海尊曰く

高坂喬一郎

第1部

僕の話 第1,2,3,4,5話

「座右の銘は、満足な豚であるより、不満足な豚でいることです」

 高校1年の春。僕の眼前に座る岩水寺雄索がんすいじゆうさくは自己紹介でそう言い放った。おそらく笑いと取るために言ったその言葉は、緊張の抜けきらない教室内ではまだ受け入れられなかった。周囲にただ強烈な印象だけを与え、彼は席に着いた。

 雄索は贅肉ぜいにくが椅子からはみ出すほどの巨漢であったけれど、そのせいで相手に不快感を与えるようなことはなく、よく見るとむしろ可愛げがあった。しかし、よく見ないとその可愛げを見つけることも難しかった。

 席が前後ということもあって、会話する機会も多く、それゆえに仲良くなるのも早かった。最初の自己紹介の様子からおおよそ察してはいたが、節々に奇天烈な面が見え隠れした。しかし、それすらも愛嬌と思わせるほど人情味溢れる性格が彼の魅力だった。

「最初のあれの元ネタは満足な豚であるより、不満足な人間である方がよいとかじゃなかったか」

 僕がそう尋ねた時、彼は驚いた顔をした。

「よく分かりましたね。元の言葉を知っていたのなら面白さも二倍だったでしょうに」

 なぜ笑わなかったんですか、雄索が僕に聞き返した。

「笑いよりも驚きの感情が強かったんだろうな。笑えなくて申し訳ない」

 雄索は何か考えるような素振りを見せた後「なるほど、もう少し場を温めてから放った方が良かったんですね」と言った。真面目な顔でそんなことを言うのだから僕は笑ってしまう。

 思えば、雄索と友達になろうと思ったのはその時かもしれない。


 新しい環境に浮かれる気持ちも落ち着き始め、各々が段々と順応し始める四月下旬、僕は雄索と二人、弁当を食べようとしていた。

 雄策はいつものように大きめの弁当箱を鞄から取り出す。彼の弁当箱の中にはいつもバラエティーに富んだおかずがこれでもかと詰め込まれていた。これが毎日のことであるから、そこに母の愛の深さが見える。

