思い出した.


 「そうですね……見つけたい物があるのですが……それを手に入れる方法――道が分からない……というところなんです」

 これでは,自分の今の気持ちを吐露しただけだ.

 我ながらザイザルの質問の返事になっていないな,と唯は思った.

 「ほう……主婦殿ともあろうお方が……道にお迷いですか?」

 「……そんなものです」

 「そうですか……それでは,これは如何ですか?」


 ザイザルは立ち上がり,後ろの壁に作りつけた薬箪笥の引き出しを開けて何か探し始めた.引き出しが何十もあるので,探すのに苦労している.

 「おい,お前! あれはどこに行った?」

 「あれ,じゃ分かりませんよ! 多分,右の一番上じゃないですか?」

 ザイザルは右の一番上の引き出しを開けて覗き込んだ.

 「おお! これだ! さすが我が妻!」

 ザイザルは中から油紙に丁寧に包まれた塊を取り出した.

 大きさはゴルフのボールくらいである.包み紙をとると,中から赤い石が出てきた.中にキラキラ光る金色の結晶が混ざっている.

 形は涙滴型――というか,雀に似ていた.

 ザイザルは石をテーブルの上に置いた.ちょうど雀の腹の様に膨らんだ丸い部分を中心として,くるくると尖った先――口ばし側が回った.

 「これは,何ですか?」

 「これは,‘導きの石’です.持ち主が求めるものを心に念ずると,その方向を指し示してくれます.例え,何だろうと」

 「導きの石……」

 何だろうと,今の自分には導く物が必要だと感じた.

 「これ,おいくらですか? 頂きます」

 といっても,ステイタスを見ると値段が分かる.


 ‘導きの石’

 ‘求める物の場所を指し示すアイテム 十万イコル’

 十万円の石.現実世界なら,怪しい新興宗教みたいだけど……


 唯は所持金をチェックした.九千九百九十九万九千九百九十九イコル――マグナ・スフィアで所持可能な最高額が表示された.余裕で購入可能である.


 「いえいえ,とんでもない! 主婦様からお代など頂けません!」

 「そうですとも! 差し上げます!」

 ホブ・ゴブリンの夫婦は両手を振った.

 「いや,それはいけません.お支払いします」

 主婦は‘お得’に弱いのだが,タダは流石に気が引けた.

 「……そうですな.それでは……お代は頂きませんがその代り,お願いしてもいいですか?」

 ザイザルは腕組みして考えた.

 「……何でしょう?」

 「一緒に写真を撮ってもらってもいいですか?」

 「は!?」


 ザイザルとエステルは,苦笑いするシノノメと写真を撮り――水晶玉写真を魔術師が撮影し,羊皮紙に転写するのだ――,店内にでかでかと掲げた.

 ホブ・ゴブリン夫婦は満面の笑顔,羊皮紙には,黒々とした文字で『東の主婦様御用達の店』と書かれていた.


 「これじゃ,芸能人が来店したレストランだよ……」


 這う這うの体で唯は宝石店を出た.

 店を出ても,プレーヤーは唯を遠巻きに見ながら噂し合っている.

 ‘始まりの街’は特に初心者が多い.彼らにとっては,スタープレーヤーである シノノメは憧れの存在なのだろう.

 こそこそと路地裏に隠れたところで,唯は‘導きの石’を取り出し,掌の上に乗せた.


 ……私の求める物.


 それは,もちろん大事な記憶だった.そっと念じると,石はクルクルと回って自分を指した.体の位置を変えても,自分の方向を追うように動く.

 「自分……」

 

 ……当たり前か.自分自身の中に記憶があるに決まってる.


 次に,帰り路.今の状態では,本当に帰りたいのか分からないけれど……

 正直言って――いや,現実にはありえないと思っているのだが――また家にヤルダバオートがやって来るような気がして怖かった.


 導きの石は,再び自分を指した.これも,ログアウトするのが自分であれば当たり前なのかもしれない.唯はため息をついた.

 とすると,もう少し落ち着いてから家に帰ろう……

 ひょっとしたら――ちゃんと彼の顔を見ることができれば――思い出すのだろうか.


 ……何か,手掛かりはないかしら.

 ヤルダバオート――サマエル.考えたくもない顔だが……

 そういえば……

 あいつは,どうして私の個人情報を知っていたんだろう.

 ゲームにID登録するときのプロフィールに,結婚年数も新婚も既婚も,入力する項目なんてない.

 何かおかしい.

 まだソフィアに頼まれたこと――サマエルを倒すということも成し遂げていない.

 あいつにもう一度会えば,何か分かるのかもしれない.

 

 その思念に反応してか,導きの石はクルクルと回って南を指した.


 「南……」


 南には,カカルドゥアがある.

 永劫旅団アイオーン時代の仲間,聖騎士パラディンのヴァルナがいるが,あまり行ったことが無かった.

 「カカルドゥアか……」

 

 東の大国,素明羅スメラの仲間たちも懐かしい.セキシュウ,カゲトラ. そして,友達になったグリシャムやアイエル.

 だが,自分の欠けた記憶のことを,どう思うだろう.

 優しい人たちのことだ,きっと,何も言わずに受け入れてくれるのだろう.

 何も気にせずに楽しく過ごしていけるのかもしれない.

 だが,それはもうできない.

 ……自分にとってかけがえのないものを取り戻すために.


 「行ってみよう.南へ」


 シノノメは,決意を口にした.

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