二 手段

 手に入れた報酬には、手をつけなかった。

 ふたつに分けてそれぞれ封筒に入れ、上着の内ポケットに突っこんである。

 有人ゆうとは、走り書きのメモを見ながら、頼まれていたものを自分の金で買った。売れない画家には過ぎた額の買い物だ。

 売り場の買い物客も、レジの店員も無脳者むのうしゃだった。

 無脳者。十年前から進められてきた国の政策に従い、手術によって脳を摘出した者たちのことだ。

 各自の脳は政府の管理する保脳ほのう機関に『保脳』され、安定状態を維持するよう管理される。からになった頭骨には、ネットワーク経由でみずからの脳に接続するための、ごく小さな機器が組みこまれる。現在、国民の半数近くの脳が保脳されているらしい。

 保脳により、近年深刻化していた携帯端末の長時間操作による肩こりや頭痛、電磁波による障害、さらには精神疾患など多くの脳に関する病を遠ざけた。徹底した保守管理によって、多様な生活環境による自律神経の失調やストレスを防ぎ、長年の課題とされていた肥満や、脳死も防ぐことができるようになったという。

 手術は高額で、はじめは病から開放されることを求める富裕層を中心に利用されてきたが、二年前より条件が揃えば保険が効くようになり、その利用者は増えている。銀行に金を預けるようなつもりでいるらしい。

 前例も多くなり『保脳の安全性』というやつが世間に認知されてきたことも要因となっているはずだった。

 術後に国から支給される端末で指定すれば、就寝起床の時間指定もできるらしかった。それをログイン、ログアウト、などと呼ぶと聞いたときはあきれを通り越し、どこか薄ら寒い感覚を覚えたものだ。

 連中は、頭部に脳がないため頭が軽い。あの男もそうだった。

 駅前の喫茶店で遅めの昼食にした。

 スライスされた茹で卵とハム、トマトとレタスが挟まったサンドイッチ。脂でてらてらと輝くウインナーソーセージが添えられていた。

 食後の珈琲コーヒーすすりながら、時計に眼をやる。指定した時間の五分前。

「よう涅辺くろべ。お前、どうやったんだ?」

 鐘元かねもと。元刑事の探偵で、五年ほど前、有人が街なかで絵を描いていたときに声をかけてきた。同じ場所で何度か会って話すうちに、いつのまにか友人のようになっていた。有人よりもふたつほど年長だったはずなので、いまは四十五、六になっているだろう。時間に正確なのは刑事の名残なごりだと言っていた。

「あんたこそ、なにを知ってるんだ」

「なにも。俺はもう刑事じゃねえ」

 鐘元は口元だけでにやりと笑い、有人の向かいに身を投げ出すように腰かけた。珈琲を注文する。節くれ立った手で気だるそうに灰色の帽子を取り、茶封筒を差し出してきた。珈琲の染みが広がって模様のように変色している。

