光の届かない場所 27
深い闇の中で、タジは息をひとつ吐いた。
それから酸素を求めて息を吸おうとすると、なぜかそれができない。器官に冷たい水が流れてくるのを感じて、タジはそれ以上呼吸をするのを諦めた。
しかし、体内に流れてくる水は、なぜか息苦しさを感じない。
「どういうことだ……?」
恐る恐る、空気を吸い込むように液体を気管に侵入させていく。
気を失っているうちに呼吸困難で起きなかったことを思えば、その理由は明白だった。
塩辛いのは、それがきっと海水だからだ。食道から胃へといれてしまえば、あっという間に塩分過多になるだろう量は、しかし肺胞に入ってなぜかそこからわずかな酸素を絞り出した。
肺呼吸が、水中に適応している。
さすがにその事実には驚いたが、タジの体が起こした窮余の変化だったのだろう。真っ暗闇の中にいるから、その姿がどう変化しているかは分からない。しかし、これだけ大掛かりな体内の変化が起こって、それでも外見に一切の変化がないと考えるのは、少し都合が良すぎるような気もする。
「とは言っても、あまり人間離れはしたくないがなあ」
約束の彼女と出会ったときに、己があまりに醜く、人間から遠ざかった外見になってしまっていては、向こうも委縮するだろう。そればかりが不安だった。
いや、とタジは思い直す。
俺と彼女は、そんな外見の変化ごときで心が醒めるような間柄じゃない。互いに心酔し、正気を失って、ありとあらゆる愛を語って、最後には来世を約束した仲だ。
「人でなくなっても……彼女はきっと俺を見つけてくれる」
水中で、体を翻す。
体が重たく感じられるのは、肺に空気ではなく水が入っているからだけではないように感じられた。舌に触れる海水の味が、ミレアタンを倒す前よりずいぶんと塩辛くなくなっている。
それだけではない。
凪状態の海は、その場に留まっていると、数分もすれば自身の体温と周囲の海水の温度は溶けあって同じくらいの温度になっていた。
それが今この場においては、常に自身の温度よりも低い水温がタジを洗う。翻した体が重く感じたのは、体温が低くなっているのと、海流の復活によって水中の塩分濃度が薄くなったからだ。
「つまり、ミレアタンは単なるエネルギーそのものになったんだな」
意思を失った力の流れは、ただ力としてそこにあるようになった。
しかし、タジが手にしたはずの漆黒の正四面体は、そこにはない。タジの持つ力は漆黒の正四面体とは別種の、ある種相反する力であるため、それを吸収して強くなることはあり得ない。
あり得ない以上、どこかにやってしまった、と考えるべきだ。
「しかし、この暗闇の中で探すのか……?」
ガルドの中から出てきた漆黒の正四面体を、泉近くの地面深くに埋めたことを思えば、ミレアタンの持っていたそれもまた、海の奥底にそっと置いておいた方がよいように思える。
再び海流に意思が宿る、ということはないだろう。魔神とやらが失敗に寛容で、敗れた者を再び世界の管理者と豪語するような存在にするという事がない限り。
ミレアタンとの戦いは、終わった。
これで、このまま海を行ける。その果てにいるというディダバオーハに会いに行ける。
ただ、海流に乗って闇雲に海を行ったところで、果たして魔神の住処に行けるのかどうかははなはだ疑問だ。
どうすべきかとタジが逡巡していると、目の前に光の粒が一点現れた。
その光の粒は、夜空に浮かぶ一つの小さな星のようにまばたきし、今にも消えそうなほどに弱々しい。
「とにかく、今は何か目印が欲しいよな」
タジはその光の粒に向かって泳ぎ始めた。
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