「母親が過保護なんですよ。俺のことを絶滅危惧種か何かと勘違いしているじゃないですかね」

 僕がそのことを指摘すると彼はそう返した。何十回と会話して分かった彼の癖が一つある。照れくさい時、雄索はいつも軽口を叩く。

「もしかしたら、太らせて食うつもりなのかもな」僕もそう軽口で返した。

「だとしたら作成は上手くいってますね。これほど脂ののった肉が不味いはずがないじゃないですか」

 そう言って自らの贅肉をぽよぽよと揺らす。

「見た所A5ランクの極上ものだな。その時は僕もご相伴しょうばんにあずかるとしよう」

「カニバリズムに躊躇ちゅうちょがないとは、驚きですね。もしもそんな機会があったら発馬はつまにもおすそ分けしますよ」

「ロースとバラとカルビをもらうとして、あとはミノとタンももらえるとありがたいな」

 指折り数えて食べたい部位を挙げる。

「それにしたって躊躇しなさすぎでしょう」

 僕らは二人して笑った。

「会話の内容がサイコパスなのよ」

 僕の机に弁当箱を置いて小松沙仲こまつさなは言った。

「僕の弁当をどうして沙仲が」

「発馬が忘れたって、私がおば様から預かってきたの」

 そう言えばと朝の風景を思い出す。確かに弁当を鞄に入れた記憶がなかった。

「申し訳ない」

「そう思ってるならもう少し態度に出してよ。もうお弁当開けようとしてるし」

「確かにその通りだ。礼儀とは身近な人への感謝から始まると海尊かいそんも言っていたことだし」

 ありがとう、沙仲の目をまっすぐ見て真面目な顔で言った。

「真剣すぎて逆に嘘くさいわ」

「どっちにしてもダメじゃないか」

 天邪鬼あまのじゃくめ、と呟くと彼女は僕をキッと睨んだ。

「とにかく、弁当は確かに渡したから」

 それから、沙仲はパタパタと自分の席に戻ってしまう。

「小松さんにお弁当を届けてもらうなんて贅沢な」

 沙仲の後ろ姿を見ながら雄索がそんなことを漏らす。

「贅沢と言うのは言い過ぎじゃないか」

「美少女にお弁当を届けてもらう。これを贅沢と言わずして何と言うんですか、至福ですか極楽ですか」

 何も分かってないと言わんばかりにため息混じりに首を振った。あまりにも大げさな言い分に僕も肩をすくめる他にない。

「真に幸福を教授している人ほどその価値に気づかないものですね」

「まさか、海尊の言葉か」

「これは俺の言葉ですよ」

「嘘だ。全ての名言は海尊から生まれるんだ」

「海尊は何者なんですか」

「ちなみに今の言葉も海尊のものだ」

「嘘だ」

 そうして雄策はふうふうと荒れた息を整える。ツッコミダイエットか、存外流行るかもしれないな。Yシャツの上からでも分かる彼の贅肉の波を見て思った。

「そんなことより、小松さんとはどんな関係なんですか。まさかもう恋仲なんですか」

 恋仲というのもなかなか古い言い回しだなと思う。

「ただの幼なじみだよ」

「幼なじみにただのなんてものはないんですよ。俺が見てきた男はみんなそう言って、幼馴染を連れ去っていきましたよ」

「それは現実の話か」

 それは雄索がそういう風に進めているだけなんじゃないのか。

「この主人公が」

 僕の問いかけに答える気はないらしい。

「それは罵倒になっているのか」

「この勝ち組め」

「この飽食の時代の日本に生まれた時点で既に勝ち組だと思うけどな」

「そういう元も子もないことを言わない約束でしょうに」

 とにかくと彼は言う。

「富める者は税を支払うべきですよ。これは国民の義務ですよ」

「それは」

「海尊の言葉じゃないですよ」

「なんだ違うのか」

 雄策は僕の手元に視線を落として言う。

「美味しそうな弁当ですね」

「となりの芝生が青く見えるだけだろう」

 事実、僕の弁当よりも雄索の弁当の方が豪華なのは明らかだった。

「美味しそうな上に今日は輸送経路がいつもと違うじゃないですか」

 沙仲のことを指しているだろう彼の発言は清々しいほどに気持ち悪かった。

「配送業者が美男美女を売りにするみたいなもんか」

「まあ、そんなものですね」

「結局、人は見た目なのか」

「どれほど知能が発達しても本能には抗えませんからね。生存競争を生き抜くために美人に惹かれるのは人間的に正しいことでしょうに」

 理性軽視の中々に辛辣な意見である。

「でも、見た目なんて簡単に変えることが出来ますしね。判断基準をそれだけにするっていうのもどうかと思いますけど」付け加えるように彼が言う。

「その辺の整形事情はよく分からないけど」

「整形手術もまあ、そうですね」

 二人そろってしばし口を閉じる。これ以上のこの会話は不毛であると二人とも思った。

「話が逸れましたが、その卵焼き一つくれませんかね」

