『新時代より』

白檀

『新時代より』



その晩も、ほら吹きイゴジェは酒場の林檎樽の上に、

眠り込むように丸くなって座った。


「その昔、まだ教父さまが麻の衣を着て、お貴族がたが藁葺き小屋に住み、

 おれたちが地にはりついて生きていた時代の話にゃ。

 海の果ては死の国に繋がり、大地はどこまでも平らで、

 空はいつか落ちてくるものと思われていたにゃ」


「なんだ、馬鹿にしやがって。そんな常識、子供でも知ってるこった」

鍛冶屋のトマスがいつものように、赤焼けた顔を暖炉の火で照らしながら、

安酒を振り回して野次を飛ばす。


ほら吹きイゴジェもいつものように、ひげをひくつかせて小さく笑った。


「今日もまた、おまえは何にも知らんのにゃ。

 農具の直し方と蹄鉄の打ち方、火の熾し方と鉄の打ち方しか知らにゃい、

 しがにゃい鍛冶屋にゃ。

 でも、おまえはそれで良いのにゃ。

 おまえの世界は炉と金床の上で、

 天体の運行や世界の姿は、そこには立ち現れにゃいのにゃ。

 おまえの見るものが、おまえの世界だからにゃ。

 おれの世界とおまえたちの世界は、

 交差しつつも並行する複数の解釈の線にゃのにゃ」


トマスは――これもまた、いつものように――

イゴジェの話す意味が分からなかったが、

さも納得したかのような顔をして、酒をあおった。

この猫は、どうせ自分が思う事を喋りたいだけで、

他人がその意味を理解しているか否かには、ちっとも関心がないのだった。


 いにゃ、と、イゴジェは続けた。


「そう”思われていた”という言い方は、不適当かにゃ。

 当時は、そう”だった”のにゃ」


 イゴジェは、さも大儀そうに大きな欠伸をした。目は、笑っていなかったが。


「つまり、それはどういう意味かね?」


 修道士のジョンが隣のテーブルを立って、イゴジェの近くに腰掛けた。

 右手に持ったレンズ豆のスープが木皿から零れ、修道衣を汚す。

 ジョンは卑賤の出で、教会改革に賛同した為、

 こんな辺鄙な土地に飛ばされたと噂されている。

 自然、民衆に近い人物で、

 教義に触れるようなイゴジェの与太話も、笑って聞いていることが多い。


 イゴジェは、細目をさらに細めて、蛇のように笑った。


「世界は、認識される以前には存在しにゃい、ということにゃ。

 我々が見たものが我々の中で現前する世界であり、

 実存する世界を我々が認識するわけではにゃい、のにゃ」


「……ふむ」


 修道士が黙って考え込んだのを見ると、イゴジェは再び口を開いた。


「それで、あの時代には、世界は確かに”そう”だったのにゃ。

 後世の学者が何と言おうと、世界は確かにそのようにゃ形で語られていたし、

 あらゆるものはその枠組みの中で語られるべきであったのにゃ」


「だから、認識上の言い方をすれば、このように言うことも出来るのにゃ」







「”昔、世界は90度傾いていた。この先、世界はもっと傾くだろう”」







 たちまち、酒場中から素っ頓狂な声が上がった。

 なんだかんだで皆、この猫の与太話に聞き入っていたのだ。


「なにさ、傾いていたって……

 それじゃ昔の人は、どうやって立っていたのさ?」


「おいおい、馬鹿を言うな。儂の祖父はフィレンツェの生まれじゃが、

 あの地の遺跡も、真横にはなっておらんわい」


 商売女のマリーと徴税請負人のマシューが、殆ど同時に詰め寄ってくる。

 イゴジェは、この二人が嫌いだった。

 マリーには学がないし、

 マシューは小手先の知識をひけらかす小才子に過ぎない。

 二人とも、他人の話を正確に聞かず、自分の受け止めた通りに理解して、

 一方的に姦しく騒ぎ立てるだけなのだ。

 現に彼らは、イゴジェの言葉を字面の上でしか捉えていない。

 けれど彼らの振舞いは、先程のイゴジェの言を率直に体現していて、

 そのことが寧ろ、イゴジェの気分をひどく害していた。


 イゴジェが素知らぬ顔をしていると、

 しばらくして考えを纏めた修道士が自説を展開し、

 鍛冶屋が野次を飛ばし始めた。

 すぐさまジョンの説にマシューが食ってかかり、マリーがそれを囃し立てる。

 やがて、イゴジェの与太話は、酒場全体を巻き込んでの大騒ぎに発展した。


 イゴジェは、誰にも気付かれないように樽から飛び降り、

 小窓を潜って酒場の外に出た。

 ついでに林檎を一個くすね、腐っていたやつを樽の底に押し込んでおいた。

 騒然となった酒場を背に、イゴジェは、飄々とした足取りで歩き去っていく。

 大騒ぎも朝になれば収まり、人々は、

 「また、あの”ほら吹き猫”にしてやられた」と苦笑いを浮かべるだろう。

 彼らの世界はそれで良く、それを良いものとして世界が作られる。


 イゴジェはそれを分かっていて、分かっていて、

 しかし、呟かずにはいられないのだ。






「可哀想にゃ人たち。この世界はもっと傾くのに。上に、上に、上に」






 猫は、やがて辻に姿を眩ませた。








――これは猫も知らないことだが、世界は今も傾き続けている。

 いつの時代も人々は、傾く世界の上で水平な地平に立っていて、

 振返ることでしか傾きを認識できない。

 然るに、世界は常に傾き続けていて、

 それ故に、水平を保ち続けることができている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『新時代より』 白檀 @luculentus

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る