 有人は葉巻を口の端に挟んで受け取った。店内で火を点けるとうるさいので、口に咥えるだけにしている。茉莉まりには煙の出るおしゃぶり、などとからかわれたことがあった。

「しかし本当にやっちまうとはな」

 鐘元は呆れたような口調で呟いた。癖でたびたび撫でつける頭には白いものが多く、実際の年齢よりもずっと老けて見える。

「男は死んだぜ。揉み合ってるが死因は心臓をひと突き、凶器は果物ナイフ。たいしたもんだ」

「刑事みたいだぜ、鐘元の」

「探偵だって、それくらいの情報網は持ってるもんさ。保脳機関から男の脳の調査結果が出るのは四、五日ってとこだな」

 黙らせるつもりで有人はにらみつけたが、鐘元はまるで気にした様子も見せずにそう言った。

 湯気を立ち昇らせた珈琲が来た。鐘元は真夏でも熱い珈琲を飲む。息を吹きかけながら、テーブルの端に伝票を置く店員の女にじっと視線を注いでいる。

 六年前まで刑事をしていたという鐘元も手術を受け、無脳者となっている。そのころすでに公務員には義務づけられていたのだ。

 鐘元によれば、無脳者になって特に理由もなく仕事への熱意がなくなり、投げたような生き方をするようになったようだ。

 脳はどのような地震、災害にも耐え得る構造の地下高層保脳堂に、アルファベットのコードと十二桁の数列マイナンバーで管理されているという。

 人間の脳には、見聞きしたものが克明に記録されており、本人も忘れている潜在意識すらも調べられるという。

 犯罪者や被害者が無脳者の場合、その脳を調べれば証拠が明白となる。そのため、保脳により犯罪が減少しているとする統計も発表されていた。

 利点ばかりが取り挙げられるが、そうではないこともあるはずだ。それでも、費用が用意できる一部の富裕層は我先にと、こぞって手術を受けた。

 目立った行動をとれば、脳を調べられる。それがわかっているから、無脳者は犯罪に手を出さない。脳とだけ向き合っている連中はそう決めてかかるため、かえって無脳者への警戒が緩いのだ、と鐘元は言っていた。

 脳波などに異常が出れば数値ですぐにわかる。そうだとしても、それを管理するのが人間である以上、穴はあるはずだった。技術者の数も足りていないという話だ。

 重く膨れた茶封筒から、取り出した書類に眼を通す。

 弓張那央ゆみはりなお。二十六歳の女。若いが現行の保脳技術の第一人者にその名を連ねている。名前だけは聞き覚えがあった。

 眼鏡をかけた顔写真は険しい表情で、いかにも寡黙で熱心な研究者といった印象だ。自身も無脳者で、保脳機関および保脳堂のセキュリティも通過できる役職に就いている。

「あたりまえだが、警備は異常なまでに厳重だ。国民の脳がかかっているからな」

 鐘元が声を潜めて口を挟む。

 弓張の職員情報の下には、脳情報の個人コードが鐘元の汚い字で書いてあった。他人のコードを無断で知ることは違法行為である。

 封筒の底には布にくるまれた黒光りするものが、息を殺して眠っていた。

「それで、もう一人のほうは?」

「報酬次第ってとこだな」

「じゃあ、あんたの報酬から引いて、そいつに上乗せだ」

「おい涅辺。そんな景気の悪い小細工はなしにしようぜ」

「こいつは仕事ができるやつのほうへ流れるようになってる。あんたは、話をつけてくるって言ってたはずだ」

「わかった、わかった。ほら、これがやつのねぐらだ」

 鐘元はそう言ってメモを押しつけ、代わりに有人の手から金の入った封筒をもぎ取った。

 薄汚れた帽子で白髪を隠し、鐘元が席を立つ。

「じゃあ、またな」

 鐘元はそう言って背を向けた。有人は返事をしなかった。

 喫茶店のラジオが害獣への警戒を促す情報を流している。

 このところ猿に似た獣が現れて、脳を啜るために人間に襲いかかっているというのだ。今月に入ってすでに十三人、死んでいた。

 決めかねていた者も、保脳手術を受けようと押しかけているらしい。保脳の流れはますます加速している。『世間様』の声に弱いこの国の気風は、いまも昔も変わらない。

 これから五年かけて、保脳を国民の義務とする法案が議会を通ったばかりだが、生後八ヶ月までの子供に義務づける案まで出ている。

 死者の脳も生き続け、死人に口なし、といわれた時代は終わろうとしているのだった。

 政府はすべての国民の人生を覗き見る、閻魔帳えんまちょうを得ようとでもしているのか。

 鐘元の分まで支払いをして店を出た。

 通りかかった角の花屋で花を買おうか迷い、柄でもないとやめる。無脳者になれば、悩まずに買えたのかもしれない、とふと考える。

 しかし大金を手にしたところで、それを使って無脳者になろうとは、到底思えなかった。

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