「その体で、それだけの弁当があって、まだ食べる気なのか」僕は呆れた。

「この体だからこそ食べるんですよ。太っていて小食の方がよっぽどおかしいでしょう」

 そうして箸を僕の方に向けて言う。

「いいですか。アインシュタインも言っていましたが、質量の大きい物体の前では時空が歪むんですよ」

 言うが早いか雄索は綺麗な箸捌きでさらりと僕の弁当箱から卵焼きを奪っていった。

「あげるなんて一言も言ってないぞ」

「俺の意志じゃありませんよ。時空が歪んで口の中に卵焼きが勝手に入ってきたんです」

 これは物理法則にのっとった、宇宙の意思ですよ。とそんなことまでのたまう。

「時空が歪むほどの太ってないだろうが」

「あるいは、俺の口の中に卵焼きが自然発生した可能性もあります」

「なら僕の卵焼きが減ってるのはおかしいじゃないか」

「発馬の卵焼きが同時に自然消滅した可能性もありますね」

「その可能性よりも、雄索が盗んだ可能性の方が高いんじゃないか」

 僕の指摘に対して動揺もせず言い返す。

「これ以上は水掛け論ですね。ここは穏便にいきましょうよ。ほらこれあげますから」

 それから彼は自分の弁当から三種類ほどのおかずを僕の弁当に移した。明らかに玉子焼き一個とは釣り合わない豪勢な内容だ。

「そう言えば友達とのおかず交換なんて生まれて初めてですよ」

 とどめと言わんばかりに、そんなことを言われると怒るに怒れないものだ。

「それにしても、小松さんと幼なじみってのは羨ましい話ですね」

 僕の卵焼きを咀嚼そしゃくしながらまた言う。

「みんなそう言うけど実感したことないな」

「なるほど、発馬は男好きと」

「論理が飛躍している。色んな可能性を消しすぎだ」

「なれば、去勢済みと」

「立派なのがちゃんとついてるわ」

「なるほど、立派なのがちゃんとついてると」

「誘導尋問だ。弁護士を呼べ」

「何はともあれ実物を見せて頂かないことには弁護の仕様がありませんなあ」

「この世は変態しかいないのか」

「それも海尊の言葉ですか」

「海尊がこんな事言うか」

 完全に雄索のペースで会話が進む。

「とにかく、あれほど可愛い子が近くにいて今まで何も感じてこなかったって去勢したか、あるいはそっちしかないでしょうに。まさか俺のことを」

 そう言って雄索は自らの体を隠すように両手を胸元でクロスさせる。悲しいかなその大きな体を二本の腕で隠すには無理があった。

「俺にその気はないし、うぬぼれるな」

「知らないんですか。最近はこういうぽっちゃりボディがモテるんですよ」

「それは女性に限った話だろ」

「くぅ、俺も女性に生まれていればボンキュッボンのダイナマイトボディで玉の輿確実だったのに」

 本気なのかふざけているのか判然としない。

「雄索は女性に生まれても、今とあんまり変わらない気がする」

「それは褒めてるんですか」

「ギリギリ」

「褒めてるんですか」

「貶してる」

「貶してるのかよ」

 そんな無意味な会話をしているうちにいつの間にか昼休みは終わりに近づいた。雄索との生産性のない会話ほど時間の流れが早い気もする。僕らは揃って弁当を口にかきこんだ。

「ちゃんと全部食べたの?」

 沙仲はわざわざ僕の席に来てそう聞いてくる。僕が空の弁当箱を見せてやると、満足気に頷いた。

「私がおば様から預かったんだから、残すなんてこと許さないわ。それにしても人参にんじんまでちゃんと食べたなんて偉いわね。おば様がいつも残すって嘆いたのに」

「子供じゃないんだから、嫌いなものを残すようなことはしないよ」

 僕は雄索に目配せをした。人参を代わりに食ったことを言うんじゃないぞと。雄索は、力強く頷いてから元気よく言う。

「人参なら俺が代わりに食いましたよ」

 沙仲が鋭い眼光を飛ばす。視線だけで人を殺せるのではないだろうか。

「またあんたは好き嫌いして、馬だって喜んで食べるというのに」

「今の馬を下に見た発言は問題だぞ。今すぐにでも全国の牧場から激怒した馬たちがこちらに向かってくるぞ」

「それこそ人参が大量に必要になるわね」

「人参パーティーですね」

 どうやら雄策は沙仲の味方らしい。次の句がつむげなくてぐぅとくぐもった声しか出せなかった。

「おば様には私から報告しとくわね」

 勝者の笑みを浮かべて沙仲は自分の席に戻っていく。

「食えないやつだ」

 強がって言ってみたけれど思った以上に恥ずかしい。

「どんな時代でも、美女は生まれ続ける。これこそ、この世界の救いですね」

 沙仲の後ろ姿を見て彼が言った。

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