4-3
建物を出た直後、ミモリが取った行動は単純だった。
振り返るなり、今出てきた会社の看板に向けて、中指を勢いよく立てたのだ。もちろん詰め所から退屈そうにしていた警備員が見ている。でも彼女はそんなことにはお構いなしに、
「ばぁか!」
何とも分かりやすい。僕は苦笑いをこらえながら煙草を咥える。営業の間中、彼女がまるで十歳も成長してしまったように思えたけれど、こうしてモードをスイッチすれば、成る程小娘だ。
「ああ、もう腹立つ! 全部承知で値段吊り上げようとしてたんだよ、あいつ!」
「あいつって……」
「いいのよ、もう。二度と会うことはないし。これっきりだよ、取引」
「え、そうなの。今回のこと、内緒にするんじゃなかったっけ」
「そんなわけないでしょ。契約書も交わしてないし。立派なルール違反、組合の横の連携を踏みにじる真似をしたんだから、全部爺ちゃんに報告するよ。その後どうなるかは知らないけど、今後の取引先からは外れるよ、絶対に」
「怖い話だ。僕には縁がないね」
「でも、シラユキがヒントくれたおかげで、交渉が短く済んだし、こっちの勝ちに持って行けたよ」
僕は肩を竦めた。いい匂いがどこからかする。これは麦を茹でる匂いだ。そういえばお昼がまだだっけ。
「余計なことをしたんじゃないかって気がする」
「そんなことないよ、助かった。ほんと、ありがとう。何か奢るよ」
「本当に? それじゃあご馳走になろうかな」
手近なレストランで、二人してパスタの大皿を頼む。といっても、そのほとんどはミモリの胃に消えるのだけど。
フォークで一気に四分の一ほどの麺を持っていきながら、ミモリ。
「それにしても、シラユキ。よく軍用機の部品なんて覚えてたね。あれ、相当細かい型番だよ。民用機なら必要があるから覚えるけど、それが軍に使われてるかどうかは流石に知らないもの、あたし」
「知るわけないじゃないか、そんなの」
「へっ」
ミモリが目を丸くする。まるで突然、僕がそこから消失したような顔だ。
特に軍用機の部品なんて、目にする機会は皆無だ。パイロットであっても専門的すぎて整備士に任せる。部品の形ならともかく、型番なんて知るものか。民間のメーカが請け負うなら連絡機かと思って、適当に言っただけだ。
「ただ、どこの会社も抜け駆けしたくなるほど魅力的な取引先って言ったら、企業軍だから。まあ、同じ奇跡をまた期待しないでくれると助かるかな」
何だかついひと月前にも同じようなことを言った気がする。生きるっていうのは、そういうことの連続だ。それをひと繋ぎにすると人生とかいうものが出来上がる。
ミモリはしばらく口を開いたり閉じたりして、何かを言おうとしていたが、途中で諦めたのかため息を深く吐いた。
「……いやあ、助かったは助かったけど、どこかで折り合いをつける話ではあったから、予想より損をしなかった以上の意味はないよ。もちろん、それはそれで大きいんだけど」
あっさりと言う。それは彼女なりの、僕の言葉を踏まえた上での気遣いなのだと分かる。まだそんなに長い付き合いじゃないけれど、彼女は僕が嫌うものを、だいたい分かるようになってきた。それはありがたいことなのかと言われると、何とも返答に困るけれど。
つまるところ、多大な成果を挙げる人間だと認識されること、それを僕は嫌うらしい。期待を嫌うのだろうか、注目を嫌うのだろうか。ともかく、一度の偶然、一度のラッキィを基準に期待をされるというのは、非常に厄介なもので、次も同じくらいの成果を挙げることを、常に求められるようになる。
特に戦闘機乗りにとって、ビギナーズ・ラックを発揮した奴が長く生き残るというのは、まずない。大抵は過信という余計な貨物を背負って飛んで、簡単なミスをして早死にする。最初が肝心とはよく言うけど、最初は失敗するくらいでちょうどいいのだ。まあ、ビギナーズ・ラックに恵まれなかった奴は、最初の失敗で死ぬのがほとんどだけど。
さて、本当にそうだったっけ。
僕はフォークを置いて考える。もちろん答えは出ないのだけど。こうした、ふと浮かんだ記憶らしきものに基づく情報を精査しようとすると、途端に記憶そのものがあやふやで掴み所がなくなる。浮かんだ情報だけでも思い出そうとしても、もう駄目。水に溶けた砂糖菓子のように、さあっと消えていってしまう。どこかで澱のように溜まって、何かの形を成しているのかもしれないけれど、今は何も分からない。
コーヒーが来たので、それを飲む。もうほとんど満腹だった。
オフィス街の街並みは綺麗に整えられて、ミニチュアのジオラマに顔を近づけているような非現実感。こうして窓際のガラス窓に座っていると、自分がケースに収められたマネキンになったみたいで落ち着かない。外を歩く人の数は多いのに、こちらに目を向ける奴は皆無だ。飾られているのに見向きもされない人形には、どんな価値があるのだろうか。
有線の音楽。
軽やかなダンス向け。
ざわめきが煩わしく、僕は人々の隙間を縫って飛行。
どこに向かうのだろう。
ただ飛ぶだけ。
視線を感じて顔を前に向けると、ミモリの注意深い目にぶつかった。
その、茶色の瞳がくりっと動いて、少し下を見る。
僕はテーブルに置かれた自分の手に気づく。
右手は、操縦桿を握る形をしていた。
知らない間に、またどこかに飛んでいたらしい。
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