無脳者の檻

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一 霧雨

 雨は、色褪いろあせたこの街の臭気を誘い出しながら、静かに夜を濡らしていた。

 しっとりと、からだに染みこむような細かな霧雨の夜。

 薄暗い街灯に切り取られた煉瓦れんがの街は、闇に溶け出しているかのように曖昧あいまいなものに見えた。

 九月二十八日。涅辺有人くろべゆうとは、土曜の夜の酒場通りを少し離れた暗がりからじっと見据えていた。

 使っていない画材のペインティングナイフを、と考えたがやめた。二十年以上続けた絵では、なにひとつ大成しなかった。今年で四十三になる。

 結局、茉莉まりがいなくなってから庖丁代わりに使ってきた果物ナイフを選んだ。新品よりも、手に馴染んだものが信頼できる。

 画材と同様に、手入れはおこたっていない。気を入れて砥石といしに向かう。砥ぎ、親指の爪に刃をあてて確かめる。それほど時間をかけずとも切れ味はすぐに戻った。

 店から、男女が出てきた。

 男が女の肩に腕をまわし、街灯の少ない路地裏へ連れて行こうとする。嫌だと言いながらも、肩を出して乱れた衣服をそのままに、抵抗しない女。

 笑い声。呼吸を乱し、足取りはおぼつかない。二人ともかなり酔っている。薬もやっているだろう。そういった噂の絶えない店から出てきたのだ。

 頭が空の無脳者リーベルタードは酔い方も忘れてしまうのか。酒も葉巻も、その味を変えるという話だ。

 女のほうは知らない。服装は派手だが、街灯に照らされて一瞬見えたのは意外に知的そうな顔立ちだった。長い黒髪は霧雨を浴びて艶が際立ち、冷たい金属のようにも見えた。

 男は数多くの犯罪歴を持つ、運び屋だった。

 薬だけではない。路上生活をする子供に声をかけては、闇の道に流して売る、というようなこともやっている。巧妙で、逮捕されても数年で出所するのだという。

 それでいて妻子持ちらしい。つまりこれは不倫の現場というやつだった。男の犯罪歴からすれば可愛いものなのかもしれない。

 息を殺して近づく。闇に隠れていた水溜まりを踏み、かすかに音を立てた。それは雨音に飲まれたが、あせりが次の一歩に出た。有人の足音に振り返りかけた男に、跳びかかった。

 ほうけた顔で、男と夢中で絡み合っていた女が我に返り、闇を裂くような悲鳴をあげる。

 蹴りをかわした男が有人に掴みかかる。脇腹に重い拳が食いこんでくる。だらしなく見えたが仕事柄、場数は踏んでいるのだろう。体格もいい。掴み合い、揉み合いになり、互いに濡れた土に倒れこむ。女はなにかわめきながら駆け去った。放っておいても警察に駆けこむようなことはしないだろう。薬で自身が逮捕されかねないのだ。

 有人は体重を乗せ、男の側頭部にひじを打ちこんだ。男の空洞の頭からは、妙な音が響く。やはり無脳者は、頭に衝撃を与えても効果が薄い。男が馬乗りに覆いかぶさってきた。拳が叩きこまれてくる。


 心は脳にあるのか、胸にあるのか。

 心臓移植によって、心臓とともに赤の他人の記憶や趣味、性格、食べ物の好みなどが自分のものになった、という者もいる。

 昔、人間の頭部の移植手術を計画した医者がいたが、成功したのならその答えを知る者がいてもいいのではないか。だが、使い古された問いかけに、未だ答えは出ていない。

 三十数年前、仮想現実のゲームが流行したころ。新たな感覚を得たことで、人はなにかを失ったと言われていた。人はきょのなかに、じつを見ることができるはずだ。しかし生身の頭部に脳がなければ、どうなのか。それは仮想ではなく現実を生きていることになるのか。

 そしてその先で人はなお、なにかを得ることができるのだろうか。


 いま、有人の躰を駆けめぐる痛みは、血に濡れた手は、虚構ではない。

 果物ナイフは、男の胸に柄まで深く突き立っていた。眼にすでに生の色はない。

 警察車両のサイレンが近づいている。女の悲鳴を聞き、誰かが通報したのか。

 用意しておいた古い電気自動車に乗りこむ。ヘッドライトは点けずに、狭い路地に鼻先を入れる。排水溝から立ち昇る蒸気を掻き分けて、闇のなかを滑るように移動した。

 耳鳴り。殴られたのが効いているのか、少し視界が揺れる。

 予定通り、寂れた埠頭ふとうに乗り入れて、廃棄された輸入コンテナの並ぶ死角で車を捨てた。

 街はずれまで歩く。煉瓦造りの建物に軒下のきしたを借り、なるべくゆっくりと葉巻に火を点ける。手が震えていた。

 全身が濡れている。霧雨のせいだけではなさそうだった。

 恨む者の大勢いる男の始末。こんな仕事は、いや人を襲うこと自体、はじめてだった。だが、奇妙なほどに落ち着いている。

 とにかく、これで必要な金が入る。

 濡れたうえに汗も引いてきて肌寒くなってきている。もう夏も終わりだった。

 葉巻を持った手が震えている。寒さのせいだ、と自分に言い聞かせた。

 生きることは苦しい。だからこそ、やれるだけのことをやって生ききってやる。

 それでようやく自分は死と向かい合える。有人はそう考えていた。

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