僕の話 第20話

 自転車を引き上げる時、僕の心はどこか別にあった。先ほど見たモノは果たして現実なのかそれとも僕の妄想だったのか。もしかしたら、始めから傷などなかったのかもしれない。自転車とコンクリートの間に挟まれた足を見て、痛みや傷を過剰に反応して妄想を創造してしまったのかもしれない。こじつけまがいに現実に則して考えるとそんな仮説が建てられた。しかし、それにしては痛みや目にした傷はあまりにもリアリティがあった。それに僕のすねにぽっかりと毛が生えていない部分などなかったはずだ。とするとコンクリートに擦れて毛が擦り切れたことになるけれど、あれほど綺麗に脛毛だけを擦り切ることができるものだろうか。

 全身に寒気が走る。思考はぐるぐると同じところを回る。

「大丈夫?漕げる?」自転車に跨る僕に美薗さんが問いかける。

 右足を左右に揺らして具合を確認する。痛みはない。

 大丈夫です、僕の答えに彼女は満足そうに良かったと頷いた。僕らはまた並んで走りだした。タイヤは回るたびに付着した泥を跳ね飛ばす。

「でも、突然田んぼの方に突っ込んでいくんだからほんとうにびっくりしたよ」

 彼女の中で僕に対する警戒心が下がったのか、フランクに話しかけられる。しかし、僕の僕に対する警戒心は上がっていた。疑心暗鬼というより疑体暗鬼というべきか。

 そこから駅で彼女と別れるまで僕は自分で何を話したかまるで覚えていなかった。楽しそうに話す彼女に笑顔で同意しながら、頭では自分の右足に起きた現象について考えを巡らせていた。

 家に帰ると僕は自分の部屋にこもった。居間にいた姉が僕の異変を察知したのか声を掛けてきた。けれど、僕は返事もせずに通り過ぎた。弟の体調の変化に敏感なのは良いけれど、弟からしたら良いことばかりでもない。今僕が抱える問題はとても他人に相談できるものではない。

 泥だらけになったズボンと制服を着替えた。

 鞄を投げ出し、机の引き出しからカッターを取り出す。カッターを持つ右手はぷるぷると震えていた。

 椅子に座り右足を抱え込む。それから刃先をその皮膚に向ける。最後の一押しがなかなか出来ず、そのまま時間だけが刻々と過ぎた。少し肌寒いにも関わらず、額から汗がポタポタと垂れる。

 世の中には時間が解決してくれる問題と解決してくれない問題がある。これに関して時間が解決してくれるとは思えない。問題を先送りにすること自体が問題である。

 ゆっくりと刃先を皮膚に当ててそのまま下に動かす。力が弱いのか肌には傷一つ、つかなかった。大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。

 せーの、内心の掛け声と共に強くカッターを押し込み、そのまま動かす。

「痛い、痛い、痛い、痛い、痛い」

 声を出さなければ痛みを我慢できなかった。けれど手は止めず、目は逸らさない。

 そこで起きた光景に僕は目を見張った。

 裂けた傷口がカッターの後を追うように、たちどころに塞がっていく。僕は痛みを我慢してカッターを動かした。上下左右、どこをどう切っても即座に治ってしまう。

 机の上にカッターを置いてもう一度足に目を向けると傷の痕など何一つ残っていなかった。傷付けた場所を指でなぞる。普段と同じ感触でこれといった異変は見られない。

 さらに驚くべきことに床に垂れた血は一滴一滴が意思を持つように、僕に向けて動いていた。僕の足にたどり着いた血は水が蒸発するように立ちどころに消えていく。体に吸収されているのだろうか。数分もすると血でべっとりと濡れていた床は元の綺麗な状態に戻った。血の掃除まで頭が回っていなかったからこれは良かったと言うべきなのだろうか。不気味な光景を見つめながらそう思った。

 この異変は足だけなのだろうか。僕がその疑問に達するまでにそう長い時間は掛からなかった。再びカッターを手に取って反対の足、指先、腕、腹、頬と様々な場所に刃を入れる。結果は全て右足と同様であった。この過程でいつの間にか自傷行為に対する躊躇ちゅうちょが無くなっていた。

 異常体質が全身に及んでいることに僕は恐怖した。

「発馬、夕飯はどうするの」

 突然部屋のドアが開いて姉が入ってくる。僕は急いでカッターを机の引き出しに押し込んだ。

「ノックくらいしろよ」

 僕が怒ると姉はふっと鼻で笑って返す。

「思春期の餓鬼みたいなこと言わないでよ」

「今がその思春期真っ盛りだよ」

「で、夕飯はどうすんの」

 僕の叫びも姉には届かないようだ。飄々ひょうひょうと僕に問う。

「コンビニで良いよ、コンビニで」

 えーっ、と姉は言うが僕を一瞥いちべつして仕方がないと諦めた。料理をさせても美味しいモノを作れないと判断されたのだろう。

「私もコンビニで良いから、発馬が買ってきてよ」

 ほら、朝は私が作ってるんだしさ。姉の正論に僕は反論することが出来ない。朝ご飯を作ってもらっている身でありながら、徒歩数分のコンビニへのお使いを渋るのは情けない限りである。

「あと、母さんがそろそろ制服洗いなさいだって。洗っておくから後で洗濯籠にでも入れておいて」

 分かったと僕が頷くと、それじゃ、よろしくと姉は部屋を去ろうとした。

「ちょっと質問があるんだけど」姉の背中にそう投げかける。 

「ちゃんと自分の分のご飯代金は後で渡すわよ」

 呆れた顔で姉が言う。僕の質問を想定してそう言ったのだろうが、今の僕に夕ご飯の代金のことなど些細ささいな問題であった。

「もしもの話だけど」姉の目を見てゆっくりと言う。

「姉貴が不死身の肉体を手に入れたらどうする。傷がものすごい早く治るとかそういうのだけど」

 出来るだけ平静を装って言ったけれど、もしかしたら声が震えていたかもしれない。

 姉は少し考え込む様子を見せた。もしかしたら有益なアドバイスをもらえるかもしれない。場合によっては相談してみるのもありだ。僕は期待に胸を膨らませた。

「まず、第一に気持ち悪いわね」

 膨らんだ胸に剣をブスリと刺すように、辛辣な一言が飛び出す。

「だってそうでしょう。不死身なんてのは映画や漫画だから楽しめるものであって、実際にいたらそんな化け物を理解できるわけないでしょ」

 どこかの大きな病院とか研究所のモルモットが関の山でしょうね、追い打ちをかけるようにそんな意見を述べる。

「そっか」僕はそれしか言えなかった。

「何の漫画読んだのか知らないけど、早々に切り上げて、早くコンビニ行ってきてね」

 それだけ言い残すと姉は部屋を去った。

 それから僕は思った。とにかく誰にもバレてはいけないと。

 その時から僕の生活が一変したのは言うまでもない。普段の生活から怪我に必要以上に警戒しなければならなくなった。

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